「ウフコック(半熟)の意味が見えてきたな」マルドゥック・スクランブル 燃焼 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
ウフコック(半熟)の意味が見えてきたな
オープニング、バロットの死に関する発言から爆発、そして目覚め、と前作「圧縮」と同じ構成の始まり方は良かった。しかしその意味するところは全く違う。
「圧縮」で死んだほうがいいと言っていたバロットが生きる価値を見出だして本作の最初のセリフ「生きたい」に変わった。
孵化直前の卵であるバロットがこの段階で生まれたかどうかは断定できないが、この後、楽園で禁断の果実を口にし(実際に何かを食べるわけではないが)無垢さを失い恥じらいを覚え、と同時に死の存在を知って楽園を出たウフコックの話を聞く。
生きるとはそれすなわち死を理解することだ。そして未来を自分で選び取ること。
不死に近い、楽園に住む万能の人たちはあらゆる事を忘れ、選択を忘れ、生きていることから遠ざかっているように見える。
それにしても前作からずっと続いていたバロットのフルヌードがここにきて意味があったとは驚いたぞ。
自我がない屍のような存在には服など不要だったのだね。選択を開始したバロットは無垢と無知を卒業し恥じらいを覚え、この後「生き方」を学んでいくことになる。
終盤のカジノで、「生き方」をバロットにレクチャーしてくれるのは、美しい羽ベル・ウイングだ。羽、卵から孵った鳥、本物の大人。
彼女を見て学びたいとはバロットの選択だ。生き始めたバロットは選択をする。
生き方を学ぶとは選択の仕方を学ぶということ。
ベル・ウイングの教えはいたってシンプル。右回りか左回りかだけだ。つまり、時計の針を逆に回すなということだ。
右に回り続けるバロットを見てベル・ウイングもまた選択をすることになる。今までで右にも左にも回らず止まっていたものが選択によって動き出す。ベル・ウイングが羽ばたいたのだと思いたい。
アクション押しだった「圧縮」から一変して本作ではセリフの応酬とサスペンス映画のようなスリリングさ押し。全く違う作品のようだ。
しかし前作からの卵推しは一層強くなった。いきなり卵型の空中要塞登場で名前がハンプティだもんね。カジノも卵だらけで面白かった。
それにしても、既に三分の二が過ぎたというのにストーリーの軸は見えないままで少し不安になる。シェルの記憶?証拠?ああそんな話だったねってな感じなのだ。
でも何故か面白いのだから不思議でもある。
念のため書いておくけれど、本作は三部作の真ん中で、少なくとも前作「マルドゥック・スクランブル/圧縮」を観ていないとさっぱり意味がわからないので注意。
バトルの途中から始まってカジノの途中で終わるのだから大概ひどいよね。
ネタバレなしのつもりで書いていたけれどネタバレっぽくなったのでついでにボイルドのことも書いてしまう。
「圧縮」のレビューで、ゆで卵のボイルドは完成された大人という見立てをしたが、どうやらそれは間違いだったようだ。
妻の見立の通り、卵は子どもで肉は大人のようだ。ミディアムやウイングが肉だから大人だね。
そうだとするとボイルドもまだ子どもということになる。
ボイルドの過去の中で、彼は選択しろ選択しろと迫られる。そして選択する。
しかし半ば強制のような選択は本当の選択といえるのだろうか?
決まった選択をさせられ続けたボイルドは暴走した。本当の選択をさせてもらえなかった彼はカチカチに茹でられた堅ゆで卵。
ある意味、生きる意味も価値も失っていた「圧縮」前のバロットと同じ。
ボイルドがウフコックに執着するのは、彼がボイルドの生きる意味だから。
バロットの暴走を許すウフコックに憤るボイルドだが、選択した暴走と選択を止めた末の暴走では全く意味が違う。そのことにボイルドは気付いていない。
ボイルドとバロットの違いと言えば、前作からしきりにいっている「有用性」がある。
ボイルドとウフコックは自らの有用性を示そうとしている。生きる事を許されるために。
しかし生きるとは本来、許されるようなものではない。誰だって生きていていいんだ。
現にボイルドやウフコックと同じような存在であるバロットは有用性を証明しろとは言われない。ただ、子どもを教育するように、力を悪用するなとだけ言われる。
選択を止めたボイルド、まだ選択していないウフコック、選択を始めたバロット、卵たちのスクランブルは続く。