赤い靴 : 映画評論・批評
2011年6月28日更新
2011年7月2日よりユーロスペースほかにてロードショー
半世紀後もなお踊り続けるのは「黒い白鳥」ではなく「赤い靴」に違いない
嗚呼、やはり今の映画は退化しているのではないか! そんな思いに駆られるほど、踊りまくる深紅の靴に磨きの掛かった63年前の名画は、鮮血が吹き出すかの如く襲いかかってきた。張り詰めた空気。バレエに懸けるプロデューサーとプリマと作曲家のパッションが交錯する。
果たして定説通り「人生か芸術か」の二元論に引き裂かれるプリマの悲劇が主題なのか。ロマンス描写にエロスはなく暗鬱としている。視座は、感情に溺れる者など本物ではないと断ずる冷徹なプロデューサーに在る。「至高」を目指して命を削り、その激情の奔流から弾き飛ばされた、後ろめたさとしての愛。美の高みに近づいても登頂し得ない、人間生理の虚しさこそテーマだ。しかし、不完全な人間にしか芸術は生み出せないのだから悩ましい。
キャメラを通過した「跳躍と回転」の舞は、厚く盛られた油彩の幻想画へと昇華する。撮影監督ジャック・カーディフがフィルムをキャンバスに、光と色と速度で描くテクニカラー芸術の極致。映画とは、身体性の煌めきを映し出すメディアであることを改めて認識させてくれる。
揺るぎない古典は解釈に奥行きを与える。人を爪先立ちで浮遊させ、破滅を迎えるまで脱げない狂気の靴。3・11後、それは20世紀から興隆した文明の化身にさえ思えてくる。2011年の映画界を席巻しているのは「黒い白鳥」という個人の闇だが、さらに半世紀後もなお踊り続けるのは、人を魅了する「赤い靴」という普遍的な衝動のメタファーに違いない。
(清水節)