劇場公開日 2011年10月8日

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「なかなかよかった」ツレがうつになりまして。 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5なかなかよかった

2025年6月10日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

2011年と少し前の作品
当時の大々的なPRを見過ぎたためか、ずっと見るのを躊躇っていた。
そしてどうやら見るタイミングになったようだ。
当時の邦画は、モチーフやテーマなどがはっきりしているのが特徴だろうか。
この物語のテーマは明々白々で、おそらく作家の体験談として事実が記されている。
ただ、イグアナというモチーフについては明確にされてない。
この部分がこの作品の面白いところで、言葉にできない「何か」を無言で変化しないキャラクターとして表現している。
何も考えなくていい。
腹が減ったら食べるだけ。
悩みもない。
ただ生きているだけのように見えるイグアナを羨ましく思うツレのミキオ。
ミキオはこのイグアナに話しかけることで自分自身の本心を探ろうとしている。
心の整理とか、癒されたい想い。
物語にもあるように、鬱は誰でもかかる宇宙風邪のようなもので、日頃のストレスがこの「自力ではネガティヴな感情を変えられなくなること」のようだ。
実際このような病気は多発していて、もしかしたらコロナのように多数いるのかもしれない。
この物語では発症と再生が描かれている。
そしてその要因は「気づき」による。
心の病気だから、病気にしている要因は思考なのだろう。
「誰でも」そうなる可能性がある。
そしてこの病気を治すには「気づき」がなければならないのだろう。
この気づきというものは本当に鬱陶しく思う時がある。
個人的には好きな言葉でもあるが、気づきだけはタイミングがやって来なければ得られないようにも思う。
努力しても、苦労しても、悩んでも、気づきがやってくるとは限らない。
誰に何を言われても、自分自身が真にその「何か」を理解しなければ無意味だ。
非常に面倒くさい。
特に鬱になってしまえば、いったいどうやって気づきにたどり着けばいいのだろう?
気づけない場合、あの理髪店の客のように自殺する可能性が高いのだろう。
どうでもいいがあの理髪点は短編映画「点」と同じだった。
そして天井のシミ
それは心の澱でもあるように思う。
だから見る人によって何にでも見える。
ミキオとハルコはそのシミがイグアナに見えた。
でも客の「次男坊」にはいったい何に見えたのだろう?
あの時、まだ何も心配することもなかった時代 ずっと変わらない実家での思い出 楽しかった出来事や友達 そんな他愛もないあの日の出来事がシミに重なって見えたのだろう。
同時に感じる今現在の自分 情けなさと恥ずかしさと苦しみ。
あの変わらない風景を見ながら人生に終止符を打ちたい。
そんな思考が、自殺へと導くのだろう。
鬱になっていく過程
それは日常
ミキオにとって客からのクレームを受けることは確かに苦しいことだったに違いない。
当時は「お客さまは神様です」がまかり通っていた時代だったかもしれない。
ゴミと自分自身を重ねてしまう。
いらないもの
逃げ場のない職場
物語ではミキオの几帳面さに対する警告があった。
いつもローテーションばなければならない。
当時活躍していたイチロー選手と彼のいつものローテーション
2011年は彼の連続10年200歩何打が途切れた年
打撃不振や精神的なストレスに悩まされ、「心が折れた」と語るほどの苦しいシーズンだった。
ミキオのローテーション 自分自身が受け付けなくなっていた。
みんな無意識にイチローを見習い、彼と同じように「衰え」や「変化」と向き合うターニングポイントが来ても、プロ意識や自己管理の高さは変わらず、多くのファンに感動を与えなければならないと、思っていたのではないだろうか?
それこそが正しいと考えたのではないだろうか?
ハルコは「頑張らない」ことにした。
彼女なりに鬱を調べて出した答えだった。
「普通」だと思っていたハルコだが、友人がイラストの個展を開く会場へ入ることができなかった。
きっとそれは、夫の鬱病を恥ずかしく思っていたからで、それこそ「誰にでもある」感覚だろう。
このような積み重ねが鬱を引き起こすのだろう。
「結婚同窓会」なるものは少々変な設定だったが、自助グループを置き換えたのだろう。
つまりアルコホリックアノニマス(A/A)と同じ。
自分自身のことを話すことと、誰かの葛藤を聞くことで自分自身を取り戻していく作業。
ミキオにはとても大きなこだわりがある。
名前 髙と高を混同しないこと。
このこだわりが自分自身を苦しめるが、この物語ではそれを取り除こうとはしない。
むしろそれを受け入れることが大切なのだろう。
ハルコは言う。「鬱になった原因ではなく、鬱になった意味を考えている」
こういうのが気づきのひとつなのだろう。
そうして最後は「誰かのため」ではなく「自分のために」
納豆嫌いな妻のために納豆を食べないでいたこと。
他人への気遣い。
行き過ぎれば、壊れてしまう。
特に日本人はこの傾向が強いように思う。
エスカレーターの片方を開けるべき
エレベーターで降りる際に「閉」ボタンを押すべき
電車ではしゃべらないべき
このようなことをメディアが煽っているように思う。
鬱になるためのネタは尽きないのが現代社会の構造
鬱になってからの再生
これこそ今の日本の喫緊の課題であると思うが、意外に取り上げられない。
このような作品はそんな社会問題を明確化してくれる。
割ときれいな感じでまとめられているが、実際はもっともっと深刻なのだろう。
鬱に切り込んだことに、意味はあったと思う。

R41
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