アンチクライストのレビュー・感想・評価
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めんどくさ
この監督の撮る映画のオンナ、みんなめんどくさ。
いきなりオープニングがらめんどくさい映像で神秘的だろ?と言わんばかりの鼻で笑いたくなるような映像が5分くらい続く。
引っかかってはいけません。いい訳みたいなモンなんで。
心を病んだ妻を一番恐ろしい場所で、その場所を克服することで立ち直るというセラピスト。へえ、オレ分かんねえや。
ところが妻は恐怖を克服したと同時に、騙し騙しで生きてきたことにも理性のタガが外れ、開き直りの頂点に達する。おーなんか分かるぞ。
オレはキリスト教のことなど全然分からねえ。
しかしアオカンをすれば達する境地はある。
アオカンの境地。
自然との融合、理性への背徳心が、エクスタシーに達したあと襲ってくる。
精神は実にバランスがとり難い。(ほかの人は知らん)
自然は悪魔、オンナは悪魔だという、魔女狩りの論文を書いていた妻の達する境地は実はそこからでも理解しようと思えば出来る。
キリストを演じたことのあるデフォーにセラピスト、ふしだらなヤツの娘ゲンズブールに「オンナは悪魔」とおっしゃるこのオンナ。
その境地をこの役者2人に演じさせたことが内容どうたらよりもまず非常に面白かった。
内容?エロというんはちがうなあ。
自然の中でのエロはヘンリー塚本氏にまかせておけ!
アンチ宗教
宗教とは何? 神の存在は人間の尊厳をも超えるのか?
キリストを崇めようが蔑視しようが、
仏陀を信じようが信じまいが、
アッラーを崇拝しようが忌避しようが、
そんなことなど、どうでもいい
勝手に本人だけが祈ってればいい
権力と同様、宗教的「権威」も腐敗するのが、人間の世界である
俺たちが正統派だとか、お前らはアンチだとか
ある時は定義したり、ある時は論じたり、またある時は破折したり
聖書にはこう書いているとか、経典にはこう書いているとか
だから、こうしなくてはいけない
だから、これをしてはいけない
所詮人間が作り上げた 単なる規範である
たちが悪いのは、それを神格化して他人に強要すること
たとえスタート時点では正しい宗教・教えだったとしても
その規範が人を縛り、国や権力に利用され、悪にまみれていく
宗教の名の下に、どれだけの人が56され虐待され犠牲者が生まれたかを考えると
たとえ本当にお導き・御利益・ご加護・功徳等があったとしても
たとえ一部に救われたと信じて疑わない人がいたとしても
敢えて言うと 「人間に神仏など必要ない」
そう改めて思わせる映画だった
まぁキリスト教関係者からすれば、こんな性的倒錯者の常軌を逸した言動を
アンチ等と言った言葉で「キリスト」と結びつけたり汚したりするな!
と、思うのではないだろうか
聞いたことのない北欧理事会映画賞やロベルト賞を受賞?
カンヌ国際映画祭で上映?最低賞を受賞?
笑える
物議を醸したり、賛否両論で揉めたりすること自体も馬鹿馬鹿しい
内容は、ただただ不気味
映像が美しかろうが カメラワークが斬新であろうが
演技・演出が素晴らしかろうが
こんな映画はいらない
少なくとも自分には必要ない 過去いち無駄な時間だった
女性が受ける残虐行為はそもそも女性に内在する残忍性と実は表裏一体なのだと言いたいのか?
ダンサー・イン・ザ・ダークで懲り懲りだったランス・フォン・トリアー監督の2009年公開のこの映画を渋谷にインド映画を観に行ったら、魔が差して見てしまいました。別にサービスデーでもない平日のヒューマントラスト渋谷。ほぼ満員の盛況ぶり。
変態さんいらっしゃ~い。
それにトリアー監督の映画を期間中に十作品ほど制覇するスタンプラリーなんかやっていて、コンプに夢中な方もかなりいらっしゃって、強いなぁと感心しました。
真面目なホラー映画は洒落にならん。
セックスに夢中になっている間に一歳半ぐらいの可愛い盛りの一人息子が窓から転落してしまうプロローグのカット割はなかなか映像作品としてオシャレでよかったのですが、章ごとに分けられた展開は理解しがたい。
ウィルム・デフォー54歳ぐらい、シャルロット・ゲンズブール48歳ぐらいの撮影でしょうか。妻の淫乱ぶりにも呆れますが、それにすぐさま対応できる夫にも呆れます。
カウンセラーの夫とその妻。長く入院している妻と不思議とサバサバしている夫。悲しみの受け入れから克服の長い過程を手厚くサポートする展開なのかなと思いましたが、変な夫の誘導で余計におかしくなってゆく妻。夫に勧められ、あのエデンの森公園の山小屋で息子を連れて、論文作成をしていたらしいのですが、屋根裏の禍々しい資料は魔女狩りなど女性が受けた虐待モノばかり。サディズムとマゾヒズムは表裏一体?夫は君の資料集めが片寄っていて、それを全部引用しようとするのが悪いとか言うものの、あんたの指導もおかしいだろって思います。あんたたちもう別れなさいよ❗
突然、股間をブロックで殴打し、強制血みどろ手コキ射精からの大きな重い電動砥石をドリルで貫通させて足枷にして、わざとレンチ🔧を軒下に隠す行動を取る妻。しかも、ハサミでじぶんのあそこをFGM。抑圧され続けたためなのか、もともと彼女に備わっていた狂気なのか、どっちにしても異常過ぎて、訳がわかりません。そして、足枷を引きずってタヌキの巣穴みたいなところに入っていく夫も訳がわかりません。穴の中でマッチを擦ると穴の土の中からカラスが出てくるのも訳がわかりません。
ウィレム・デフォーとシャルロット・ゲンズブールの組み合わせ。凄く気持ち悪いです。お母さんのジェーン・バーキンは素敵だったんだけど、彼女は痛々しい。日本だったら柄本明と大竹しのぶでしょうか、こんな狂気の芝居を受けて、やってのけそうなのは。
つらく 重く 暗い 痛い
賛否両論 ブーイング
不快などいいことが聞こえてこない作品
ずいぶん前の作品なのですね 勇気を持って観ました
ウイリアム・デフォーが夫役なのですね
こういう作品にも出演するとは!!
妻にはシャルロット・ゲンズブール
あの「なまいきシャルロット」の女の子が
今や大人の女性
でも面影があっていまだにかわいい
夫婦がセックスに興じている間に赤子が起きて
なんと窓から落ちて死んでしまう
これはやばいでしょ。トラウマものでしょ。
子を持つ私にとって こんなことがあっていいものかと思った
監督は残酷な話をつくる
夫はセラピストで悲しみに沈む妻を
立ち直らせようと妻にカウンセリングを始めるが
ちょっと待って夫である自分も子どもを失って悲しいはずだろうに
妻にカウせリングが出来るのかと観ていて思ったが
そして妻がよくなるどころかどんどん悪くなり
ついには狂気に走ってしまう
その映像が残虐で恐ろしかった
しかし人間は残酷な行為も時には起こしてしまうのかもしれない
彼女の自分を傷つける行為もとても怖くて恐ろしかったが
子どもをなくした苦しみからあのような行為に走らせたのかも
知れない
夫は良くなるはずだと思って行ったことが
まさかこうなるとは思わなかったろう
ウイリアム・デフォーにシャルロット・ゲンズブールが
よくこの作品を選び 演技をしたというのが
凄い!拍手を送りたい
でもやはり強烈な作品だった
作品としては考えさせられるところでいい作品かもしれないが
どうも つらくて
星は少なめだ
女嫌い
ラースフォントリアーだから見たが
正直よくわからなかった。
思えばこの監督は女を死刑にしたり娼婦にしたり奴隷にしたり、と女が嫌いなのだろうか...。
それにしても、痛そうだった笑
きっつくて、すばらしい絶望でした。
西洋の文化の中に生きてもう10年近くいますが、キリスト教を肌で感じれば感じるほど、この映画を思い出させられます。
自然は悪、理性は善、そういいきってしまうキリスト教と、自然と気っても切れない関係にある女性たち。現在のきれいごとで言えば女性の中も自然も美しいものとして受け止めたい、、、しかしところがどっこい世の中そんなに甘いものではないわけです。とにかく女が己のなかの本能に翻弄されて狂いまくり、男も死に掛けて初めて、自分の対峙していたものの強大さと恐ろしさに気づきます。
自然は美しい、自然と共存を、などと甘いことを抜かすこと自体、その力を見くびった人間のおごりであったわけです。自然をコントロールしようなどとはもってのほかです。
人間であることへのただ深い、深い絶望をあじあわせてくれる映画でした。
女が罪を犯した場所
愛の行為の最中に幼い息子を事故で失った夫婦。哀しみと罪悪感で心の均衡を崩す妻。セラピストの夫は自力で妻の心の病を治そうとする。得体のしれない恐怖に苛まれる妻を、恐怖と向き合うことで克服できるとし、妻の恐怖の一対象である森へ連れて行く。その森の名前は・・・エデン・・・。
私は妻の罪悪感の原因は、自分自身の快楽の最中に子供を失ってしまったことだと思っていた。当然夫もそう思い相応のセラピーを行う。今回のようなシチュエーションの事故は容易に起こりうる。夫婦は悪いことをしているわけではない。もちろん、ベビーベッドの鍵を子供が開けられないものに変えておくとか、窓を閉めておくなどのちょっとした注意が必要だったということはある。その点では親が不注意だ。しかしだからといって精神を病むほどの重い罪悪感にいつまでも苦しむことはない。だから夫は必死で妻の心を治そうと努めるのだ。
だがそうだとすると妻の行動にどうにも腑に落ちない点が出てくる。もし彼女が自分の快楽の為に愛する息子を失ったと思っているのなら、おそらくその行為自体に嫌悪感を抱くのではなかろうか?しかし妻は、治療の妨げになるからダメだという夫の体を執拗に求める。何故だろう?心の隙間を埋めるためか?それにしてはあまりにも常軌を逸しているではないか。これが今回トリアー監督の仕掛けた罠だ。
妻が嫌悪したのは行為そのものではなく、彼女自身の性だ。本作には夫婦が魔女あるいは魔女狩りについて論じるシーンが登場する。この“魔女”が本作のタイトルに繋がる重要なメタファーだ。妻の恐怖の真因は自らの性の中にある魔女性だったのだ。妻は夫を愛するあまり(精神的にも肉体的にも)、邪魔になる子供を殺したのだ・・・!実はこれが彼女の罪悪感の根幹だったのだ。
この森は魔女として狩られた(自ら進んで狩られた)女たちの魂の集まる所。妻がここに恐怖を感じるのは自分の魂が彼女たちの魂と呼応する場所だから。そしてついに妻はこの場所で、自分の中の魔性を呼び覚ましてしまう。
戸惑いながらも確固たる信念を持って冷静さを保とうとするデフォーの抑えた演技と、半裸のゲンズブールの鬼気迫る演技との息づまる攻防。ヒリヒリと神経を焼く緊迫感に観ているだけで息も絶え絶えになる。トリアー監督の描く絶望はいつも生々しい。
妻の魂を森に解放してやった夫が、そこで見たものは犠牲になった子供たちの無垢な魂だ。この荘厳なラストシーンが語るもの、それはこの森の本来の姿だ。エデン・・・女が初めて罪を犯した場所。彼女たちが犠牲となった子供たちの魂を偲ぶ「殯の森」・・・。
期待以上に重い作品
静寂と叫び。男と女。静と動…
いろんな対比を感じさせながらストーリーは進んで行く。
全編通して重苦しい雰囲気。
精神的な絶望を受けた「女」と、肉体的な絶望を受けた「男」。
タイトルの通り独特な宗教観。
ただ終盤からエンディングは雑な脚本を感じた。
箔付紳士、暴発中
「奇跡の海」などの作品で知られるラース・フォン・トリアー監督が、ウィリアム・デフォー、シャルロット・ゲンズブールを主演に迎えて描く、人間ドラマ。
「タガ」が外れてしまった人間ほど、面白いものはない。それまで自分を抑えつけていた制約から解き放たれ、もう欲望と野望の赴くままに突き進む疾走感と、幸福感。それが、激しい表現への情熱と技術をもった芸術家ならばなおさらである。
自らの過ちで我が子を殺してしまった罪悪感に苦しむ妻、彼女をどうにかして助けようとするセラピストの夫。衝突と理解を繰り返しながら、絶望を超えて前へと踏み出す姿を追いかけていく・・・ような展開を予測させる本作。
冒頭に神々しく流れるミサ曲から中盤まで、いたって質素に、かつ無駄の無いシリアスな物語として機能しているのだが、中盤以降、妻が取り掛かっていた「魔女狩り」研究のくだりが出現すると、おや?おや?あれよあれよという間に、何が何だか理解できない(理解する必要も無い)混沌みなぎるエロ地獄へと、変貌を遂げてしまう。
脱いで、脱いで、叩いて、脱いで、気の向くままに刺してみる。神妙な顔をして身も心もさらけ出すキャスト二人の奮闘ぶりには大いに賞賛するべき鬼気迫るものがある。しかしながら、展開はどうにも涙よりも苦笑が溢れる変態本能丸出しの危険行為、お父さん許しませんよ!のフシダラ問題発言のオンパレード。よくぞ、劇場公開に踏み切ったものだと拍手を送りたい、配給サイドを無視した暴走である。
とにかく世間に賞賛される名誉を得るために、作風を巧妙に映画祭向きに動かしてきたといわれるトリアー監督。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で大きな箔を得た後の本性暴発作品群の最終形態となった本作の激しい自己主張は、他の追随を許さないどす黒さと旨みを生み出している。
箔付紳士の本能暴発は、これからどこに向かうのか。このトリアーおじ様の遅咲き反抗期映画には、是も非もつける余地がない。ひたすら、追いかけて行きたい可能性ばかりが、ある。
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