「魔法瓶で始まりマジックで終わる、魔法と奇跡、癒しと救済の現代の御伽噺。」バグダッド・カフェ 4Kレストア版 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
魔法瓶で始まりマジックで終わる、魔法と奇跡、癒しと救済の現代の御伽噺。
20年ぶりくらいに観たけど、やっぱり良い映画だ。
記憶にあった以上に、御伽噺のようにメルヘンチック。
田舎町に舞い降りた「聖者」が起こす、
魔法と奇跡、癒しと救済の物語。
何度か観たことのある映画だし、わざわざ無理して行かなくても良いかな、と思っていたのだが、『どうしたらよかったのか』と『きみといた世界』のあいだの時間つぶしにちょうどよかったので、シネ・リーブル池袋で観た。
結果的に、とても幸せな気分になれたので、行ってほんとうによかった。
パーシー・アドロンの映画はこれくらいしか観た記憶がないが、『バグダッド・カフェ』に限って言えば、僕の若いころはシネマ・ライズ公開だったこともあってか、「渋谷系」のイメージが間違いなくあった。でも今見直しても、別にオシャレな映画でもなんでもないよね(笑)。
むしろ、人種や出身を超えて友情を結ぶ大切さを問う本作は、今の時代にこそ真にふさわしいともいえる。
なぜ僕がこの映画を大学時代に初めて観たかというと、
実は大学で僕は奇術愛好会に属していたのだ(笑)。
本当は京大ミステリ研やワセミスみたいなミステリ・クラブにあこがれていたのだが、母校に本格ミステリ研究をメインとするサークルがなく、やむなく入ったのが奇術愛好会だった。
奇術愛好会といっても実態は結構本格的な体育会系のノリで、年三回のステージショーを通じて、そこそこ力の入ったステージを披露していた。僕は大変エキサイティングな青春をこのサークルで過ごした。
というわけで、かつての僕は『バグダッド・カフェ』を渋谷系映画としてではなく、「マジック映画」として観たのだった。
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ここでいきなりだが、僕のマジック映画ベスト10をあげておく(時代順)。
『魔術の恋』(53)(トニー・カーチス主演のフーディニの伝記映画)
『魔術師』(58)(イングマール・ベルイマン監督による魔術一座の物語)
『ヨーロッパの夜』(61)(チャニング・ポロックの鳩出しが見られることで有名)
『テラートレイン』(81)(デイヴィッド・カッパーフィールド出演のホラー)
『バグダッド・カフェ』(87)(本作)
『プレステージ』(06)(マジック監修はデイヴィッド・カッパーフィールド)
『幻影師アイゼンハイム』(06)(奇術演出はCGが多くてイマイチだが、良設定)
『イリュージョニスト』(10)(ジャック・タチ執筆脚本のアニメーション)
『俺たちスーパーマジシャン』(13)(デイヴィッド・カッパーフィールド出演)
『ナイトメア・アリー』(21)(元映画の『悪魔の往く町』にもマジシャン登場)
何度も名前の出てくるデイヴィッド・カッパーフィールドというのは、アメリカを代表するマジシャンで、ちょうど僕が大学で現役マジシャンだったころの「絶対的ヒーロー」だった。僕は有楽町の東京国際フォーラムで、彼の「フライング」の実演に触れて、文字通りむせび泣いたものだった。
『バグダッド・カフェ』で演じられるマジックは、本人が通販のマジック・セットを購入して独学で練習しはじめるくだりがあることからもわかるとおり、学生マジックレヴェルでもよく実演されるような、比較的オーソドックスなものばかりである。
多少、「カメラからは耐えているが、カフェにいる客の視点からは耐えていない(耐える耐えないというのは、隠しているものが見える見えないをさす奇術用語)のではないか」と思われるスライハンド(手先の器用さを用いたマジック)や、その照明では種が隠せないのではないかと思われる演技(とくにダンケン=ダンシング・ケーンのシーン)もあるが、基本的に1カット、カメラ・トリックなしで「本当に舞台上で実演するとおりのマジック」を実際にやっているので、大変フェアで気持ちがいい。
ざっと思い出すだけで、シルク、カップ&ボール、フラワー、コイン、腕切断イリュージョン、ダンケン、あとはクラッカーを出したり、卵を出したり。
いずれも古典的で有名なトリックではあるが、結構な練習を必要とするものばかりで、彼女たちが師匠もなしに短期間で人に見せられるレヴェルで習得するのは非現実的だし、一般の観客に毛花を渡してしまうのもどうかと思う。その後のステージ・ショーに関しても、とても素人レヴェルではない演出と衣装が導入されていて、実際はいろいろ嘘くさいところがある。
ただ、そんな些細なことはどうでもよくなるくらいに、本作は「マジックの効用」をうまくつかんでいる。
英語で、奇術と魔法は同じ「マジック」。
奇術は小さな魔法だ。
さびれたカフェに火をともす魔法。
疲れた人々の心に火をともす魔法。
人と人を結び付けて幸せにする魔法。
ここでは、マジックがそういうものとして位置づけられている。
奇術って、「タネ」と「知識」と「訓練」さえあれば、だれでも「ステージ側に立たせてくれる」少し特別な演芸なんだよね。
僕みたいに、舞台経験もなければ眉目秀麗でもない人間であっても、練習さえすれば、「人に見てもらえて」「人に喜んでもらう」ことができる。ちょっと「着ぐるみ」に近い、魅力増量の特殊効果が、マジックには間違いなくある。
マジックするよってだけで、お客さんは最初からわくわくしてくれるから。
演技者以上に、タネと手先に集中してくれるから。
『バグダッド・カフェ』は、そういうマジックの本質を物語にうまく取り入れている。
肥った異邦人の女が、砂漠の最果てにあるカフェで、マジックを通じてお客さんに「小さな不思議」と「小さな幸せ」を与え、それが人と人の縁を結び、やがてみんなを大きな幸せで包んでいく。
マジックは魔法。誰でも奇跡は起こせる。
そんな御伽噺を、ドイツ人がアメリカを舞台に撮った。
それが日本で単館ロングランの記録をつくるような大ヒットを巻き起こす。
マジック愛好家の僕にとって、『バグダッド・カフェ』はやはり特別な映画である。
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『バグダッド・カフェ』は今考えると、
ずいぶんと時代を先取りするような映画だった。
黒人と白人とインディアンが手を取り合って仲良しになっていく、ボーダーレスな映画であり、「移民」や「流れ者」が地元住民に受け入れられていく幸福な映画でもある。
それぞれの夫に置き去りにされた女ふたりがカフェを再興させる、シスターフッドの映画であり、「女性版のブロマンス映画」のはしりともいえる。
それらの要素が、まったくの押しつけがましさやうさん臭さを感じさせず、アンチポリコレの僕ですらすんなり受け入れられるくらいの自然さで、物語として巧みに組まれている。
結果的に、地元民も、流れ者も、カラードも、白人も、みんなが幸せになれるある種の楽園としてバグダッド・カフェは成立し、ドイツから来たディヴァインみたいな肥った女は、ある種の「市井の聖女」として位置づけられる(息子の弾くピアノを聴くヤスミンの背後からは後光がさし、老画家の描くヤスミンの肖像には常に頭光が描き込まれる)。
砂漠にそそりたつ黄色い給水塔。
常に手元に戻って来るブーメラン。
こわれたコーヒーメイカー。
ドイツコーヒーの入った魔法瓶(マジック・ジャー)。
名曲「コーリング・ユー」。
幾多の「象徴物」に彩られて、『バグダッド・カフェ』は「伝説」となった。
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●パーシー・アドロン自身は、ニュー・ジャーマン・シネマの監督たちとはかかわりもなかったし、さしたる影響も受けていないとインタビューで答えている。ただ、ヴィム・ベンダースの『パリ、テキサス』(84)を彼が知らないとはちょっと思いにくいし、『パリテキ』でも見られた「異邦人の眼差しでとらえた幻想の国アメリカ」というテーマを、アドロン流に敷衍したものが本作だとはいってかまわない気がする。
●本作の場合、補色を強調した強烈な色彩美(監督いわく、色彩感覚についてはサルバドール・ダリの絵を意識したらしい。魔法瓶や給水塔に共通する「黄色」は「優しさ」の色とのこと)と、主題歌「コーリング・ユー」のけだるい響きによって、「幻想のアメリカ」を強調している点は見逃せない。
●「コーリング・ユー」は、今ではスタンダード・ナンバーとして歌い継がれている名曲だが、もともと「この映画のために」つくられた楽曲であり、前からある曲の流用ではない。監督の依頼では、ガーシュインの『ポーギーとベス』に出てくるアリア「サマータイム」のような曲を、という要請だったらしい(まさに異邦人から見た「アメリカ」だ)。
●「コーリング・ユー」と並んで本作を彩るのが、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」だ。カフェのピアノでブレンダの息子が弾き続けている楽曲。壁にはバッハの肖像画がかけられている。ドイツつながりの部分で、アメリカの片田舎でドイツ人女性が受け入れられていく「土壌」として、バッハ受容が描かれているのかもしれない。
単なる騒音扱いされていたピアノの練習が、ヤスミンを触媒として、美しい旋律として「化ける」瞬間の演出は本当にすばらしい。
あのとき彼は、はじめて自分のためではなく、聴いてくれる誰かのために弾いたのだ。
●旧弊を打ち払い、すべてを新しく始めることの象徴として、「掃除」が出てくるのも今風といえば今風な気がする。考えてみると、つぶれかけたレストランとかショップとかを再興させる話ってのは、『タンポポ』とか『王様のレストラン』とか山ほどあるけど(みのもんたの『愛の貧乏脱出大作戦』みたいなやつ)、『バグダッド・カフェ』もまさにその定型に乗っかってはいるんだな。
一度、劇的なまでに賑やかに変化した日常が、変化をもたらした当事者がいったん去ることで元の木阿弥に、という展開も、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアや、『美女と野獣』のベルなどでもおなじみの王道演出。
●実は、前から似た設定だなと思っているのが、シドニー・ポワチエ主演の『野のユリ』(63)。『バグダッド・カフェ』の舞台はモハーヴェ砂漠だが、こちらの舞台もアリゾナの砂漠地帯で、「東ドイツからの移民である5人の修道女」を、「車の故障でたどりついた黒人の青年」が助けて、礼拝堂を建設するまでを描く。シドニー・ポワチエは「神から遣わされた人物」として修道女たちに扱われ、冒頭は「井戸の水」から話が始まり、彼らはいっしょに歌を歌い、屋根にのぼり、礼拝堂の建築が進むにつれて、多くの地元民が援軍にかけつけてくれる……ね、いろいろよく似てるでしょ?
人種も出身も関係ないという思想や、流れ者が止まっていた時間を動かすきっかけになる流れ、登場人物全員が善意の人である点なども含めて、両作の共通点は多い。
●映画の顔としては、ヤスミン役のマリアンネ・ゼーゲブレヒトの特異な魅力と体当たりの演技(ちょっと春川ますみみたい)、それから、常にいらだっているブレンダ役のCCH・パウンダーのキャラクターが立っているわけだが、個人的にはジャック・パランスの老画家が素晴らしかった。映画のなかでも「銀幕のスター」扱いされる内輪ネタが出てくるが、まさかあのジャック・パランスがこんな役で復活するなんてね。
その他、寝てばかりのぐうたらウエイター、無口なタトゥーアーティスト、長期キャンプ中のブーメラン使い、インディアン保安官、トラッカーたちが登場する。
●画家がヤスミンを描き続けるうちに(何枚目かは裏のナンバリングでわかるw)、だんだん持っているフルーツの形状がエロティックに変容し、それに合わせてヤスミンの服が脱げていく(ヤスミンが服を脱いでいく)流れは、いわゆる「天丼ギャグ」というやつでなかなか楽しかった。ただし、大変個人的な意見で恐縮だが、ゼーゲブレヒトの裸は必ずしも見たいとは思わなかったし、より正直にいえば、あんまり見たくなかった(笑)。
なんか、ヤスミンにセクシーな恰好させたり脱がせたりってのは、この映画で「是が非でもやらないといけないこと」みたいな真剣度で取り組まれているけど、このあたり、「肥っている/痩せているなんかで女性の魅力は決定されないんだ」といった強い意見表明でもあるんでしょうかね?