チップス先生さようなら(1939)のレビュー・感想・評価
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出会いと別れ
チップス先生が着任してから引退、死去するまでの、いわば一代記である。人生の旅路で、彼が出会い、そして別れた人たちと紡いだ物語である。
とりわけ、中年を迎えてから出会った伴侶キャサリン。たった一人でも理解し応援してくれる人がいれば、それが愛する人であればなおさら、人は世界とだって戦える。
だけど、どんなに愛し合っていても、いずれは別れがやってくる。時にはとても残酷な形で。
でも彼は、亡き妻が用意してくれた習慣(お茶の会)を続け、多くの生徒に慕われる存在となった。
学校を訪れた軍人が生徒を見て「彼らは明日の将校となろう」と言った時、先生は「では明日が来ないことを祈ろう」と呟く。祈ったり呟いたりすることしか出来なくても、時代に流されてはいけない。
全寮制のパブリックスクールというのは、どこでもあんな造りなのだろうか。ブルックフィールド・スクールの大講堂は、ハリー・ポッターシリーズのホグワーツの大講堂とよく似ている。
退職を勧められた時、彼は校長の方針に対して「生徒は機械ではない」と反論する。90年前から教育問題は同じところを堂々巡りしているのかも知れない。
古き良きハリウッド映画の人情味
サム・ウッド監督作品では、ルー・ゲーリックの伝記映画「打撃王」の名作があって大のお気に入りなのだが、このジェームズ・ヒルトンの有名な小説を原作とした「チップス先生さようなら」は、1930年代の古き良きハリウッド映画のテイストが原作とマッチしていて味わい深いところが良い。元来技巧派ではないウッド監督だが、それがこの作品ではプラスに作用している。特にグリア・ガースンが現れてからの人情味豊かな映像タッチはとても好感の持てるものだ。ジョン・ミルズが生徒役で僅かだが出演。
チップス先生こんにちは!
子供時代は短く、老人の時代は長い。
祖父・父・息子と三世代の一族の子供時代を教師として見送るチップス先生。不死身かというほど長生きだ。子供だった生徒の孫が、まるで生まれ変わりのように入学してくるまでの長い歳月を先生として過ごしているのだから。
真面目一筋のチップス先生は、教師として着任当日に生徒にからかわれて、まともに指導できない。それを校長に指摘されると、今度は厳しくし過ぎて大事なスター選手の大会出場を阻害してしまい生徒たちに恨まれる。バランスの悪い大人であり、人としての幅がない。
真面目で誠実なのは良いが、バランスが悪くて出世も遅れる。
そんな彼に人生のバランスを教えるのは、山で出会った美女だ。
死人も出るような高山で、まるでハイキングに来たような顔でサンドイッチを頬張る破天荒な女性。
彼女が妻になり、真面目一筋のチップス先生にユーモアが生まれる。
厳しいだけでは人はついてこない、ユーモアこそが厳しい現実を救うのだ。
ちなみにチップスというのは妻が彼を呼ぶときの愛称で、本名はチッピング という。
そんな人生を変えるほどの最愛の人に不幸が起こる。
人生は喜びだけではなく悲しみがつきまとう。
若い頃には、悲しみや不幸を嫌い、人生がラクで楽しいだけなら素晴らしいのにと思いがち。
だが、悲しみや不幸こそが人の幅を広げるのだ。
チップス先生が人々から慕われる教師になれたのは、妻にユーモアを教えて貰ったからだけではない。悲しみが彼の人間としての器を大きくしたのだ。
成功だけの人生など、確かな重みのない安物だ。
だから今苦しい人は確かな器になるため、焼き物でいえば火を入れている状態と思えばいい。高温で焼かれるのは苦しいが、美しい確かなものがきっと出来上がる。素晴らしい人生を約束されているのだから嘆くことはない。
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