「運命をねじ伏せろ」(500)日のサマー mamemameさんの映画レビュー(感想・評価)
運命をねじ伏せろ
主人公(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じるトム)がサマー(ズーイー・デシャネル)との500日の恋愛を通じて挫折し、学ぶ映画。
その甘い500日の思い出は、結局は実を結ばず、彼女はトムのことをほったらかして別の男と結婚する。
彼女からすればトムを「親友」という立場に押しとどめてきたのはこのような展開があっても自分に良心の呵責を感じないため。その予感は自身の両親の離婚から感じていたこと。
サマーの結婚が運命の結実ならば、サマーとトムが結婚しなかったのも運命だった。ではなぜそんな結末になったのか?それは恋愛下手なトムが、「一緒にいること」=「相手の望みを叶えること」だと思って行動していたから。その結果、彼女は別の男と結婚することになる。
映画「卒業」では、二人の関係に否定的な境遇を超えて彼女を手に入れようとするダスティン・ホフマンが描かれている。彼は最終的に結婚式場から恋人を連れ出し、笑いながら二人で逃走する。
その映画を見た後のサマーの涙は何なのか。こんな展開あるはずがないと思い、トムに心底あきれた涙なのか。それともトムが望む将来を自分は与えることができないという憐憫と贖罪の涙なのか。なんにせよ、トムが好きなこの映画は二人の間に絆がなければ成り立たず、そしてサマーはトムとの間にその絆は無いと感じていた。
サマーとトムの別離は、サマーからすれば「トムは運命じゃなくて夫は運命だった」というとらえ方になる。トムにもっと努力を期待していたわけではない(むしろ努力しないスタンスを望んでいたのだから)。トムからしたら「望まれるとおりにしたのになぜ?」という疑問だらけだろう。
何をすれば二人がゴールインする未来になったのか?トムはどこでしくじったのか?正直そこまで致命的なミスはなかった。ただ、そのミスをサマーはフォローしようとしなかった。トムはミスをフォローしてまで一緒にいたいと思う相手ではなく、未だ「一緒にいることになる運命の人なのか否か」を見極める段階だったということだ。そこにサマーの冷徹さがあり、トムの浮かれた思いとの間の温度差がある。その運命論を覆すような情熱が必要だったが、トムがそこまで本腰を入れられなかったことこそが、あるいは運命と言えるのかもしれない。
最後、面接の場で知り合った就職希望の女性オータムは、トムに「アンジェラス・プラザにいなかったか?見かけた」と言っている。アンジェラス・プラザは映画では4つのシーンで出て来る。最初の手を重ねるシーン、腕に絵を描くシーン、ペニスペニスと叫ぶシーン、そして最後の手を重ねるシーン。そのどのシーンにもオータムはいなかったが、会話内容からすると腕に絵を描くシーンで近くにいたと思われる。トムはオータムを覚えていないが、オータムは自分に注目していたのだとそこで気付く。
そして、その時点でオータムとの関係は運命ではなく単なる偶然の積み重ねで、それを「運命」と言い切るくらいに確固たるものにするには運命なんてものに頼っていてはダメなんだ、自分の行動こそがそれを作るのだと悟り、オータムをコーヒーに誘う。そここそが500日を無駄にしたトムの救い。
こんな経験をしたのなら、その境地にたどり着かなければ報われない。が、実はその境地はこんな経験をしなくてもたどり着けるところなのだ。金の重要性を学ぶのに、全財産を失う経験を経る必要はない。
映画の最初のナレーションのとおり、サマーはクソ女(Bitch)だった、だからトムはこんな思いをした、ということでいい。
前に進む気概を持つならば、「こんな女は殺す価値もない」くらいの捨て台詞でケツを蹴り上げるくらいのことはして欲しかった。トムはそんな時でもヤサ男だけど。(あるいはこの時点ではまだそんな気概を持てるほど回復していないか)
この映画は良くあるハッピーエンドな恋愛映画ではないし、ボーイ・ミーツ・ガール映画でもない。
きつい表現をすれば、女性が見ても何も得るものは無く、男性が見たら非常に手痛い失敗談(それこそFXで失敗して借金1000万になったとかそういう類の、他山の石としての失敗談)である。
実体験でその失敗を体験しないよう、この映画から学び、今後に生かしていただきたい。