「きめ細やかな演出とスタイリッシュな映像に賛辞を惜しみません。これを見ると他の作品の演出がわざとらしく見えてしまうことでしょう。」シャネル&ストラヴィンスキー 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
きめ細やかな演出とスタイリッシュな映像に賛辞を惜しみません。これを見ると他の作品の演出がわざとらしく見えてしまうことでしょう。
《シャネルNo.5》と《春の祭典》は、シャネルとストラヴィンスキーの逢瀬の産物だった!『ココ・シャネル』のレビューを書くとき、結構詳しくシャネルの一生を調べていました。けれどもストラヴィンスキーとの関係は、ノーマークでした。
Mu~シャネルさん、あんたいったいどれぐらいの著名人と浮き名を鳴らしたんだい!
音楽家の恋は甘く切ない物を連想します。『ラフマニノフ』のような展開を期待していったら、大間違い!イゴールとその妻カトリーヌ、そしてシャネルとの三角関係なかで、背筋も凍るほどの情念が交叉するところを緊張感たっぷりに、描かれるのです。
だからといって、これ見よがしの修羅場はありません。賢母であったカトリーヌは子供たちの手前、母親として気丈に沈黙を守ります。本作の演出の凄いところは、台詞がなくても表情で、登場人物の気持ちが手に取るように伝わってくるのです。カトリーヌの場合、あなたたちが不倫していることぐらいお見通しなのよと顔に書いてあるような表情でした。
ただ一度だけ、シャネルに面と向かって、「良心の呵責はないの?」と尋ねるシーンがあります。すかさず「ない」ときっぱり返答する二人の言葉の応酬。張り詰めた間が醸し出す、二人の無言のバトル。素晴らしい演技でした。
何と言ってもこの不倫劇の凄いところは、妻や子供たちと同居しているシャネルのヴィラが舞台となったことです。家族がいるそばで臆面もなくふたりは密通を重ねていました。
そもそもイゴールの才能に惚れ込んだシャネルが、仕事に打ち込めるようにと、自分のヴィラで暮らすよう提案するところまでは良かったのです。その結果イゴールは、4人の子供たちと、肺病を患う妻を連れて、すぐさまヴィラへと移り住みました。
ところが至高の芸術を求める二人は、たちまち恋に落ち、互いを刺激し、高め合い、心を解放し、悲しみさえも活力に変えていったのです。この前半部分は単調で、突然ベッドシーンに突入するから、ちょっと面食らうかも知れません。
けれども後半に入り、編曲を担当していたカトリーヌが夫の音楽の変化に気づき、不安そうな顔つきに変わっていくところから、俄然緊迫した空気が張り詰めるようになります。とても甘いロマンスなんてかけらはありません。
それを象徴するが、この時期に完成させたシャネルNo.5だったのです。香水の香りを決定するのにあたり開発者には魔力を感じさせる香りを追及していました。それはまるでイゴールを惑わさせた魔性の女としての自分を投影するかのようなアイデアだったのです。
シャネルは、ボーイと死別してから、すっかり人格が変わってしまったようです。ココ・シャネルに登場する可憐で愛らしい姿は微塵もありません。
イゴールの前では、挑発的な牝豹となり、ビジネスでは賃上げを面罵する冷徹な経営者となり、社交場では、凛とした気高さで、近づきがたいプライドを発散させていました。
場面場面でがらりと変わっていく、この頃のシャネルはきっと心を鎧で覆い尽くして、誰にも内面の孤独をさとられまいと、気丈にふるっていたのかも知れません。
だからこそ、カトリーヌが夫を残して子供たちをつれてヴィラを出た後届く、手紙に心を動かされたのでしょう。子供たちには父親が必要ですと綴られた文言に。
このあと二人きりになったシャネルとイゴール。カトリーヌの手紙にも、考えただけでもむおぞましい事態が連夜続くはずでした。
けれどもなぜかシャネルはこの日から、イゴールを拒絶するのです。イゴールが求めたときの台詞が興味深いのです。『私は愛人ではないのよ』と。その後風呂に入っているイゴールの様子を伺いに、シャネルが風呂場にやってくるシーンが意味深なんです。
お互い額を寄せ合い、キスをするのかと思いきや、ニタニタと苦笑いをするだけなんですね。台詞はなかったけれど、どんな気持ちをむ押し殺したのか、凄く分かるいい演出でした。
それにしてもカトリーヌはなぜ二人きりにさせてしまったのでしょうか。編曲担当として、夫の音の変化を感じた彼女は、春の祭典の初演が酷評で傷ついた夫が立ち直るのにシャネルが必要だと感じたシーンが手短に挿入されているのです。それがきっちり描かれているから、不自然さは感じさせられませんでした。
賢いカトリーヌは、自分が去ることで夫に自分の必要性を感じさせることも計算に入っていたのでしょう。その仕掛けどおり、カトリーヌがいなくなって独りになったイゴールは、殆ど曲想は進まなくなり、狂ったようにピアノを連打します。
《春の祭典》の不協和音がたたみ掛ける主題は、このような心理状態のなかで、書き加えられたのでした。その修正は数年後に 《春の祭典》が再演されたとき、大喝采を評価を受ける推進力と鳴ったのです。
何かに依存していないと、何もできない(シャネルにもズバリ指摘されてしまう)イゴールの女々しさをマッツ・ミケルセンが好演しています。さすがデンマークを代表する性格俳優だけのことはあります。
そして何よりもヤン・クーネン監督のきめ細やかな演出とスタイリッシュな映像に賛辞を惜しみません。これを見ると他の作品の演出がわざとらしく見えてしまうことでしょう。
●《春の祭典》について
1913年、パリのシャンゼリゼ劇場において初演された《春の祭典》は、そのストラヴィンスキーの最高傑作の一つであり、ディアギレフが仕掛けた「事件」の中でも最大級のものであると現代では評価されています。
けれども本作冒頭に登場するそれは、チープな舞台背景に加えて、振り付けも余りに前衛的でした。まるでイヌイットの呪いというかもののけ姫が出てきそうな面妖さなのです。
加えて、ひっきりなしに拍子の変わる複雑なリズム。およそ人の想像するバレエの美からはかけ離れた動き。ダンサーたちが内輪に回した両足でうなだれて立ち、けいれんするように細かく全身を震わせる様子は、本編にも見られるとおり、初日の上演途中からのブーイングや野次、さらには暴動にまで発展する恐れが出てきて、警官が出動するほどでした。
その反面、ブラボーの交錯も巻き起こしたが、これはプロデューサーのディアギレフが招き入れたサクラも、多数含まれていたようです。
こんな前衛的で過激な内容にもかかわらず、ストラヴィンスキーの才能を見いだしたディアギレフの眼力には敬服します。