グラン・トリノのレビュー・感想・評価
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これは、もう堪らん世界ですね。
もう積極的に自分が演じる役を探すことはしない。
いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから・・・
アメリカからヒーローの一人がまた姿を消す。
どこか惜しみ深く切なくもあるが、その分彼は監督業としてのキャリアで続行するという。
むしろそちらのほうに意欲的である。
クリント・イーストウッド;Clint Eastwood最後の主演作(高齢の為、今後俳優活動を自粛する旨を公表した)「グラン・トリノ;Gran Torino」には50年間に及ぶ思いの集大成が込められている。
早合点しているコメントには彼の生涯で最高傑作という声が挙がっているが、それはやや褒めすぎだ。
気持ちも分からなくはない・・・とにかく「集大成」であることには変わりない。
その前にこの映画タイトルについてである。
「グラン・トリノ」とは、72年に米国フォード社が販売した「トリノ」の高級バージョンとして登場したスポーツカーのこと。
リッター1.5km、V8エンジン搭載という、今では完全に排ガス規制や安全基準に引っかかるような代物だ。
実際に第一次石油危機のあおりを受けて76年に販売を終了している。
昨今エコロジーだ何だと騒がれているから、忌み嫌われそうなレスポンスと性能を秘めたこの車を、イーストウッド扮する主人公ウォルトは長年愛用している。
面白いことにこの映画のオープニングでは、ウォルトの妻の葬儀シーンから始まるのに、当人からは至って悲しさが伝わってこない。
そんな矢先に孫娘から「いずれその車を形見に欲しい」とせがまれ、怒りを露わにするようなシーンばかりが続く。
妻の愛情も、子供や孫への親心も、すべてを喪失した男は、あまりにも冷淡で不自然だった。
葬儀の日でも、愛車を丹念に点検する変わり者。
そんな彼の姿と車との立ち位置が、あまりにも似ている。
図体ばかりデカい偏屈な老人・・・葬儀の日に涙一つ浮かべないその不自然さは、妙に演技らしからぬという感じだ。
台詞の合間から微かに漏れ聞こえるイーストウッドの自然なため息や息づかいの所作が、あまりにも絶妙だった。
188cmの長身、1930年生まれの御老体だ。
実は当人が朝鮮戦争の最中に陸軍へ入隊した経験を持つ(この主人公ウォルトも同じ過去をトラウマとして抱える)
そういえば動作一つ一つも「荒野の用心棒」の頃とはだいぶ違う。
息切れ一つも自然に出るというものだ、それらも演技の一つとして組み込んでいる。
自然と埋めているその所作は、上手く臨場感を出していた。
ただ他ならぬ彼こそが、クリント・イーストウッドだ。
マインドは「ローハイド」の血気盛んな頃と幾分も変わらぬ姿勢だ。
むしろこの映画は、そんなアウトロー気質を前面に押し出した痛快さが魅力である。
隣人のアジア系モン族の家族に次第と心を開く交流シーンもコミカルでいいが、不埒な悪人やチンピラに敢然と立ち向かう数か所のシーンにて、緊迫した雰囲気がマカロニ・ウェスタンそのものと錯覚させる。
西部劇で始まり育った人だ、その気骨さが現代劇の中で鮮やかに映っている。
「困った奴がいたら見過ごさない」という気質。
「ダーティー・ハリー」のような、決めゼリフのカッコよさにも随分こだわっている。
多少歳をとっても、正面切って敵とあいまみえるシーンは今も見劣りしない。
どうやらこういった何か定義(ここでは正義だろう)を意識し映画を撮ることが、彼にとってのライフワークのようだ。
かつてのアメリカ映画のフォーマットで、善と悪が分かりやすく、かつ心を震わせるような構成とストーリーだ。
ある意味「大味;おおあじ」ではある。
脇役のモン族少年達など、大袈裟に目立ったかなり酷い演技力だ。
しかし不思議だ。
そんな予定調和過ぎるほど大味さが、今更になって愛おしく感じられる。
登場する人物達、彼らの一人一人のことが堪らなく気になってしまう。
そういえば、フォード・グラン・トリノの70年代特有なシルエットは、巷を走る最新のどんな車よりも美しい。
俗世から離れたものだけが知る自身の極め方は、意外にも王道とも呼べる路線を踏みつつ、それを躊躇せずやりとおす頑固さにあるのだろう。
ラストはいかにも、イーストウッドらしいケリの着け方だ。
哀愁と正義感に心が打ち震えた。
男の退き際、人生の終着点、そこで如何に過去と決着をつけるか?
その背中を誰に見せるべきか?
実は男ってものは深くって、単純じゃないってことだ!
ラスト泣けました。
すごい・・・
イーストウッドの映画をリアルタイムで観られる喜び
円熟
一言で表現するとしたら、男の背中の一生分を表現したような作品。
そう感じました。
正直、絶対観ようと思ってた映画ではなかったものの、他の方のレビュー通り観て良かった映画でした。
近年のクリント・イーストウッドはウチのジイさんをいつも思い出してしまうほど見事な頑固ジジイぶりで、真剣に粋がって生きて、歳をとって丸くなった部分と(作中のジイさんは丸くなった部分はほぼ皆無だったけど)さらに頑固になった部分と、衰える体力を気力と経験値で補いさらに孤高の存在に…、そんな大きな温かい背中を感じさせてくれるかっこいいジイさんが見事にハマっていた。
ベトナムの移民の人の話など全く予備知識もゼロだし、悲惨な犯罪やアメリカの治安のおっかなさが描かれながらも、見終わってみるととても清々しい涙を流した感じで帰途に着けた。
派手なアクションやどんでん返しはないものの、なかなかの良作でした。
いろんな人に観てもらって、感じ考えて欲しい内容でした。
よかった!!
ひたすら感動しました
偏屈で身内からも嫌われている爺さんが、まったくの他人に心を許していく過程。え?そんな事位で?それでいいんだ。と言う位簡単だったかも。でも、それ位過去の過ちに縛られて自分の殻に閉じこもり、身内だからこそ許せない事も有るわけで・・・人間愛というべきか。見終わった後、過去の過ちを彼にも味わわせたくない
という思いと自分の命が見えた為の決断だったと思うが、悲しい結末だった
温故知新
人生はいろいろな人との関わりで出来ていると教えられた映画でした。
誰かに支えられていない人間は弱く、たとえ自分の家にいてもどこか所在ない。
しかし誰かに支えられ守るものを得れば人は豊かに強く生きられる。
一番近いはずの人が遠く、関係ない他人が近くに感じることもある。
実の息子夫婦家族に疎まれているウォルトがモン族のタオとスーに受け入れられたのも、彼らが一族の伝統を大切にし核家族ではなく家に祖母が同居しており、老人と接するのになんの抵抗も無いからだろう。
先進国に共通の問題ともなっている核家族化や介護の問題にも繫がっている。
この映画を観ていて何故かエリートの息子夫婦の家族よりもモン族のタオやスーの家の方が豊かに感じられたのは何故だろう・・・
「温故知新」昔のことを良く知り、そこから新しい知識や道理を得ること。
素敵なだけの未来もダサいだけの過去もない、グラントリノのように魅力ある過去もある。
不器用なウォルトは大切にするあまり使いこなせなかった自慢の車を、若いタオに自分の人生と一緒に託して今使いこなして欲しかったんじゃないかなぁ。
人と人の絆が鎖をつないぐように続いていくような気がしました。
普通の一人の人間の人生って本当に深くて広いんだなぁ。
人生も映画のよう、でもたった一作しか作れない・・・
そう感じた映画でした。
一言で語れない、本物の人生が映画になっている凄さにただただ頭が下がりました。
頼れる爺♪
自分にこういう舅がいたら…
やっぱりあの長男の奥さんみたいに接するんだろうか?
などと考えながら見てました。
とっても素敵な爺さんなのに
身内になるとやっぱり本心をさらけ出すのは恥ずかしいのかな?
奥さんは彼に懺悔をするようにって思ってたみたいですが…
きっと私も…ああいう場所ではあのくらいの
(奥さん以外の人にキスしたとか)内容しか言えない気がします。
言ったところで本当には心は晴れないよね。
彼の苦悩は教会で懺悔したくらいでは…
あの姉弟の復讐って彼のやり方で終わらせるのが
一番傷つかないと思ったのでしょうが…
あの汚らしいヤツラを自分の手で抹殺させなかったのは…
アイツラの為に心を汚させないっていう配慮が有ったとは
思いますが…
弟君にとっては頼れる爺さんを失い、更に自分では何も出来なかったという
不完全燃焼みたいにやり切れない気持ちになったのではないかしら?
グラン・トリノを貰って…それを大切に乗ることで
いつまでも彼を忘れないのでしょうけど…
逆に言うと…いつまでも彼を忘れることは許されないようにも思えて…
実際に手を下した方がスッキリしたのか?
手は下さなかったけどそれをいつまでも忘れられないっていう方が良かったのか…
確かに後者の方が彼の人生にはキズはつかないし
このまま大学に進んでチンピラとは無縁の世界で生きていけるんだろうけど…
もっと他に良い方法は無かったのかな?
爺さんが殺されて本当に悲しかった。
彼のお葬式では身内の方がただの参列者のようでしたね。
イーストウッドならではの味付け
ダーティーハリーシリーズの諧謔が通奏低音のように利いていて、自分の老い、社会の変化、友情などのテーマを上手く収めた感じ。エンディングでは主人公の抱える老後、健康、家族との間柄、タオ一家の将来、とか諸問題を一気に解決し、悲しさ寂しさを孕みながらも爽快な後味を覚えたが、銃社会アメリカではまだまだ期待に反する筋書きなのかもしれないと感じた。それから私には準主役タオの従兄弟らチンピラの演技が(結末とは裏腹に)それほど悪そうには見えなかった。胸元に漢字の刺青のある男、”家庭”と描いてあったような?(これもなんとなく笑えた。)まあこれも彼らの育つアメリカ社会の豊かさの証と理解すれば伏線の範囲なのだろうか。時間を忘れ一気に見させてくれる久々の秀作だった。
モン族の家で、文句はなしよ
映画「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督)から。
会話のテンポがよくて、なぜか汚い言葉でも、
すんなり受け入れられたのは、不思議であった。
これは、もちろん脚本の素晴らしさもあるんだろうけれど、
字幕を読んでいる私にとっては、翻訳の妙でもある。
こんな言葉を訳すのは、若い人なのかな?と思ったら、
なんと戸田奈津子さんだった。(笑)
日本語訳でしかわからないフレーズが満載。
気になる一言もその1つ。
「モン族の家で、文句はなしよ」は、メモして笑えた。
主人公が口から血を吐く。「大丈夫?」と訊ねる人に
「舌を噛んだだけだ。下(1階)でもっと飲もう」と返す。
若い女の子を、これまた若い男3人が追いかけるのを見て
「三バカ大将が、後を追ったか」。
物語的には「少しは自分に磨きをかけろ」が光った。
磨き方を教えるのではなく、自分で試して覚えろ、
そんなメッセージが伝わってきた映画だった。
男の生き様
じじいの勲章。
我が家にも手のつけられない偏屈ジイさんがひとりいる。
この頑固ジジイときたら、今の若者の全てが気に入らないx
あっちで文句をつけ、こっちで愚痴を言い、でも結局は
何も変わらないことに嫌気がさしては、ブ~ブ~唸っている。
アレ?これってイーストウッドのポーランドじじいと一緒だv
この映画、おそらく私位の歳の人間が観れば大感動だが、
鼻ピにヘソ出しルックの若者が観たら、なんて言うだろう。
「あ~つまらねぇ!この説教ジジイが!」
そう思ったら大成功!…という卿の高笑いが聞こえてくる。
10代でこの感動を理解できれば、相当の年寄りになれる。
愛車グラン・トリノは、大事に温存されてきたこのジイさんの
価値観そのものなのだ。誰にも触らせず受け付けもしない。
孤高のイメージが自身の孤独を暗示し始めてもこのジイさん、
相変わらず悪態をついて、他を一蹴する。
身内にまで嫌われているこの男の一挙手一投足がいちいち
可笑しくて、ずーっと笑いっぱなし。こんな頑固ジジイを諭す、
27歳の童貞野郎(神父さん)のめげないしつこさにも脱帽した。
なのでこの映画が面白くなかった若者には申し訳ないが、
私には文句をつけようにも見当たらない。「チェンジリング」で
あんなに感動したばかりなのに、もうすっかり今作の虜だ。
そしておそらくそれが「今の自分」だからなのだ、と感じる。
長い人生を生きてきたポーランドじじいには、幾多の陰惨な
経験もあったろうし、愛妻との素晴らしい想い出もあったろう。
普通人間は、そうやって人生を歩む毎に丸くなろうものを(爆)
彼は、俺を誰だと思ってるんだ!と言わんばかりに猛々しい。
イーストウッド卿の、本性はこうかもしれない^^;
懺悔とか、ちゃんとしているのかしら…(大きなお世話ですね)
しかし作品としての資質は、相変わらずまったく無駄がなく、
ゆったりしているのにテンポが乱れず、すべてのドラマが
順序良く統合されていく。無名のキャスト達が喋る台詞にも
何かしらの意味があり無駄がない。ギャグまで的を突く始末。
隣に越してきたモン族(ホンモノらしい)姉弟との交流を通して、
改めて自身を学び始めた彼に転機が訪れ、やがて彼は
彼らを守るためにチンピラに正義の審判を下すのだが…。
おおよその予想通りだったラストは、もちろん悲しくて、
泣けはしたものの、なんともいえない清涼感にも包まれた。
多くの西部劇でドンパチを演じ分けてきた彼のカッコ良さが、
こういう形で次世代に語られるとは、実は思っていなかった。
彼はすでに若者たちの未来を見渡しているのだ。
エンディングテーマに酔いしれつつ(頑固な声で、唄ってます)
こんな遺言状のような作品を作ってしまった彼に脱帽するものの、
いや~まだまだ。ポーランドじじいには卿として君臨してほしい。
傑作なんか作りやがって。このバカタレが。(T_T)
(イカれイタ公も、アイルランドの酔っ払いも、そう思ってるぞ)
「老兵は静かに去るのみ」。ライフワークとも言うべき「生と死」のテーマを、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品でした。
ラストの痛い展開はイーストウッド監督作ならでは。そのワンシーンひとつでいつまでも心に残る名作が誕生しました。
監督のライフワークとも言うべき「生と死」の問題を、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品です。また横軸には、人種の壁というテーマを盛り込み、肌の色を乗り越えて交わっていく、お隣のアジア系移民一家との暖かい交情を描き出しています。
主人公のウォルト自身は人生の終わり方を常に問い続けさせるのに対比して、お隣の少年タオには、逆に男としてどう人生を始めていくのかコーチする関係となっていきます。ふたりの人生の描写の中に、人生の始まりと終わりが比喩されているようにも見えました。
ラストの痛い展開はイーストウッド監督作ならでは。そのワンシーンひとつでいつまでも心に残る名作が誕生しました。
監督のライフワークとも言うべき「生と死」の問題を、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品です。また横軸には、人種の壁というテーマを盛り込み、肌の色を乗り越えて交わっていく、お隣のアジア系移民一家との暖かい交情を描き出しています。
主人公のウォルト自身は人生の終わり方を常に問い続けさせるのに対比して、お隣の少年タオには、逆に男としてどう人生を始めていくのかコーチする関係となっていきます。ふたりの人生の描写の中に、人生の始まりと終わりが比喩されているようにも見えました。
オール無名のキャストながら、自然なセリフの応酬が見事です。それが全部、監督の細かな演出のたまものというから驚きです。
さて、そんな物語の主人公ウォルトは、独善的な正義感の持ち主。それに外れる者は、身内でも許せない頑固で偏狭な男でした。
玄関に星条旗を掲げる愛国者で、白人絶対主義者であったウォルトにとって、息子がイエローモンキーの作ったトヨタ車のセールスマンをやっていること自体が腹立たしいことだったのです。何せ退役後はフォードの組み立て工を勤めて、それを誇りとして人物ですから、なおさらです。
そして、自分が組み立てに関わった72年式のヴィテージカー、「グラン・トリノ」を自慢の車としてガレージに保管。毎日ぴかびかに磨いて眺めるのが彼の楽しみだったのです。
息子以上に腹立たしいのは、近隣のアジア系移民達の存在。ただでさえ蔑視しているのに、連中の大人達は家屋の手入れをせず、芝は荒れ放題。 若者達は、ギャング気取りで日中堂々と小競り合いを繰り返していたのです。
ある日同族の不良グループに脅されて、こともあろうにウォルトのお宝の車を盗みにきたのが、お隣のモン族一家の少年タオ。彼と不良グループの少年達に、朝鮮戦争時代に使い込んだライフルを向ける時のイーストウッドは往年のヒーロー役を偲ばせて、格好良かったです。
この時不法侵入したタオを即座に殺さなかったのは、やはり朝鮮戦争の時、降伏しかけた少年兵を惨殺したトラウマがあったからでしょう。
結果的にウォルトは、タオを不良グループから救ってしまったこととなり、タオの親戚やモン族一同から感謝され、贈り物が続々届けられたのですが、彼にとっては迷惑なだけでした。
このあとタオの姉スーが黒人グループに絡まれているところをウォルトが救ったことから、お隣同志のおつきあいが始まります。それでも実はお隣の一家の老婆は、白人が嫌いでウォルトを罵っていたのでした。お互い様様(^^ゞ
そんな両家の敷居の壁を越えて、朗らかで機転効くスーとの会話は、ウォルトの心を和ましていくのでした。そして、モン族の料理にも舌鼓を打つようになり、ウォルトもモン族のパーティに招かれるようになっていったのです。
パーティでのやりとりはなかなかコミカル。たとえば、モン族の掟として人をじろじろ見てはいけないとスーから効いているのに、肝心のモン族客達は白人のウォルトが珍しくてじろじろ見つめらたりするところ。はたまた、同席したモン族のシャーマンに、心の中をピタリと見透かされて、だんだんウォルトの気分が悪くなっていくところは、思わず笑ってしまいました。
シャーマンに身近な人に誰にも尊敬されない孤独な境遇を当てられたウォルトは、苦笑します。身近な白人とのつきあいよりも、蔑視していたモン族の方が親しみ深いと。そんなセリフにも少数民族に対する、イーストウッドの暖かい眼差しを感じました。
そんな中で、タオの母親から盗むのお詫びとして、タオに何か家事の手伝いをさせてほしいと依頼を受けたことで二人の不思議な交流が始まったのでした。
最初無口なタオが、ウォルトの指導でだんだんはっきりものを言うようになるところが印象的。父親がいない彼にとって、ウォルトが人生の師であったのでしょう。恋の指南までアドバイスするのです。逆に、病魔に冒されたウォルトにとってタオを一人前の男にするというのが、人生の最後にふさわしい役割であり、朝鮮戦争の悪夢からの贖罪にふさわしいことであると思ったに違いありません。
やがて順調に思えたふたりの関係に暗雲となる事件が起きます。以前痛めつけた不良少年達からのタオへの嫌がらせが再び始まったのです。タオと一家の命の危険を感じたウォルトは、一家の未来を守るため、不良少年達との対決を決意します。
アジトに向かったウォルトの決着の仕方。それは彼ならではのものだったのです。
ウォルトの頑固さは、おそらくイーストウッドの投影した分身なのでしょう。彼の妻はウォルトに懺悔することを遺言として勧めます。イーストウッドの心の中にも深い原罪を意識しているところがあって、彼の分身が表面意識に向けて、死ぬまでに徹底して懺悔することを勧めているような気がします。
しかしイーストウッドの表面意識は徹底した現実主義者で、次々に神ですら救いがたい現実を自らの作品に投影して、神よこんな悲惨な現実でもお救いになられるのでしょうかと激しく問いかけているのだと思います。若い牧師に「復讐の対象を殺してしまえ」という、、聖職者にあるまじきセリフを語らせているのもその問題意識の現れだろうと思います。
そんなイーストウッドにとって、懺悔するとは、一切の妥協のない生と死を研ぎ澄ました真実を償う行為だったのです。だから教会での懺悔は、形だけのものとなりました。本作の痛い結末は、ウォルトが妻に誓った彼自身の懺悔そのものだったのでしょう。
ウォルトには何度も牧師に悪態をつかせていますが、だからといってイーストウッドが無神論者とは思えません。むしろ逆に救いを求める気持ちが強すぎて、聖書に出てくるヨブのように神を試すような心境になっているのでしょう。
『ミリオンダラー・ベイビー』でも、牧師を貶めつつも、教会で祈りを捧げる姿が印象的でした。
ところで、タイトルのグラン・トリノもまた彼の自信の象徴なのでしょう。そしてラストに疾走するグラン・トリノにかぶせてイーストウッド自身が歌うテーマには哀愁が滲んでおりました。
クリント・イーストウッド最後の主演作と噂されている本作。その言わんとするラストメッセージは、「老兵は静かに去るのみ」ということだったのでしょうか?
ヒーローのラストシーン
欲するなら,まず与えよ.
この映画の主人公ウォルターの周りには,
与えることに無関心で,
欲することしか知らない人たちばかりがいた.
ソファが欲しいとか,宝石が欲しいとか,
野球のチケットが欲しいとか,
そういう連中ばかりに囲まれて暮らして来たがために,
ウォルターはすっかり偏屈になってしまっていた.
電話がかかってきたり,人が家に訪ねてきたりすると,
彼は挨拶も抜きにして,まず相手の要件を尋ねる.
「で,何が欲しい?」
彼に言わせれば,人が電話をかけて来たり
家に訪ねてきたりする理由は常に決まっているのだった.
挨拶の言葉やそれに続く世間話などは,
相手が要件を持ち出すまでの前置き,
つまりはご機嫌取りの欺瞞でしかない.
そのような状況の中で,
ウォルターの家の隣に引っ越して来た人たちだけは違った.
その人たちは,与えることを知っている人たちだった.
隣の家の娘は,
不健康な食生活を送っているヤモメ暮らしのウォルターに
おいしい食べ物があるからと言って,
自宅のパーティーに来るよう誘ってくれた.
ウォルターがある時,隣の家の少年を助けると,
その日以来,彼の家には,花や食べ物などの贈り物を
お礼として届ける少年の親族の人たちの列が絶えなくなった.
ウォルターは,自分の死後,
持ち物をすべてこのモン族の人たちに譲った.
一番の宝物であるヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」も,
このモン族の少年に与えられた.
ウォルターがかわいがっていた犬は
モン族のおばあさんに与えられた.
いわば赤の他人であるモン族の人たちが
様々なものを譲り受ける一方で,
身内であるはずのアメリカ人家族の人たちには
何一つ与えられなかった.
欲するなら,まず与えよ.
欲することしか知らぬ者には,
何一つとして与えられないのだ.
しかし,そんな彼らも一度だけ
ウォルターに贈り物をしたことがあった.
ボタンの大きな電話機と老人ホームのパンフレット.
ただしこれは,厄介払いしたいという彼らの思惑が
透けて見えるものだった.
ボタンの大きな電話機は,老人であることの自覚を
ウォルターにうながすための小道具でしかない.
これらの物の贈り主らは,結局,
自分たちのことしか考えていないのだ.
「欲するなら,まず与えよ」の利他精神が
彼らに理解されることはまずない.
この利他精神こそ,
ウォルターが人生最後の瞬間に実践して見せたものだった.
彼は,モン族の人たちが町の無法者らによって
苦しめられていると知ったとき,
この精神にのっとって行動したのだった.
誰かを助けるためには,
まず自分が犠牲にならなければならない.
ウォルターは,命と引き換えに
モン族の人々の苦しみを取り除いた.
具体的に言うと,丸腰で無法者らに挑み,
無抵抗のまま奴らの一斉射撃を受けることによって,
奴らを一人残らず刑務所送りにし,
社会から追放したのだ.
彼がこのやり方を思いついた背景には,
過去の戦争体験があったものと思われる.
彼はかつて朝鮮戦争に従軍し,多数の敵を殺した.
しかもそれは軍の命令で仕方なくやったことではなく,
自分の意思で,自分のためにやったことだった.
(彼自身が神父を相手にそう語る)
しかし,それによって彼が得たものは何もなかった.
期待した充足感や勝利のよろこびは得られず,
罪の意識だけが後に残った.
もしこれが誰かのために,
誰かを守るためにやったことだったとしたら
結果は違っていたかもしれない.
だからこそ彼は無法者連中との対決を
ためらわなかったのだろう.
自分のためではなくモン族の人たちのために行う戦いは,
きっとかつての戦争での戦いとは
違った結果を彼にもたらしてくれる.
彼にはその確信があったのだ.
彼は,この最後の戦いを一人で行った.
本当は,彼にも一人味方がいたのだ.
しかし彼はその味方を戦いに連れて行かなかった.
なぜならその味方の人物は,
自分のために戦いを行おうとしていたからだ.
その人物は,かつてのウォルターと
同じ間違いを犯そうとしていた.
ウォルターが彼を一人残して
戦いへと向かった理由はこれ以外にない.
頼りにならないからとか,
自分ひとり良い格好をしたいから
とか言う理由では絶対にないのだ.
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