グラン・トリノのレビュー・感想・評価
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イーストウッドならではの味付け
ダーティーハリーシリーズの諧謔が通奏低音のように利いていて、自分の老い、社会の変化、友情などのテーマを上手く収めた感じ。エンディングでは主人公の抱える老後、健康、家族との間柄、タオ一家の将来、とか諸問題を一気に解決し、悲しさ寂しさを孕みながらも爽快な後味を覚えたが、銃社会アメリカではまだまだ期待に反する筋書きなのかもしれないと感じた。それから私には準主役タオの従兄弟らチンピラの演技が(結末とは裏腹に)それほど悪そうには見えなかった。胸元に漢字の刺青のある男、”家庭”と描いてあったような?(これもなんとなく笑えた。)まあこれも彼らの育つアメリカ社会の豊かさの証と理解すれば伏線の範囲なのだろうか。時間を忘れ一気に見させてくれる久々の秀作だった。
モン族の家で、文句はなしよ
映画「グラン・トリノ」(クリント・イーストウッド監督)から。
会話のテンポがよくて、なぜか汚い言葉でも、
すんなり受け入れられたのは、不思議であった。
これは、もちろん脚本の素晴らしさもあるんだろうけれど、
字幕を読んでいる私にとっては、翻訳の妙でもある。
こんな言葉を訳すのは、若い人なのかな?と思ったら、
なんと戸田奈津子さんだった。(笑)
日本語訳でしかわからないフレーズが満載。
気になる一言もその1つ。
「モン族の家で、文句はなしよ」は、メモして笑えた。
主人公が口から血を吐く。「大丈夫?」と訊ねる人に
「舌を噛んだだけだ。下(1階)でもっと飲もう」と返す。
若い女の子を、これまた若い男3人が追いかけるのを見て
「三バカ大将が、後を追ったか」。
物語的には「少しは自分に磨きをかけろ」が光った。
磨き方を教えるのではなく、自分で試して覚えろ、
そんなメッセージが伝わってきた映画だった。
男の生き様
感動作品ときいてハンカチ持って劇場に行きましたが、
最後まで涙を流すことはなかった。
映画として、派手さも爽快感もない。
ただ、観終わったあとの余韻はなんともいえない感覚でした。
人は死ぬまでに何をしてきたか、何を得たか、
ということより何を残せるか、ということなのでは?と感じた。
それはもちろん物や金ではない。
この映画にはイーストウッドが伝えたいことがよく盛り込まれている。
じじいの勲章。
我が家にも手のつけられない偏屈ジイさんがひとりいる。
この頑固ジジイときたら、今の若者の全てが気に入らないx
あっちで文句をつけ、こっちで愚痴を言い、でも結局は
何も変わらないことに嫌気がさしては、ブ~ブ~唸っている。
アレ?これってイーストウッドのポーランドじじいと一緒だv
この映画、おそらく私位の歳の人間が観れば大感動だが、
鼻ピにヘソ出しルックの若者が観たら、なんて言うだろう。
「あ~つまらねぇ!この説教ジジイが!」
そう思ったら大成功!…という卿の高笑いが聞こえてくる。
10代でこの感動を理解できれば、相当の年寄りになれる。
愛車グラン・トリノは、大事に温存されてきたこのジイさんの
価値観そのものなのだ。誰にも触らせず受け付けもしない。
孤高のイメージが自身の孤独を暗示し始めてもこのジイさん、
相変わらず悪態をついて、他を一蹴する。
身内にまで嫌われているこの男の一挙手一投足がいちいち
可笑しくて、ずーっと笑いっぱなし。こんな頑固ジジイを諭す、
27歳の童貞野郎(神父さん)のめげないしつこさにも脱帽した。
なのでこの映画が面白くなかった若者には申し訳ないが、
私には文句をつけようにも見当たらない。「チェンジリング」で
あんなに感動したばかりなのに、もうすっかり今作の虜だ。
そしておそらくそれが「今の自分」だからなのだ、と感じる。
長い人生を生きてきたポーランドじじいには、幾多の陰惨な
経験もあったろうし、愛妻との素晴らしい想い出もあったろう。
普通人間は、そうやって人生を歩む毎に丸くなろうものを(爆)
彼は、俺を誰だと思ってるんだ!と言わんばかりに猛々しい。
イーストウッド卿の、本性はこうかもしれない^^;
懺悔とか、ちゃんとしているのかしら…(大きなお世話ですね)
しかし作品としての資質は、相変わらずまったく無駄がなく、
ゆったりしているのにテンポが乱れず、すべてのドラマが
順序良く統合されていく。無名のキャスト達が喋る台詞にも
何かしらの意味があり無駄がない。ギャグまで的を突く始末。
隣に越してきたモン族(ホンモノらしい)姉弟との交流を通して、
改めて自身を学び始めた彼に転機が訪れ、やがて彼は
彼らを守るためにチンピラに正義の審判を下すのだが…。
おおよその予想通りだったラストは、もちろん悲しくて、
泣けはしたものの、なんともいえない清涼感にも包まれた。
多くの西部劇でドンパチを演じ分けてきた彼のカッコ良さが、
こういう形で次世代に語られるとは、実は思っていなかった。
彼はすでに若者たちの未来を見渡しているのだ。
エンディングテーマに酔いしれつつ(頑固な声で、唄ってます)
こんな遺言状のような作品を作ってしまった彼に脱帽するものの、
いや~まだまだ。ポーランドじじいには卿として君臨してほしい。
傑作なんか作りやがって。このバカタレが。(T_T)
(イカれイタ公も、アイルランドの酔っ払いも、そう思ってるぞ)
「老兵は静かに去るのみ」。ライフワークとも言うべき「生と死」のテーマを、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品でした。
ラストの痛い展開はイーストウッド監督作ならでは。そのワンシーンひとつでいつまでも心に残る名作が誕生しました。
監督のライフワークとも言うべき「生と死」の問題を、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品です。また横軸には、人種の壁というテーマを盛り込み、肌の色を乗り越えて交わっていく、お隣のアジア系移民一家との暖かい交情を描き出しています。
主人公のウォルト自身は人生の終わり方を常に問い続けさせるのに対比して、お隣の少年タオには、逆に男としてどう人生を始めていくのかコーチする関係となっていきます。ふたりの人生の描写の中に、人生の始まりと終わりが比喩されているようにも見えました。
ラストの痛い展開はイーストウッド監督作ならでは。そのワンシーンひとつでいつまでも心に残る名作が誕生しました。
監督のライフワークとも言うべき「生と死」の問題を、俺ならこんな潔い死に花を咲かせたいと強烈に主張した作品です。また横軸には、人種の壁というテーマを盛り込み、肌の色を乗り越えて交わっていく、お隣のアジア系移民一家との暖かい交情を描き出しています。
主人公のウォルト自身は人生の終わり方を常に問い続けさせるのに対比して、お隣の少年タオには、逆に男としてどう人生を始めていくのかコーチする関係となっていきます。ふたりの人生の描写の中に、人生の始まりと終わりが比喩されているようにも見えました。
オール無名のキャストながら、自然なセリフの応酬が見事です。それが全部、監督の細かな演出のたまものというから驚きです。
さて、そんな物語の主人公ウォルトは、独善的な正義感の持ち主。それに外れる者は、身内でも許せない頑固で偏狭な男でした。
玄関に星条旗を掲げる愛国者で、白人絶対主義者であったウォルトにとって、息子がイエローモンキーの作ったトヨタ車のセールスマンをやっていること自体が腹立たしいことだったのです。何せ退役後はフォードの組み立て工を勤めて、それを誇りとして人物ですから、なおさらです。
そして、自分が組み立てに関わった72年式のヴィテージカー、「グラン・トリノ」を自慢の車としてガレージに保管。毎日ぴかびかに磨いて眺めるのが彼の楽しみだったのです。
息子以上に腹立たしいのは、近隣のアジア系移民達の存在。ただでさえ蔑視しているのに、連中の大人達は家屋の手入れをせず、芝は荒れ放題。 若者達は、ギャング気取りで日中堂々と小競り合いを繰り返していたのです。
ある日同族の不良グループに脅されて、こともあろうにウォルトのお宝の車を盗みにきたのが、お隣のモン族一家の少年タオ。彼と不良グループの少年達に、朝鮮戦争時代に使い込んだライフルを向ける時のイーストウッドは往年のヒーロー役を偲ばせて、格好良かったです。
この時不法侵入したタオを即座に殺さなかったのは、やはり朝鮮戦争の時、降伏しかけた少年兵を惨殺したトラウマがあったからでしょう。
結果的にウォルトは、タオを不良グループから救ってしまったこととなり、タオの親戚やモン族一同から感謝され、贈り物が続々届けられたのですが、彼にとっては迷惑なだけでした。
このあとタオの姉スーが黒人グループに絡まれているところをウォルトが救ったことから、お隣同志のおつきあいが始まります。それでも実はお隣の一家の老婆は、白人が嫌いでウォルトを罵っていたのでした。お互い様様(^^ゞ
そんな両家の敷居の壁を越えて、朗らかで機転効くスーとの会話は、ウォルトの心を和ましていくのでした。そして、モン族の料理にも舌鼓を打つようになり、ウォルトもモン族のパーティに招かれるようになっていったのです。
パーティでのやりとりはなかなかコミカル。たとえば、モン族の掟として人をじろじろ見てはいけないとスーから効いているのに、肝心のモン族客達は白人のウォルトが珍しくてじろじろ見つめらたりするところ。はたまた、同席したモン族のシャーマンに、心の中をピタリと見透かされて、だんだんウォルトの気分が悪くなっていくところは、思わず笑ってしまいました。
シャーマンに身近な人に誰にも尊敬されない孤独な境遇を当てられたウォルトは、苦笑します。身近な白人とのつきあいよりも、蔑視していたモン族の方が親しみ深いと。そんなセリフにも少数民族に対する、イーストウッドの暖かい眼差しを感じました。
そんな中で、タオの母親から盗むのお詫びとして、タオに何か家事の手伝いをさせてほしいと依頼を受けたことで二人の不思議な交流が始まったのでした。
最初無口なタオが、ウォルトの指導でだんだんはっきりものを言うようになるところが印象的。父親がいない彼にとって、ウォルトが人生の師であったのでしょう。恋の指南までアドバイスするのです。逆に、病魔に冒されたウォルトにとってタオを一人前の男にするというのが、人生の最後にふさわしい役割であり、朝鮮戦争の悪夢からの贖罪にふさわしいことであると思ったに違いありません。
やがて順調に思えたふたりの関係に暗雲となる事件が起きます。以前痛めつけた不良少年達からのタオへの嫌がらせが再び始まったのです。タオと一家の命の危険を感じたウォルトは、一家の未来を守るため、不良少年達との対決を決意します。
アジトに向かったウォルトの決着の仕方。それは彼ならではのものだったのです。
ウォルトの頑固さは、おそらくイーストウッドの投影した分身なのでしょう。彼の妻はウォルトに懺悔することを遺言として勧めます。イーストウッドの心の中にも深い原罪を意識しているところがあって、彼の分身が表面意識に向けて、死ぬまでに徹底して懺悔することを勧めているような気がします。
しかしイーストウッドの表面意識は徹底した現実主義者で、次々に神ですら救いがたい現実を自らの作品に投影して、神よこんな悲惨な現実でもお救いになられるのでしょうかと激しく問いかけているのだと思います。若い牧師に「復讐の対象を殺してしまえ」という、、聖職者にあるまじきセリフを語らせているのもその問題意識の現れだろうと思います。
そんなイーストウッドにとって、懺悔するとは、一切の妥協のない生と死を研ぎ澄ました真実を償う行為だったのです。だから教会での懺悔は、形だけのものとなりました。本作の痛い結末は、ウォルトが妻に誓った彼自身の懺悔そのものだったのでしょう。
ウォルトには何度も牧師に悪態をつかせていますが、だからといってイーストウッドが無神論者とは思えません。むしろ逆に救いを求める気持ちが強すぎて、聖書に出てくるヨブのように神を試すような心境になっているのでしょう。
『ミリオンダラー・ベイビー』でも、牧師を貶めつつも、教会で祈りを捧げる姿が印象的でした。
ところで、タイトルのグラン・トリノもまた彼の自信の象徴なのでしょう。そしてラストに疾走するグラン・トリノにかぶせてイーストウッド自身が歌うテーマには哀愁が滲んでおりました。
クリント・イーストウッド最後の主演作と噂されている本作。その言わんとするラストメッセージは、「老兵は静かに去るのみ」ということだったのでしょうか?
ヒーローのラストシーン
俳優としては最後と言われるこの作品
この映画としては、想定内のラストですが・・・・
クリント・イーストウッドがヒーローとしての
ラストシーンを演じたとすれば、非常に感慨深い
ものがあります。
不死身のヒーローの最期とは、これだ!!
欲するなら,まず与えよ.
この映画の主人公ウォルターの周りには,
与えることに無関心で,
欲することしか知らない人たちばかりがいた.
ソファが欲しいとか,宝石が欲しいとか,
野球のチケットが欲しいとか,
そういう連中ばかりに囲まれて暮らして来たがために,
ウォルターはすっかり偏屈になってしまっていた.
電話がかかってきたり,人が家に訪ねてきたりすると,
彼は挨拶も抜きにして,まず相手の要件を尋ねる.
「で,何が欲しい?」
彼に言わせれば,人が電話をかけて来たり
家に訪ねてきたりする理由は常に決まっているのだった.
挨拶の言葉やそれに続く世間話などは,
相手が要件を持ち出すまでの前置き,
つまりはご機嫌取りの欺瞞でしかない.
そのような状況の中で,
ウォルターの家の隣に引っ越して来た人たちだけは違った.
その人たちは,与えることを知っている人たちだった.
隣の家の娘は,
不健康な食生活を送っているヤモメ暮らしのウォルターに
おいしい食べ物があるからと言って,
自宅のパーティーに来るよう誘ってくれた.
ウォルターがある時,隣の家の少年を助けると,
その日以来,彼の家には,花や食べ物などの贈り物を
お礼として届ける少年の親族の人たちの列が絶えなくなった.
ウォルターは,自分の死後,
持ち物をすべてこのモン族の人たちに譲った.
一番の宝物であるヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」も,
このモン族の少年に与えられた.
ウォルターがかわいがっていた犬は
モン族のおばあさんに与えられた.
いわば赤の他人であるモン族の人たちが
様々なものを譲り受ける一方で,
身内であるはずのアメリカ人家族の人たちには
何一つ与えられなかった.
欲するなら,まず与えよ.
欲することしか知らぬ者には,
何一つとして与えられないのだ.
しかし,そんな彼らも一度だけ
ウォルターに贈り物をしたことがあった.
ボタンの大きな電話機と老人ホームのパンフレット.
ただしこれは,厄介払いしたいという彼らの思惑が
透けて見えるものだった.
ボタンの大きな電話機は,老人であることの自覚を
ウォルターにうながすための小道具でしかない.
これらの物の贈り主らは,結局,
自分たちのことしか考えていないのだ.
「欲するなら,まず与えよ」の利他精神が
彼らに理解されることはまずない.
この利他精神こそ,
ウォルターが人生最後の瞬間に実践して見せたものだった.
彼は,モン族の人たちが町の無法者らによって
苦しめられていると知ったとき,
この精神にのっとって行動したのだった.
誰かを助けるためには,
まず自分が犠牲にならなければならない.
ウォルターは,命と引き換えに
モン族の人々の苦しみを取り除いた.
具体的に言うと,丸腰で無法者らに挑み,
無抵抗のまま奴らの一斉射撃を受けることによって,
奴らを一人残らず刑務所送りにし,
社会から追放したのだ.
彼がこのやり方を思いついた背景には,
過去の戦争体験があったものと思われる.
彼はかつて朝鮮戦争に従軍し,多数の敵を殺した.
しかもそれは軍の命令で仕方なくやったことではなく,
自分の意思で,自分のためにやったことだった.
(彼自身が神父を相手にそう語る)
しかし,それによって彼が得たものは何もなかった.
期待した充足感や勝利のよろこびは得られず,
罪の意識だけが後に残った.
もしこれが誰かのために,
誰かを守るためにやったことだったとしたら
結果は違っていたかもしれない.
だからこそ彼は無法者連中との対決を
ためらわなかったのだろう.
自分のためではなくモン族の人たちのために行う戦いは,
きっとかつての戦争での戦いとは
違った結果を彼にもたらしてくれる.
彼にはその確信があったのだ.
彼は,この最後の戦いを一人で行った.
本当は,彼にも一人味方がいたのだ.
しかし彼はその味方を戦いに連れて行かなかった.
なぜならその味方の人物は,
自分のために戦いを行おうとしていたからだ.
その人物は,かつてのウォルターと
同じ間違いを犯そうとしていた.
ウォルターが彼を一人残して
戦いへと向かった理由はこれ以外にない.
頼りにならないからとか,
自分ひとり良い格好をしたいから
とか言う理由では絶対にないのだ.
男の生き方ってこんなかんじなんだろうって思った。
クリント・イーストウッドは昔から渋かった。
未だ健在で、渋さも含めこれが男の生き方だって教えてくれている気がした。
自信も年をとり昔を懐かしんでいたのかもしれない・・・。
それと、大事なのは血のつながりでも人種でもなく、相手を大切に思う気持ちが重要なんだということもこの映画で言っているような気がした。
イーストウッドがかっこよすぎる!
そう来ちゃうとは思いもよらなかった。だまされた。参ったよ!「ミリオンダラー・ベイビー」の時と同じような偏屈な頑固爺さんがはまりすぎていて、笑えた。利発なスーとの会話がおもしろかったし、奥手のタオとのかかわり方が微笑ましかった。牧師との関係の変化もよかったし、理髪店のおやじとのやりとりもおかしい。独り身の老人の孤独がひしひしと伝わってきた。でも、妥協しようとしないところがイーストウッドらしい。ラストは涙が出続けて、拭く気もしなかった。すごいね。これって、アメリカ自体が感じてることなのかな? そうだとうれしいな。オバマ大統領じゃないけど、CHANGEしたの? 世界の警察としてではなく、世界の一員としてのアメリカの姿だといいね。
最高!!
久々の当たり作品に出会った感じ。クリントイーストウッド監督作品の中でも私的には上位にランクインする!!ストーリーは単純ではあるが全てのシーンでアメリカに対しての皮肉的な発言をしている様にも思える。人種差別・銃・戦争等。特に主人公の朝鮮戦争帰還兵の払拭する事の出来ない心の痛み、最後に愛する人の為に身を張って守るが・・・・。この作品は絶対に観る価値がある。
今でもアメリカは怖い
見ながら色んな事を考えさせられた。イーストウッドと同じ歳の義父が一人で故郷にいて、母も一人で自分の故郷に住んでいて、最近電話してないなぁーと。
そして自分はあの長男みたいで・・・。
銃社会は怖い。見た人はラストでバンバン撃ち殺すと思った、といいましたが
ある意味それも有りか・・・と。でもそれだとダーティハリーと許されざる者のミックスに。殺人者になってもその方がスカッとするかも?
遠くの身内より、近くの他人 それは同じだなぁと。
でもあのラストはショックですよ。ファンとしては。
彼らいといえば彼らしいけど。
サンダーボルトとおくりびとの臭いを感じました。
アメリカ人にしか描けないアメリカ人に捧げる映画
クリント・イーストウッド監督、脚本、主演
という作品は珍しくないですが、
「グラン・トリノ」は昨今のハリウッド映画にない魂への呼びかけみたいなものを感じました。
タイトルの「グラン・トリノ」はヴィンテージ・カーの名前なのだそうですが
いかにもアメ車!という古い車を大切にしている主人公もまた頑固な老人。
いつもぴっかぴかに車をみがいて、それをご満悦に眺めてビールを飲んでいます。
もっぱら足にしているのはフォードのトラック。こちらの車はドアがさび付いています。
そんな主人公の隣家にタイ人の家族が引っ越してきて…とお話がはじまります。
日本の映画をリメイクしなくても、十分感動できる映画作れるじゃないか!
と泣きながら思いました。
クリント・イーストウッドさん、映画作りの後継者を作ってください
静かに泣ける作品です(^o^)
妻に先立たれた頑固で偏屈なおじいさん!
何処にでも居そうですな(笑)
そんな老人のウォルトが
隣人の少年タオやスーとの出逢いによって
心を開き穏やかになっていく・・・・
ストーリー的には、よくある話なんですが・・・
でもそこがちょっと違うイーストウッド監督!!!
彼は俳優だけじゃなく、本当に立派な監督ですね^^
私の期待通りの作品でした(^o^)
そしてシリアスの中にちょっとした笑いあり!
時々、クスッとさせてくれました。
誰にでもいつかは老いがやってくる・・・
ストーリーの裏で、そんな老後の孤独も考えさせられた感じです。
とにかく心に残る名作。
観る価値ありますよ^^
4月28109シネマズ高崎にて観賞
デッドボール、当てられた方も痛いが当てた方も痛い
この作品で俳優としてのクリント・イーストウッドは終了。っというのは本人談である。
この話が広まり、各方面の受けたショックの大きさに当のイーストウッド本人もビックリして「あぁ、いやね、ホントにホントの引退っていうか、まぁ主演とか最近はもう結構キツいなぁっと思ってさぁ」などと言い訳している所を見ると、まぁ完全に無いというワケでは無いのだろう。ただ、少なくとも自分監督で自分主演はもう無いのかもしれない。
「グラン・トリノ」一応は自作自演の最後に選んだ作品らしく劇中イーストウッドが演じるウォルト・コワルスキーは俳優クリント・イーストウッドが今まで演じてきたキャラクターの総括のような男であった。
トラブルに対して警察に頼らず自分で立ち向かうリバタリアンっぷりは西部時代の無法者のようだし、イタ公、黒んぼ(黒人軽称は『ニガー』よりもキツい『クーン(穴ぐま)』を使う。言われた黒人もあんまりヒドいのでビックリする程。)、米喰い野郎と全ての人種を侮蔑する様は「ダーティーハリー」そのままだ。
どちらにしても今までは拳銃で相手をブチ殺してきたワケだが、そんな人生にも終焉が訪れる。
「デッドボール、当てられた方も痛いが当てた方も痛い」
傷ついた側はもちろん痛いが、傷つけてしまった側も相手の痛みを想像してしまう。デッドボールなら相手の痛みの代償のやりとりをするチャンスもあるが、殺してしまった相手の痛みや喪失は計り知れない。
ピースマークのバックルをしたヒッピーの殺人鬼をブッ殺したハリー・キャラハン/クリント・イーストウッドは、その余波を受け止める。究極のリバタリアン、西部最後の男らしく自分一人で。
とにかく、見て!
クリント・イーストウッド4年ぶりの主演、そして監督作。終焉の時を迎えた男が選択する、“人生の幕の降ろし方”に、熱い涙がこぼれます。
どうしたらこんな素晴らしい映画を作れるのでしょう?イーストウッドは、本当に凄い。トンでもない人だと吾輩は思います。この映画、途中でラストがある程度想像出来てしまいます(そりゃあ、あれだけ『ラストが、ラストが…』って煽られたら、何となくわかっちゃいますって!)。で、その通りの展開になった時、『ああ、やっぱりな』と思った次の瞬間、吾輩は涙が止まらなくなってしまいました。悲しいシーンであることに間違いはありません。しかし、事前に結末は予見できていたにも関わらず、吾輩久々に“号泣”してしまいました。何故か?どうしてか?自分でもまったく説明が出来ません。ただ1つ言える事は、これこそが“イーストウッド映画の持つ魅力”なのだな~ってことです。上手く説明できませんが、吾輩の脳の中枢は、この魅力の前に、なす術もなく涙腺を決壊させたのです。悲しい、ホントに悲しいんですよ。でも、この悲しさは“未来に希望を抱かせる悲しさ”なんですよ。正直『もう少し、上手いやり方があったやろう?』とも思ってしまったのですが、無骨なまでに真っ直ぐ、その未来の為に自らを捧げたウォルトの決意。その心中を思った時、吾輩の涙腺は再び決壊してしまいました。人間こんな事、思うだけでなかなか出来ません。ウォルトが人生を賭して灯した“希望”という光は、スーやタオが人生に迷った時、必ず正しい道を照らしてくれる筈です。
決して悲しく、重い映画ではありません。随所に微笑ましい演出が為され、そして笑いのツボも用意されています。特にウォルトが度々怒りを露わにする(不義理な息子や孫達の、理不尽な振る舞いや、不良グループ達の許せない行動に)シーンには、『おお!まるで年老いたダーティハリーだ(^^;!』と、吾輩クスクス笑いが止まりませんでした。まるで『歳はとっても、俺の正義の怒りは不変だぜ!』という、イーストウッドの心の叫びが聞こえてくるようでした。このように、骨太な中にも軽妙洒落な演出を織り込み、そしてラストに希望の涙を流す大団円を用意する。派手さはないけれど、スクリーンを通して、人間の一人一人の存在が、どれだけ大切なものなのかを思い知らせてくれる。スマートじゃないけれど、一級の芸術として完成している…。この映画は、そんなイーストウッド映画の最高峰と呼べる作品に仕上がっていると思います。然るに何故、この映画はアカデミー賞にカスりもしなかったのでしょうか?吾輩個人的に“作品賞”あげてもイイくらいの映画だと思うんですがね~(現時点で「スラムドッグ$ミリオネア」は未見ですが)。今のところ間違いなく、今年のNo.1です!
本作でイーストウッドは、俳優業のリタイヤを宣言したそうです。確かに間もなく79歳(?!)になられることを考えれば、それもアリかな~とも思います。ラストでこれだけ素晴らしいモノを見せていただいたのですから、俳優人生の花道には相応しいと思います。これからは監督として、心の底から感動出来る映画をドンドン撮っていただきたいモンです。でも、気が向いたらまた演技も見せてください。
イーストウッド 天才!
この映画、公式ホームページに有るコピーの
今、大人が迷う世の中。でも、この男がいる。
そのまんまだと予想して見に行くと
『全然違うじゃん!』
ってな感じになります。
“腕っ節が強い、古き良き時代のアメリカの男が復活する話し”
では有りません。(私はそう思って見ていました)
もっとしっとりした、感慨のあるストーリーで、
じっくりと見たい映画です。
派手なアクションやお金のかかったセットはまるで無し。
情緒が有り、ウイットに富んでいて、リアルで
アメリカよりヨーロッパの香りがします。
製作に ワーナーブラザーズ が挙がっていますが
もし俳優・監督がクリント・イーストウッドじゃなかったら
お金出さなかったんじゃないかなって位
地味な内容です。
多分この作品については沢山の方がコメントを書くと思うので
私は印象に残った大切だと思える事だけを書きます。
冒頭シーン、主人公の妻の葬式に孫が出席します。
私はその孫達の、
色は黒いけどへそを出した服やおざなりな態度、
それを見て笑っている親や周りの人達を
『日本とは違うし、こんなもんだろうね。』
と違和感を覚えずに見ていました。
そしてラストでも葬式が出てきます。
そこではそんなアメリカ人(この場合白人)とは対極に
(多分)第一礼装をした少数派民族の人が出てきます。
そこに有る
“敬意”
の部分をクリント・イーストウッドは描きたかったんじゃないかなって
思いました。
それは生きている事への敬意であり、
死に行く人への敬意です。
とてもシンプルな映画だと感じました。
これは自分を大人だと自覚する男性には絶対お勧めできます。
特に
独りになりたい、だとか、独りを楽しみたい
そんな時。
あとは子供のいる夫婦。
家族のあり方を考えさせてくれます。
あっ、念のため。
歳の若いカップルや、甘いカップル向けではないと思います。
次世代へのメッセージ
「グラン・トリノ」
それはひと昔前のアメリカ・フォード社の大型車である。
ある意味、大量生産・大量消費・大量廃棄の時代の遺物ともいえる。
でも、主人公はこの車をつくることに愛情を込めていた。
一方、主人公の息子はトヨタのディーラーである。
時代にあっているんだろうが、彼は車そのものよりも売ることに余念がない、
経済合理主義だ。
そんな親子の関係は破綻している。
そんなとき、隣に引っ越していたモン族の家族。
そこには、忘れかけていたコミュニティがあった。
特に、そこの姉には、至極真っ当な主張とプライドがある。
その弟は人生に迷っているが、誠実さを感じることができる。
主人公と、少数民族の家族たちとの交流が楽しい。
遠くの親戚よりも近くの他人。
同じアメリカ人よりも、マイノリティとされる人たちに、
シンパシーを感じる。それは人間愛に近いものだと思う。
クリント・イーストウッドの視点には、いつもいつも、
共感してしまう。
「硫黄島からの手紙」の日本人へのまなざしにしても、
「チャンジリング」の母親・女性へのまなざしにしても、
今回の「グラン・トリノ」のモン族へのまなざしにしても、
その視点はひとつの民族を超えて、人間そのもの、いや、
生きとし生けるものへの限りないやさしさを
を感じずにはいられない。
この映画のクライマックスは、イーストウッド映画のファン
謎解きを提出しているように見える。
「荒野の用心棒」や「ダーティ・ハリー」の頃とは解決手段が
変わったけれど、それはひとつの時代のおわりであるとともに、
次世代へのメッセージのようにも思えるのだ。
「チャンジリング」に続いて、間髪をいれず、こんなに
すばらしい映画を見ることができたことに感謝したいと思う。
クリント・イーストウッドの回答
前2作は戦争映画、しかも米国、敵国日本の両視点からの映画。
もう、この辺で彼のメッセージはバリバリ、外部に発せられているわけですが、次は暴力と人種に絞り込んできました。これは、世界にというよりもアメリカに対する映画なんだと思います。アメリカのIMDbで極めて高得点(現時点で8.4)というのも何となくわかります。
途中のスーの魅力あふれる演技、タオの成長、とにかくアジア俳優が魅力的なんですが、主演のクリント・イーストウッドの前半の悪い人物像のこと・・・。
しかし、全ては最終的に彼の最終選択に集約します。これが、彼のメッセージなんです。これが、最終的に彼の考える平和の道なのかもしれません。
昨日見たスラムドッグ・・・には及びませんが、じんわり「あー、やっぱ映画っていいな・・・。」と思わせてくれる映画です。クリントと同年代のアラ還(またはオーバー還)のお父さん方、是非おすすめです。
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