子供の情景のレビュー・感想・評価
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無力な子どもと戦争が生み出す事象
文化の違いで男尊女卑が当たり前に残っている社会では男の子たちの対応も仕方ないのだろう。(日本だって十二分に残っているが)
勉強したいと鉛筆とノートを欲しがる6歳のバクタイの意欲を踏みにじる世界が切ない。
処刑ごっこ等身震いがする。
ラストの死ななければ自由になれないと言うセリフからも考えさせられる。
日本ならほぼ当たり前に小学校1年生としてランドセルを背負う頃に、この国の子どもたちは戦争に蝕まれているのだ。
テストで良い点取るだけの勉強している日本も大概だがいきなり生死の選択にはならないだけマシなだけか?
本当に遺跡で遊んでいるだけで子どもが地雷とか踏みそうでヒヤヒヤしながら観てしまった。
一言で解決しないモヤモヤを感じさせる点である意味プロパガンダとしての面もあるように思う。
もの凄く深く、そして恐ろしい
これは凄い!もの凄く深く、そして恐ろしい。
“クルミが頭に落ちて来たが、カボチャだったら死んでいたからまだ良かったね”
隣の家に住むアッバスが学校で教わった話に惹きつけられたバクタイは、学校に通いたいから先ずはノートと鉛筆を買いに行く。
カンダハールの石像が破壊された場所で戦争ごっこをして遊ぶ子供達。
一見するとたわいない遊ぶに見えるが、
「女は勉強しなくて良い」
「髪の毛を見せているから罰を与える」等と口にする。
イスラムの原理主義による教えが根っ子から生えて浸透している証拠だ。
映画の途中で、数人の女の子達が戦争ごっこをしている男の子達に捕らわれているが、誰一人として逃げようとはしない。
それどころか、その姿たるやテロリスト達に捕らわれ今まさに処刑されんとされている捕虜の姿にしか見えない。
身の毛もよだつ場面である。
そんな男の子達から何とか逃げ出してやっと学校へと到着するバクタイ。
元々自分の席は無いのに無理矢理座ろうとする。
この時の場面でのノートや口紅を使ったやり取りでは、見た目には子供の可愛らしさを垣間見る事が出来るが、別の観方をすると…。
ノート=《土地》。口紅で全員に化粧をする行為は、《世界中に介入するアメリカ》の姿を風刺している風に受け取れなくもありません。
映画のラストではっきりと、「おまえはアメリカ人だ!お前みたいなテロ犯はさっさと死ね!」と叫ぶ男の子達。
その言葉に対してアッバスの忠告を聞かずに、まるでイスラム人を代表する様な強い抵抗感を示すバクタイ。
この時の彼女が取った行動と、それをシンプルな映像ながらも強い意志で表した演出には鳥肌が立つ思いでした。
普段は買わないのだが、鑑賞後に久々にパンフレットを購入した。
そのパンフレットの中身には、インタビューに答える監督の言葉が掲載されている。
文章は多少違うが大体この様な意味が在る。
※ 《アッバスが持っていた“ノート”について》
(作品中アッバスのノートは色々な人の手によって引きちぎられてしまう)
「このノートはアフガニスタンの文化そのものとして表しました…中略…アフガニスタンの文化は、このノートのように、いろいろな人の手に渡って、どんどんと破壊されたのだと思います。ソ連が来て、タリバンが来て、アメリカが来た。」
※ 《クルミの話について》
「あのお話は、アフガニスタンの民をあらわしたつもりです。アフガニスタンの人たちは、次はソ連、今度はタリバン、今度はアメリカ、というように、その暴力の中でずっと暮らしてきました。…中略…クルミだったから良かったよね。と最初から我慢して自分をなぐさめているんです。」と。
※ いずれもパンフレットから参照しました。
そんな事を話す19歳の女の子が(インタビュー時点では20歳だが)が果たしてこの日本のどこに存在していると云うのか?
何とも逞しく、また末恐ろしいと言えば良いだろうか…。
(2009年5月9日 岩波ホール)
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