「ラストシーンは「不穏」な印象。ペットのように登場した風船は、やがて受難の歴史をたどる。」赤い風船 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ラストシーンは「不穏」な印象。ペットのように登場した風船は、やがて受難の歴史をたどる。
美しい、良い映画ではあったけど、
あのエンディングはどう判断したらいいのかな?
あれって……ハッピーエンドなんかじゃないよね??
どっちかというと、
「勝手に寄ってくる風船」といわれると、
伊藤潤二の短篇漫画『首吊り気球』を
真っ先に思い浮かべる世代としては、
「なついてくる風船」が愛くるしい
純粋な善意の存在とは思いづらい。
まずはひとつの風船があって、
それを寄ってたかっていじめて
破裂させたガキどもがいて、
わらわらと町中から集まってきた
色とりどりの風船がある。
これ、なんか怖くないすか?
弱いゴブリンなぶり殺しにしたら、
復讐に集まってきた100匹のゴブリンみたいな。
個人的にはホラーの香りがしてねえ。
しかも風船が集まって来てやったことといったら……。
僕は、あんな風船おじさんみたいなラスト、
マジで悪い予感しかしないっす。
ネロとパトラッシュ召していく
天使たちみたいに、
少年運んでいくヤバげな風船、
マジで嫌なんだけど……。
あれって、飛べてよかったね!
で済ませて良いラストなんだろうか??
― ― ― ー
アルベール・ラモリス監督の映画は、今回初めて観る。
名前は当然存じ上げていたが、実見する機会がなかった。
『赤い風船』『白い馬』『素晴らしい風船旅行』の3本を立て続けに観て、思った。
なんか思っていたより、えらく「不穏」な映画ばかりだったような。
少なくとも『白い馬』のエンディングは、いくらどう考えてもグッドエンドとは言い難い。
救いがないどころか、それを「楽園への脱出」みたいな口ぶりで表現するナレーションには、恐怖すら感じる。
なに? この監督の価値観だと、少年と馬の運命ってこれが最適解なの??
『赤い風船』の場合は、『白い馬』ほどぎょっとさせられるようなエンディングではないかもしれない。ひとしきり風船たちと空中遊泳を楽しんだあと、ふつうに戻って来て、はいおしまい、という毒気のないエンディングだという可能性もあるからだ。
だが、風船に包まれて、そのままどこかわからないところ――「風船と人間が幸せに暮らせる場所」(『白い馬』の言い回しのパクリ)に連れていかれてFin、という可能性だってないわけじゃないのでは?
だとすると、それはさすがに子どもの運命として、あまりにあんまりじゃないだろうか。
僕たちは、夢と希望を抱えて空に舞った「風船おじさん」の末路を知っている。
僕たちは、飛翔への想いを監督業で実現したアルベール・ラモリスの最期を知っている。
空は夢の領域だ。
飛翔は人類の大きなロマンだ。
だが空は、危険なデッド・ゾーンでもある。
人は、何かの補助なしに空を飛ぶことはできない。
空は、常に死と隣り合わせのリスクを秘めている。
空に挑む人間は、常に「イカロス」へと身を堕とす危険を孕んでいるのだ。
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『赤い風船』と『素晴らしい風船旅行』に共通するのは、「浮遊」と「飛翔」へのあくなき憧れと、それを前にしたときの、童心に返ったかのような胸の高まりである。
同時に、僕は両作の主人公の行動に、度外れた「無警戒さ」「恐怖心の欠落」「無謀さ」「無鉄砲さ」を感じて、観ていてなんだか怖くなった。
空を飛ぶという行為、無重力に挑戦するという行為に対して、少年たちはあまりに無防備だし、あまりに簡単に「危ない瞬間」を踏み越えすぎる。
たとえば『赤い風船』の冒頭。
街灯にひっかかる風船を見つけた少年は、当たり前のようにするすると街灯に攀じ登って、風船をゲットする。いったん、落ちたら死にかねないような細い出っ張りに立ってから、また街灯に飛び移ってすべって降りてくる。
一連の行動で、少年にはまったく躊躇するところがない。
危ないことをしているという認識すら感じられない。
高いところに風船があったら取って当たり前だと思っている。
高所でなんの支持もなく立つことに、一切の恐怖心を見せることがない。
監督も、出演している息子も、あまりに「高所への恐怖」に無頓着だ。
そこが逆に怖い。
あるいは、初めて風船が寄ってきたときの反応にも、若干の引っ掛かりがある。
この映画の「キモ」になる部分なのに、少年はたいして驚いたり喜んだりしない。
妙に反応が薄い。当たり前のように受け入れている。
こうなんというか、異常事態に対して、あまりに平静に対処しすぎている。
それは良し悪しであって、「何かおかしなことが起きた」ときに、これだけ素直で警戒心がないと、つい大丈夫なのかな? と感じてしまうのだ。
この感覚は何に似ているかというと、ちょうど宮崎駿の描く少年少女の示す、「飛ぶことへの憧れ」と「警戒心の薄さ」に近いかもしれない。
(世代的に考えて、あれだけ空が好きで無重力への夢を膨らませてきた宮崎駿が、ラモリスの影響を受けていないはずがない。)
あれはアニメ(=完全な絵空事)だから「監督に全幅の信頼を寄せて」子どもたちの安全と成功を確信しながら観ている部分も大きいが、宮崎アニメのキャラクターたちもまた、あまりに気軽に「空飛ぶ機械に飛び乗ってぶらさがり」「落ちそうになっても一切慌てず」「飛行機の翼を走ったり」「垂直の壁を足だけで攀じ登ったり」する。
飛ぶこと、落ちることに対して、実に無頓着だ。
飛べると信じている。落ちないと信じている。
高所恐怖症の僕からすると、まあまあ信じられない。
しかも、彼らは常に「突然現れた脅威」や「いきなり降ってきた相手」に対して、あまりに無警戒だ。コナンは出会ったばかりのラナのために大冒険を繰り広げるし、パズーは当たり前のように「墜ちてきた少女」を助けようとする。何か危険が迫ったり、巨大な機械が迫ってきたりしたときでも、絶対何とかなるとの確信のもと、少年少女は果敢に立ち向かっていく。
その姿は、尊いし、凛々しい。
でも、彼らの勇気は、蛮勇と裏表だ。
同じことを実写でやられると、
「え? 大丈夫なの??」という気分になる。
アルベール・ラモリスの描く子どもたちには、
そういう「不穏さ」が常につきまとう。
風船を、そんなに信用していいのか?
そんなに簡単に、街灯に登ったり、窓枠から身を乗り出したり、道に飛び出したりしていいのか? 風船につかまって、空を飛ぶことは本当に安全なのか?
僕はこの「危うさ」を、空撮にのめりこんだうえで、不慮の事故で墜落して死んでしまったラモリス監督とどうしても重ねて考えてしまう。
彼自身、そもそも、飛ぶことに恐怖心がなさすぎたのではなかったか。
ちょっと「冒険野郎」のマインドが強すぎたのでは?
それは彼の息子にも遺伝していて、結果的に僕たちは微妙に「ふつうとは違うルールの元作られた映画」を見させられているのではないか。
そんな気がしてならない。
単なる、高所恐怖症男のひがみかもしれないけど……。
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本作における「風船」は、動物もしくはペットの「アイコン」といえるかもしれない。
冒頭に話を戻せば、少年は高台の広場で通りすがりに猫を撫でる。
それとまったく同じ手つきで、風船をゲットし、風船を愛で、連れ歩く。
彼は風船と一緒に街を歩き、雨が降れば風船を傘に入れ、学校にも連れていく。
少年にとって、風船はペットと変わらない。
生き物である以上に、友達。
「モノ」をヒトと同然に扱うなかで、モノにココロが芽生える。
だからこそ、本作の風船は、少年に「なつく」。
付喪神のように、心を持って、
「相棒」として少年に付き従う。
ラモリスの映画において、常に「相棒」には「紐」が付いている。
赤い風船の紐。
白い馬の首縄。
気球から下がる紐。
この紐をつかむのか、つかまないのか。
つかむ時の心は、友情なのか、束縛なのか。
紐を放しても相棒は返ってくるのか。
この紐は、言ってみれば、
ペットの犬につけている
「リード」と同じものなのだ。
信頼の証としての1本のライン。
でも信頼しているからこそ、手放せる。
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『赤い風船』の前半戦は、牧歌的で、抒情的だ。
少年の無垢な心が生んだ奇跡を、
『ピーターと狼』のような音楽に載せて、
メルヘンチックに描いている。
だが、後半戦の悪ガキたちによる執拗な攻撃は、
「子ども」のもう一つの恐ろしい面を垣間見せる。
暴力性。集団性。暴走性。
一度、攻撃性に火がついたら、
全てが台無しになるまでとまらない、とまれない。
若年ゆえの残酷さと極端さ。
暴徒と化し、どこまでも風船を追って来る「迫害者」としての少年たちは、トリュフォーの『あこがれ』や『大人は判ってくれない』の悪ガキたちや、『乱闘街』に出てくるロンドンの貧民窟の少年たち以上に、獰猛で、たちが悪い。
ラモリスが描こうとしている「子ども」は、決して純真で無垢なだけではない。
同じくらい、狂暴で粘着質な悪しき面も兼ね備えている。
「人と交流できる」赤い風船は、否応なく周囲の好奇心を掻き立て、やがて好奇心は羨望を生み、羨望は破壊衝動を誘発する。
ひとのおもちゃを壊して溜飲をさげる子ども。
野良犬狩りをエスカレートさせて本当に殺してしまう子ども。
イジメられっ子が逃げれば逃げるほど追い詰める子ども。
こういう手合いの怖さ、不気味さ、えげつなさを、ラモリスは執念深く描く。
前半で「イヌ」や「ネコ」に近い扱いを受けていた風船は、いつしか「殉教者」のように迫害されることになる。
風船は、石もて打たれ、パチンコを当てられ、しわしわに縮んだあげく、無惨に踏みつぶされる。
迫害に至る転機が、「風船が教会に入ろうとするけど、追い払われる」シーンというのはきわめて興味深い。さらにいうなら、悪ガキに風船をくすねられるきっかけが「パン」(キリストの肉体の象徴)を食べたことというのも意味深だ。おそらくならラモリスは、本作を意図的に「キリストの受難劇」とかぶせて描こうとしているのだ。
悪ガキたちに追いつめられて処刑されるのが高台の空き地というのも、どこかゴルゴタの丘を想起させるし、その後の風船たちの決起は、まさにキリストの「復活」と「昇天」を表わしているといえそうだ。
逆に言うと、西欧の観客の多くは本作の宗教的含意を体感的に理解できるからこそ、この映画の不穏なラストを「救い」として素直に受け入れられるのかもしれない。
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●モノトーンな街並みのなか、真っ赤な風船は本当に映える。
必ずしもパートカラーというわけではないが、くすんだ街と赤い風船の対比は、『天国と地獄』(63)や『シンドラーのリスト』(93)の効果的な「赤の差し色」を想起させる。最近だとたしか『関心領域』(2023)でも少女の持っているリンゴの実で同じことをやっていたような。あと、『ラ・ラ・ランド』(2016)では赤い風船の少年のオマージュをやっていた。
●CGもデジタル処理もない時代に、これだけ自在に「風船に演技」させたというのは、驚愕しかない。ふつうに考えるとテグスくらいしか思いつかないのだが、どうやってたんだろう?? あと、パリの古い町並みと丘陵地の上下構造を背景として巧みに取り入れている。
●本作の白眉は、なんといっても通りすがりの少女(サビーヌちゃん、主演のパスカル君同様、ラモリスの実子)の青い風船に、赤い風船が引き寄せられるあたり。サイレンス映画のようなシーケンスだが、情感たっぷりで味わいぶかい。ほんと、風船がペットにしか見えない!!(散歩で連れているイヌが、こういうことよくやるよねw)
●ロベール・ブレッソンもまた、『バルタザールどこへ行く』(66)や『少女ムシェット』(67)を、迫害を受け続ける弱者を描くことで「受難劇」に仕立てようとした監督だった。
そう考えると、若干意外なことに、ブレッソンもまたラモリスの影響を大なり小なり受けているといえるのかもしれない。なにせ、ラモリスが「ロバ」の映画『小さなロバ、ビム』(50)を撮ったのは、ブレッソンの『バルタザール』より16年も前の話だ。当然、なにか影響関係があるとすれば、ラモリスの方がブレッソンに影響を与えているということになる。
