「永遠の中に封じ込めて」僕らのミライへ逆回転 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
永遠の中に封じ込めて
VHS、個人経営のビデオ屋、古い映画、小さな街。そういうささやかなものがシステム的暴力によって無理やり整地されていくさまを目の当たりにすると、自分のことではなくとも腹が立つし悲しい気持ちになる。
何が一番つらいかといえば、もしそういう流れに反旗を翻そうとしたとき、我々もそのコードに乗らなければいけないということだ。
システム的暴力に対抗できるものは、より強いシステム的暴力である、という虚しさ。
行政によって取り壊し寸前の古いビデオ屋で働くマイクとジェリー。彼らはひょんなことから店中のビデオを壊してしまう。
「ビデオが壊れちまって…」とは死んでも口に出せない二人は、既存の大作映画の「リメイク」を即興で撮り上げ、それを「特別なスウェーデン版」として貸し出す。
ここでの「リメイク」はリメイク元を知っていればいるほど思わず笑ってしまう。個人的には『ゴーストバスターズ』『2001年宇宙の旅』『メン・イン・ブラック』がよかった。あと『ラッシュアワー』は1じゃなくて2だったのもリアリティーあった。生活の一部として映画をたまに見る層って、1とか2とかあんまりこだわんないんですよね、実際。
はじめこそ急場しのぎに過ぎなかったこの「リメイク」作りだったが、作品は意外にも街の人々に大ウケ。ビデオ屋はすぐさま繁盛店へと盛り返す。この調子でいけば店の取り壊しを撤回させることも可能なんじゃないか?という希望が見えてくる。
しかし喜びも束の間で、今度は著作権法の壁が立ち塞がる。2人が撮り上げてきた「リメイク」は無惨にもロードローラーで轢殺されてしまう。これによってビデオ屋に対する強制退去命令をさらなる資本の力によってはねのける、という2人の生存戦略は途絶してしまう。
失意に沈む2人だったが、「リメイク」で彼らの映画制作者としての手腕に惚れ込んだ街の人々が、今度は自分たちも一緒に映画を撮り上げたいと提案してきた。「リメイク」ではなく、オリジナル映画だ。そこにはもはやビデオの借り手/貸し手という金銭的関係はなく「自分たちの映画を作りたい」という作品作りへの原始的な欲求だけがあった。
ここで映画の題材となったファッツ・ウォーラーはジャズ全盛期の名ピアニストだが、現在においても絶大な影響力を誇るルイ・アームストロングやチャーリー・パーカーに比べればいくぶんか知名度は落ちる。
時流ともに忘れられていったファッツ・ウォーラーの姿は、そのままマイクたちのビデオ屋やVHSという旧来的な映像媒体ともオーバーラップする。
映画は1週間で完成したものの、店の取り壊しはすでに決定事項になっていた。業者が店を取り囲むなか、スクリーンの中で肺炎で静かに死んでいくファッツ・ウォーラーの最期を見守るマイクとジェリーと街の人々の表情には、哀愁とも惜別ともつかない涙が浮かぶ。
しかしけっきょく店の中のスクリーンはそのまま店の外にも映し出されており、外にいた業者や警察や街にいた他の人たちも一緒になってマイクたちの映画に拍手喝采を送るところで映画は幕を閉じる。
予定調和といえばそれまでだが、取り壊し業者や警察といったものに表象されるシステム的暴力までもが「映画を作りたい」というイノセンスな衝動によって武装解除させられたのだと思うとそれ以上に嬉しさが込み上げてくる。
もちろん、映画はしょせん映画だ、というニヒリズムが頭の隅に浮かばないわけではない。現実を鑑みれば、こんな旧態依然としたビデオ屋は留保なく取り壊されて終わりだろう。
しかし本作に影響を受けてYouTubeに大作映画の廉価版リメイクを投稿しているたくさんの外国人たちの動画を見るにつけ、このラストシーンがミシェル・ゴンドリー監督の個人的な祈りであると同時に、強い確信を伴った予言でもあったのだなと感じざるを得ない。
また、原題の"BE KIND REWIND"とはよくVHSテープの裏面に書かれている「巻き戻していただけると幸いです」という意味らしい。
マイクをはじめとする街の人々が映画をVHSにしたためることに固執したのは、やがて消えていく自己とそれを取り巻くものたちを、幾度となく再生可能な永遠=映画へと封じ込めたいという欲求の顕れだったのだろう。
時間は巻き戻すことができない。しかし映画は何度でも巻き戻すことができる。ビデオ屋が消え、街が消え、人が消えても映像は残り続ける。
どうか俺たちを忘れないでくれ、という哀切を響かせるように、ファッツ・ウォーラーのピアノが流れてゆく。