「動的な場所で静的なカメラがみつめたものとは」靖国 YASUKUNI 瑠璃子さんの映画レビュー(感想・評価)
動的な場所で静的なカメラがみつめたものとは
出される時間は短くとも、その主張がこちら側に切り込んでくるような人。監督がどちらの視点に立っているのかは明白だ。だが、それを越えてこの作品の根幹をなしているのは、永住権を持つ中国人がみた「靖国」の「フシギさ」だろう。監督はその「フシギさ」を映画の中で追求したり放り投げたりすることはなく、ただただ「フシギさ」を列挙していくだけだ。それを答えを放棄しているととるか、答えは委ねられているととるか、監督の「フシギさ」に寄り添ってみるか。その選択に対しても映画はあくまで受動的な立場を崩さない。(観客自らの「能動性」が要求されるがゆえに黙って流し見れば「それだけの映画」となってしまう)
そういうわけで映画は、靖国神社を正面から描くことはしない。境内で起こる出来事や靖国神社を主体的に語る人々を丹念に、キャプションも極力廃してつないでいく。
私としては、なにが「彼ら」の逆鱗に触れたのかがよくわからない。考えられるシーンとしては高金素梅氏のシーンと、右翼?らしき人物が乱暴をはたらくシーンだろう。だがこの二つのシーンは対になっており、結局のところどちらにも感情移入しにくいように作られていると思う。極端な右翼も極端な左翼も、画面を通してみれば「集中力」で相対化されてしまう存在である。ただやはり靖国神社への素朴な思い入れをもつ人々の生の声が映画にとりこまれていればもっと立体的な作品に仕上がったように思える。例えば一水会の鈴木邦男氏のような方へのインタビューがあればよかったのではないか。戦争への懐古主義的な側面ではなく、宗教的な側面も、当然靖国にはある。映画の中でそこは靖国神社で行われる様々な儀式を通じて垣間見ることが出来るが、いうなれば「信者」の側、誰が公式参拝をしようがどうでもよく、素朴な感情から、ただ兄や弟に会いたくてきている人々も多いのだから、市井の中にある靖国という意味合いが抜けてしまい、多面的な「靖国神社」の存在を伝えるまでにはいたらないのではないか。靖国にはなにもイデオロギーばかりが満ち溢れているわけではない。もっと本来的に靖国神社を支える基礎となり、いまは確実に減っていると思われるそういう人々の「声」をもっと掬い上げるべきではなかったのか。
この「靖国 YASUKUNI」。「蟻の兵隊」のアグレッシブな闘争本能からは程遠いところにある映画である。できるだけどちらからも距離を置き、ただ靖国神社そのものを見つめたいという意思を私は感じた。しかしなんだな、同じ「時間帯」同じ「場所」で「靖国」と「蟻の兵隊」が撮影されていたことに驚く。(「蟻の兵隊」には確か靖国で行われた終戦60周年慰霊祭の模様とそこで小野田さんに「戦争美化ですか?」と語りかける奥村氏の様子がおさめられていたと思った)ついでに「南京の真実」もそのとき撮影されていたらよかったのに。なんだかそのこと自体が既に「靖国神社」という存在を如実に表現しているような気がした。映画のように「靖国神社」が現実から超然としていたら、なおよかった。
苦痛の中で死を迎えた御霊の慰労と安寧のために設立された神社、靖国。あの日、8月15日、酷暑の中、拝殿へと続く長蛇の列を、日傘を差してじっと耐える老婦人の後ろで「特アがさー文句言うことねえんだよなあ。俺ヤスクニに行くっていったらトモダチにひかれたよー。コミケ帰りによればいいだけじゃん」と大声で話し続ける若い男女を、そして境内に渦巻く喧騒とは全く無関係に幼子を遊ばせる夫婦を、孫と思しき少年の肩に手をかけ、不自由な目をしばたたせながらゆっくりと神門に向かう老翁の姿を、わたしは思いだす。刀匠の謡う詩吟の一節「容易勿汚日本刀」、ならば「靖国神社」を「容易に汚し」ているのは一体、誰だろう。
私がこの映画の中で最も好きなシーンは、白い、海自の軍服だろうか、当時の旧軍の軍服だろうか、浅学な私にはそのあたりが判断つきかねるのだが、白い軍服を着用した一群が、あの微妙に音程の合わない揃わない進軍ラッパとともに、拝殿へ行進して来る。そして「食事の喇叭は、兵士にとって一番嬉しいものであります。我々は先輩に敬意と哀悼の誠を表し、これを捧げます」といって、正露丸のCMでおなじみの一節が喇叭から流れる。私にはわからない世界があり、その世界律で哀悼の意を捧げる行為に対し、しみじみとした暖かさを感じ、そしてこれは誰にも否定して欲しくないな、とふと思った。