「謎が多い・・・」チャプター27 jack0001さんの映画レビュー(感想・評価)
謎が多い・・・
1980年12月8日、クリスマス直前のニューヨークでジョン・レノン:John Lennonは銃弾に倒れた。
正直言ってその頃の僕は、ジョンの偉大さやビートルズの影響など過小評価していた。
雲の上の存在だった彼ら、そんな非現実的な対象よりも周囲との折り合いに対して不満や憧れが交錯した時期。
ジョンが平和を訴えようが何者であろうが、僕の生活にどうかかわるかなど考える余地もなかった。
そんなありふれた高校生にとっても、あの出来事、今でも凍りつくような戦慄だったことを覚えている。
何より熱心なファンによる強行、そんなことがあっていいものだろうか?と。
欺瞞に満ちた世界への反撃か?
単なる世間に向けた欲求不満のはけ口か?
犯人マーク・デヴィッド・チャップマン:Mark David Chapmanによるジョン・レノン殺害へと至る3日間の記録、それがこの「チャプター27」である。
この映画の為には基礎知識が必要だ!
もっとも重要なのは、J・D・サリンジャー:Jerome David Salingerの書いた「ライ麦畑でつかまえて」という小説の存在を押えておくことだ。
内容に関する詳細は自身で読んでいただくしかない。
いや、この小説の得体の知れない言葉の羅列と空気を「感じて」もらうしかない・・・何分、起承転結やら単純に結果を求めるだけの物語ではないから。
多感な少年の、その憤りと不安と行き場の無さ、それらと相反した妙な光りを放つ反抗的な口語体。
一人称的に勝手な話を進行させるその少年、実は精神病院で療養中の語りべである(もしかすると彼の実年齢、全く少年の範疇ではないのかもしれない・・・)
当時(50年代)のアメリカを代表する青春小説とでもいえばよいだろうか?
その影響力は計り知れないのだ(その反抗心や社会への訴えがROCK的、浅井健一を筆頭に愛読者は多い。ちなみに彼は所有するバイクに作者の名前"サリンジャー"と命名するくらいだ)
「ライ麦畑でつかまえて」とこの映画の流れは鈍く平衡していく構造だ。
あまりにも類似点が多く、気持ちが悪いくらいである。
感動などを求めること自体が野暮。
偶然、世界に影響をもたらす愛の代弁者を闇に葬られた「やり場の無さ」を、僕らは受け止めるしかない。
何故、マークがジョンに殺意を抱いたか?という明確な答えを求めることは非常に難しい。
この男がどのような力に抑圧され、苛まれていたのかが、不明確な描かれ方だから。
ジョンのファンとして、愛して止まなかったか?
あるいはジョンについて偽善者というレッテルを勝手に貼ってしまったのか?
そのどちらにも見て取れる。
思い込みの激しさ・・・故に独占欲が異常に発達した。
あるいは最愛に思えた人へ、突然嫌悪感を覚えた。
実は、こんな感情って日常に僅かながら見え隠れしているものだ。
*独白するが、僕にもそんな感情など常にある。
急にその人の事など興味の対象から外れてしまったり、吐き気がするほど嫌になったり・・・恋愛の最期など、似たようなものじゃないか?ただし、どんな状況に於いてもきっかけはある。
しかし、この事件については、彼の動機そのものが未だに謎とされている。
そんな「やり場の無さ」こそ、この映画の主旨だ。
人は皆迷い葛藤するという事を、ただそれだけを、主人公マーク・チャップマンは、ホールディン・コールフィールド少年(ライ麦畑~の主人公)の姿に投影させ、実践してしまったのだろう・・・
あまりにもコールフィールド少年の世界観で支配されている男、マーク・チャップマン。
ビートルズ以上に思い込みの激しい「ライ麦畑でつかまえて」
この犯人の気持ちは分からなくもないのだ。
おそらく「思い込みの激しさ」が行動として出たのだ。
そういった解釈で見るならば、ジョン・レノンだって該当する。
彼の「思い込みの激しさ」が、世界平和活動へと誘う要因だった。
だから、ジョンとマークは、同じベクトルと感情を持つ同士に思えてならないのだ。
方や、愛の意味を模索し続けた詩人
方や、愛の歪んだ姿に溺れる「ライ麦畑の番人」
表裏一体かもしれない。
現在アッテカ州立刑務所に服役中の彼は、こう述べている。
「僕は自分自身でない誰かになる方法を探していました。誰かから愛されるような」
この映画から「思い」というものの強さと醜さ、歯止め、そして葛藤を学んだ。
決心の具現化を間違えると、思わぬ方向に流される。
ちなみにタイトル「チャプター27」というのは意味深。
「ライ麦畑でつかまえて」は全部で26章で語られる為、27章目をマーク自らが描きたかったという意味にも取れる。
しかも2007年はジョン・レノン没後27周忌。