変態村のレビュー・感想・評価
全9件を表示
度し難い「サイコ」
多くの人は他者に受け入れられ認められたいと願う。要は愛されたいと願う。
愛を求める男たちの物語という意味では、内容的な斬新さはない。けれど、その表現方法が奇抜だ。
奇抜すぎてちょっとついていけない気さえする。
ヒッチコック監督の「サイコ」をえげつない感じにしたら「変態村」になった。そんな感じだ。
スリリングさが薄い「サイコ」だったともいえる。
村の男たちの欲求を満たすためには村の外に出るのが一番簡単に思える。それぞれ特定の誰かを求めているもののすでにその特定の誰かは誰でもよくなっているからだ。
村の外の人間に会いさえすれば欲求が満たされる可能性が高いだろう。
しかし彼らがそうしないのは、自分のテリトリーから出ようとしない男の性のような気がする。
つまり、男のダメなところをあぶり出した作品だった気がするんだな。
村の面々とは対照的な主人公は自分のテリトリーを持たず各地を転々とする旅芸人。村の男たちと対照なのだから女性的役割だったといえる。
主人公が生物学的にも女性だった場合、割と何でもない普通の映画になってしまうと思うんだよね。
男性に女性的な役割を担わせる。そうすることで作中のあらゆることに対して「コイツら何言ってんだ?」と、驚きや恐怖、または嘲笑を覚え、それがエンターテイメントになる。
とはいえ、面白かったと問われても純粋に面白かったとは返せない。
奇抜でとりとめもない、よくわからない作品で、斬新さは認めるものの、人にオススメできるような作品ではない。個人的には嫌いじゃないけれど。
キリストの受難をベースとする不条理ホラー(パゾリーニ風味)。邦題よりはまともだけど変態は変態。
「違う、俺の妻だ」(大爆笑)。
『依存魔』公開に合わせての旧作上映で、僕としてはこれが初見。
タイトル通りの話ではあるが、タイトルが漂わせるような品性下劣で志の低いスカム・ホラーなどでは断じてなく、それなりに真面目につくられた映画である(と思う)。
ま、出来が良いかどうかはさておくとして。
施設とかを慰問みたいに歌って回っている売れない歌手のマルクが、車の故障のせいで泊まるはめになったペンションおよび近隣の村で恐ろしい目に遇うという、典型的な「一ツ家伝説」「オールド・ダーク・ハウスもの」の構造に、不条理劇としての要素が組み込まれる。
なんで、自分が●●●●に間違われるのか。
観客以上に、マルクにとっては、最後まで意味不明のきわみだったろう(笑)。
この比較的予期できない「不条理性」の淵源は、
もしかすると、パゾリーニの『テオレマ』だったりするかもしれない。
あれは、「近づいた家族全員を性的にメロメロの虜にしてしまう、謎の美青年」の話だった。
『変態村』でも、冒頭の婆さんや施設の女性に迫られるシーンから、マルクには「魅了」系の特殊な力があるらしきことが暗示されており、『テオレマ』のテレンス・スタンプの超常的能力と激しく被る。
テレンス・スタンプは、ブルジョワジー家庭を訪れたから家人全員をうまく籠絡することができたが、間違って頭のたりないゴミの集まる最底辺部落に降臨なんかしてしまうと、むしろこれだけ酷い目に遇って消費され尽くしちゃうってことすかね。
さらに村人たちによる獣姦シーンは、そのまま『豚小屋』や『ソドムの市』にも通じるものであり(実際に本物の「豚」も出てきて、随所で恐ろしい悲鳴を上げ続ける)、監督がパゾリーニを意識しながら本作を作っている可能性は十分に高いと思う。
加えて、この物語は「宗教的」なテーマをも包含しているようだ。
触れるものすべてを虜にするような魅力的な男が、いわれなき理由で拘束され、拷問を受け、辱めを受け、ついには釘を手に打ち込まれて磔にまでされる。
そう、これは「キリストのまねび」だ。
本作は、ホラーであり、不条理劇でありながら、同時に、「キリストの受難」の物語をなぞるようにつくられた「パッション」の物語でもあるのだ。
そういえば、『テオレマ』もまた、「性なる聖人」の話であって、バカバカしい艶笑喜劇の背後に深遠なキリスト教的な寓意を秘めた映画だった。
あるいは、本作で登場する「髪を切る」という辱めも、まさにカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』で、ジャンヌが聖性と女性性を剥奪される重要なシーンで行われた行為と同じものだ。
子犬と子牛の取り違えにも、もしかすると、何らかの宗教的な意味合いがあるのかもしれない(少なくとも●●●●と間違われたマルクが奪い合いになることとアナロジーを形成している)。
何より、『変態村』の原題は、『CALVAIRE』。
フランス語で「ゴルゴダの丘」のことだ。
居酒屋で頭のくるったゴミ住人たちが、一人がおもむろにピアノを弾きだしたのに合わせて、男同士で踊り出すシーンは、『ウィッカーマン完全版』を想起させるような、北欧風俗画ふうのただれた空気感で、とても良かった。
重苦しい短調でシュトックハウゼンみたいなリズムの薄気味悪い曲に合わせて、むくつけき男たちが上下動しながら顔を近づける、どこかソドミーでインティメットな世界。
ああ、グロリアって、もしかすると、この村でただひとりの女だったんじゃないかな。
そして、みんなの恋人としての役割を果たしてたのでは。
その要石(かなめいし)のような女性が、ある日唐突に逐電することで、この村のなかで何かの「たが」がはずれ、村全体が芯から腐っていたんだろうな。
男たちだけの異様にホモソーシャルなダンスシーンを見ながら、そんなことを思った。
ただ、すべてに関して良かったとは、とても言えない。
まず、始まってから二回目の朝までが、異様に長い。退屈。引っかかりや予兆の出し方が下手くそすぎる。何度も寝落ちしそうになった。
(ここを書いた後、他のレビュアーの方が、監督は『サイコ』を強く意識して製作に臨んだと書かれていて、この前半は徹底的にダウナーな感じで静かに進めておいて、途中から加速度的に狂気を増幅させていく組み立ては、まさに『サイコ』に由来するのかと得心がいった。ただ『サイコ』の前半は、ただドライブしてるだけに見えて、とんでもなくニューロティックでノワーリッシュな緊迫感に満ち溢れてるからなあ。『変態村』には、そういう「醸成される空気や気配」の感覚が希薄なのが問題なんだろうね。)
あと、マルクが拘束されたり、髪を切られたりするあたりのカッティングと編集が、あまりに雑で適当。つながりが悪すぎて、ギャグにしか見えない。
拷問シーンや、グロテスク描写も、なんか踏ん切りが悪いというか、勢いが足りない。
終盤の展開も、だんだん尻すぼみになっていく感じで、バランスが悪い。
最悪なのが終わり方で、僕にはこういう形で終わることにどんな大義があって、どんな前向きに評価されるべき意味合いが付与できているのか、まったくわからなかった。
ふつうに、資金と時間が尽きたので、適当に「撮るのを辞めた」くらいの感じしかしないエンディングで、個人的には受け入れがたい。もう少しなんとかならなかったものか。
あと、最終盤の『バスカヴィルの犬』みたいなアレも、やらせていることがかなりチャチい上に、貧乏くさくて、げんなり。
てか、こちらの完全な先入観に過ぎないんですが、もっとえげつないというか、具体的にはハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』みたいなぶっ飛んだ話をおおいに期待して観に行ったんで、それと比べるとだいぶ大人しかったかなあ、と。
とはいえ、全体のアイディアや設定や個別のシーンは、十分面白かったので、残る二本もぜひ観てはおきたいと思います。
でも、パンフをつらつらと観てると、この『変態村』という邦題や、その後の作品の邦題の付け方、便乗商法で紹介した別作品の邦題の付け方など、すべてキングレコードの宣伝マンによる仕掛けなんだよね(笑)。
たぶん、『アルジェントBOX』とかとおんなじ担当だと思うんだけど、ほんとこういう秘宝系のネタで、あることないこと面白おかしく盛り上げるの好きだよねえ……。東宝東和の魂が、現代に宿ってるというか。
パンフ1ページ目の〈ベルギーの闇3部作〉とは: の悪ノリのきわみにあるような舐め切った紹介文のテイストとか、俺決して嫌いじゃないです(笑)。
純粋な愛の作品
畜生道に陥った者たちの狂気なる性愛の果てに余りにも美しく生じた純粋な愛をモノにした素晴らしい作品。泥沼に咲く蓮の花を映像化した稀有な内容。キワモノでしかないタイトルに惹かれて鑑賞したが、とんでもない素晴らしい作品に出くわしたこの喜びは宝くじにでも当たった気分だ。原題はラテン語による「ゴルゴダの丘」である。まさしく、救いの作品であったのだ。それぞれの肉体的な、精神的な受難を経て辿り着く救い。最後の主人公マルクの台詞がとても美しく胸に響く。確かに作品の作り方があまりにも狂気染みて、強烈過ぎるのもあって、エンディングまで辿り着くのが困難ではあるが、これほどの美しい作品に巡り合えることはなかなか無い。まさに肥溜めの底に沈む黄金を掬い上げるような稀有な鑑賞体験だった。目を背けることなく、しっかりと鑑賞して欲しい。その比類ない美しさを感じたときの開放感、清々しさは、一瞬かもしれないが万能な肯定感に包まれる陶酔を与えてくれる。
登場人物たちのこれ以上ない狂人らしさから目が離せなかった。 赤いオ...
登場人物たちのこれ以上ない狂人らしさから目が離せなかった。
赤いオーバーを着た子供達が森に立ってる。バーで村人達が狂ったピアノに合わせて異様な踊りをする。いなくなった飼い犬を探し続ける男がバランスの悪い走り方で去っていく。よくこんなに狂人の気持ちになって作品を作れるなぁ。DVDに収録されてるワンダフル・ラブも見ておけてよかった。
全9件を表示