父、帰るのレビュー・感想・評価
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なかなか味わいのある作品
母親、祖母と暮らす兄弟の元に数年ぶりに帰ってきた父親
喜びを隠せない長男と不信感が顕著な次男
二人を連れてキャンプに行く事になるのだが...
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督作
かなり前に観て好きな映画だったけど
久しぶりに観ても良かった
いずれ乗り越えていく父親とゆう存在との
家族内でも起こる軋轢などを描いていて良い
男の子ならおそらく誰でも経験する父親との反目する関係
タイミングなどで意識がずれる人間関係の難しさを感じさせる
そしてこの映画の素晴らしいところは
父親の素性が一切明かされない事
そしてそもそも本当の父親なのか?
この父親は何をしてた人間なのか?
パイロットならもっと帰宅できるはずだ
では、帰れない場所、例えば刑務所とか軍役についていたんだろうか?
怪しげな行動もあったり
兄弟に対して非常に高圧的な姿は軍人っぽくもある
また掘り出した箱の中身はなんだったんだろうか?
憶測が憶測を呼び、想像力を刺激する
そしてそこに答えがないのが
人間の行動を理解する事の難しさのメタファーなのではと考えさせられる
最後のパパ!と叫ぶ兄弟の姿には
とても味わいがあった
嫌いなわけじゃない
でも仲良くなりきれなかった
やっと手に入れた父親
色んな想いが去来して
考えさせられる映画だった
ソビエト連邦崩壊後の選択
ソビエト連邦崩壊 1991年 から12年後のロシア人の思い
息子を救おうとして塔から落ちて死んだ父は、旧ソビエト連邦の象徴化であり、ロシアがこれから進むべき道を、ふたりの息子に託す形で終わっている。
父の存在に対して、息子たちは確かな絆も愛情も感じることが出来ない不信感とジレンマに苦しまなければならない。しかし、父を客観視すれば、間違いなく強さと逞しさを感じて従うしかない。そして、そんな父の呆気ない死に、適切な対処が出来ない兄弟の幼さ。
父の遺体が小舟と共に湖の底に沈む最期は、ソビエト連邦の人知れぬ葬儀のように感じられる。
革命で得た社会主義国家は表現の自由を奪いました。ソビエト映画も体制批判のタブーから離れ、限られた題材や個性的な表現に活路を見出していたと思われます。このロシア映画にも、その伝統に根差したアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の暗喩を感じます。
「父親をする」とはどういう事か
冒頭、高台から飛び降りる事の出来ないイワン。
そのせいで、友人達からはバカにされる。
本来、ここで飛び込む必要はないのだろう。
皆がいる場所へ行くだけでいいのなら、別の方法もあるはずだ。
つまり、これはただの度胸試しであり、友人同士がまたつるむための「通過儀礼」に過ぎない。
その通過儀礼を達成出来なかったイワンは、皆から仲間外れにされる。
これがこの映画のオープニングだ。
つまりこれは「通過儀礼」の映画であるという事を示している。
父親は息子たちに厳しく当たっている。
まるで、12年分の教育をたった数日間に詰め込んでいるようだ。
もちろん息子たちは父に反感を抱く。
観ている側も疑問に思うだろう。
急に現れたこいつは、なぜこんなに偉そうなんだと。
だが、父親は息子たちの質問に答えない。
父親は何がしたいのか、映画の中では語られないため、目的も動機も明らかにならない。
だが、冒頭で提示された「通過儀礼」というテーマと照らし合わせて、兄弟が映画の中で行った数々の「共同作業」を見てみると、だんだんと分かってくる。
父親は息子たちに様々な事を強要している。
反感されるのも厭わずに。
なぜだろうか。12年ぶりに息子たちのもとへ帰ってきたのであれば、好かれようとするのが普通である。
親子の旅は、いわゆる「親睦を深める」という目的とはかけ離れている。
父親は息子たちにあえて厳しくしている。
そのせいで、車内は常に冷たい空気で包まれている。
「イワンが生意気だから」とか「アンドレが言うことを聞かない」から、というのもあるだろう。
だが、彼らは絶対に反抗しないといけない。立ち向かわなければいけない。
なぜなら、父親は自分の身を呈して、自分自身を「障害」にすることで、兄弟の絆を深め、成長させようとしているからである。
なぜ、監督はわざわざ車を兄弟で押させるシーンを撮ったのか。
なぜ、父親ではなく兄弟に力いっぱいボートを漕がせたのか。
なぜ、死んだ父親を、兄弟であんなに重そうに運ぶシーンをわざわざ長々と見せたのか。
それらの「共同作業」を兄弟にさせる事が、この映画の目的だからである。
あの無愛想で厳しい男は、自分の身を犠牲にして、兄弟が成長して大人になるための「通過儀礼」を行ったのである。
それは無人島から帰ってきた時点で終わっている。
だからこそ、男がボートで沈む瞬間にイワンは男を初めて自分の意志で「パパ」と呼んだのだ。
男は自分の体を犠牲にして、ようやくアンドレとイワン、「2人の息子の父親」になれたのである。
父親が今までどこにいて、何をしていて、何をしに来たのか。
その正体も、動機も解らない。
だが、物語には何の支障もなく、説明など何の必要もないので、語られる意味などない。
それは例えば、ラストシーンのモノクロ写真で表現されるようなクラシック映画の登場人物のようであり、西部劇のようでもある。
余計な背景も動機もいらない。
この映画はただ、兄弟が本当の兄弟になり、父親が本当の父親になるだけの映画である。
それがどれだけ素晴らしいことか。
最高の映画だ。
図太い親爺
総合:65点
ストーリー: 55
キャスト: 70
演出: 75
ビジュアル: 75
音楽: 70
この長い不在の年月を感じない堂々とした態度と自信はどこから湧いてくるのだろうか。12年間の説明は何もなし、挨拶すらなし、照れもなしでいきなり自分のやり方と価値観を子供に押し付ける。
そして帰ってきたと思ったらすぐに息子たちと旅に出発。しかもただの旅ではなさそうだ。怪しい電話、怪しい目的地、そして掘り出された怪しい箱。特別な事情があるのは明らか。何事にも動じず物事を強引に進めていく姿勢は、もしかすると犯罪者だろうか。12年間音信普通だったのは、もしかすると刑務所に入っていたのだろうか。少年の強盗にも全く慌てることはないのは、この手のことは日常茶飯事であるからであろう。そもそも何故今帰ってきて、息子たちと一緒に旅にでなければならないのか。目的があるならば一人で行ったほうが面倒くさくないだろうに。しかし母親がいきなりの父の帰宅とその直後の旅を承諾していることから、少なくとも母親は事情を知っていると思われる。
ところがそんなことはどうでもいい。この映画はそのようなことを取り入れながらも、実は親子関係のみを主題にしている。父親にどんな事情があろうが、打ち解ける前に何があろうが、結局父親が愛情を持っていたことが美しく寂しい写真と音楽で文学的に淡々と暗示される。彼らが理解しあう前に別離を迎えざるえなかった悲劇とその余韻が残る。
しかし、面白かったかといわれるとどうだろうか。演出の仕方とか映画の質とかは悪くないのだが、結局父は帰った来て旅に出てそして去った。視聴者には数々の謎を残したままで。映画の進行に必要性のない話が入りそれがそのまま放置されたまま主題の話だけが進んでいく。謎が謎のまま残されてもまとまりがあればいいのだが、この映画の場合は関係のない話が中途半端なまま残された感じがした。
それと人間の体って生死を問わず普通は沈まない。浮くよな。
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