「灰色の世界」散歩する惑星 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
灰色の世界
ロイ・アンダーソン監督による北欧映画『散歩する惑星』は、まるでこの世がすでに死後の世界に変わってしまったかのような、奇妙な静けさに満ちた作品でした。登場人物たちは皆、灰色の顔をして、灰色の空気の中で、淡々と日常を続けています。彼らは生きているのか、あるいはすでに死んでいるのか――その曖昧さの中に、現代社会の虚無と停滞が浮かび上がっていました。
本作のすべてのシーンはスタジオで撮影されたセットだそうです。道路も空港も、渋滞する街も、現実のように見えてどこか人工的で、現実感をわずかに欠いています。黒澤明のように現実のディテールを積み上げて世界を作るのではなく、アンダーソンは現実を“そぎ落とす”ことで、人間の存在そのものをむき出しにしているように感じました。ミニマルな造形のなかに、死んだ文明の断面が静かに横たわっています。
印象的なのは、目隠しされた少女を大勢の大人たちが崖から突き落とす場面です。後ろに立ち並ぶ群衆はおそらく絵や人形で再現されており、まるで儀式のように若者が犠牲にされていく。そこに描かれるのは、高齢化した社会が未来を犠牲にしてまで現状を維持しようとする構造です。老人たちはグランドホテルで酒をあおり、堕落の極みに沈みながらも、なお制度と秩序にすがっています。その姿は、ファシズムの残滓を思わせる完全なる支配の亡霊です。
一方で、この映画には不思議な可笑しさがあります。吊るされた女性の死体も、つきまとう霊も、どこか滑稽で、恐ろしくない。ロイ・アンダーソンのカメラは常に遠くから見つめ、悲劇を悲劇としてではなく、「人間という生き物の奇妙さ」として描き出します。そこには皮肉ではなく、哀れで愛おしいものへのまなざしがあります。絶望を笑うというより、「もうどうしようもないが、それでも見る」という受容の笑い。彼の“コミカルさ”は、深い慈悲と同義なのだと思います。
『散歩する惑星』は、裏を読ませる映画ではありません。意味を隠すのではなく、すべてをそのまま絵として提示します。単層的で、抽象的で、それでいて心に刺さる。私たちもまた、この灰色の世界の一部なのだと静かに告げられる作品でした。
評価: 85点
鑑賞方法: Amazon Prime
