「コメディ終末譚」柳と風 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
コメディ終末譚
自分が幼かった頃のこと。とにかくカレンダーや時計が大きな意味を持っていたような気がする。
夏休みの宿題は9月2日までに提出しなさい。
6時には家に帰りなさい。
今考えてみれば、なぜそんなことに強く固執していたのかと不思議に思う。
9月2日に宿題が出せなかったからといって、6時までに家に帰れなかったからといって、それがいったい何だというのだろう?先生に叱られるとか親に溜息をつかれるとか、せいぜいその程度のことではないか。
しかしその当時、それらの期限を破ることが、自分という存在、ひいては世界の終わりに直結しているのだと私は強く確信していた。
思うに、子供は自らの有限性を暗に自覚している。言葉を超越したところで、彼らは子供という期間がそう長くは持続しないことを悟っている。
焦っている。
ボール遊びの最中に教室の窓を割ってしまった主人公の少年。彼は先生から「明日までに直しておけ」と念を押される。彼は急いでガラス屋へと向かう。
その道中で彼はさまざまな足止めを食らう。同行した友人が親と話し込んでいてなかなか自分のところに戻ってこない、馬車が遅い、雨が降る、風が吹く。そのたびに彼は怯えたような表情を浮かべる。
訪れたガラス屋の老爺がさらに追い討ちをかけるように言う。
「ガラスのサイズ変更をしたいなら7時までにここへ来なさい」
少年は時計を見る。午後5時。彼は「明日」に加えて「7時」というオブセッションにも縛り付けられることになってしまう。
たかがガラス一枚のために村を疾駆する少年。彼の姿はどこか滑稽でもあり、同時にどこか悲痛でもある。
彼がもしガラスを期日までに元通りにできなかったところで、それで何かが決定的に失われてしまうわけではない。私だってレポートが期日までに出せなかったことは何度でもあるけれど、それで人生が終わってしまったわけではない。したがって彼の必死な姿はコメディチックに映る。しかし彼の心境に、あるいは自らの幼い頃の姿に寄り添おうとしたとき、彼がガラスを期日までに元通りにできないことは、彼にとっての世界が終わってしまうことを意味するのだと我々は知る。
素朴な映像と物語でありながら、我々がどの位相に視点を定めるかによって日常コメディとも終末譚ともその様相を変化させる多重性に、イラン映画の洗練ぶりを見せつけられた。