ふたりの人魚のレビュー・感想・評価
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語られる者の逆襲、あるいは中国映画の現在
『長江哀歌』のジャ・ジャンクーと同じ中国映画第六世代に属する映画作家ロウ・イエの初期作品。手ブレの著しいPOVのような撮影方法は劇映画とドキュメンタリーの境界を溶解させ、空想とも現実ともつかない異空間へと我々を誘う。
物語の構成もかなり入り組んでおり、カメラマンの主人公のモノローグによって開始された物語は、その内部で挿話的に語られる馬達と牡丹の物語にいつしか取って代わられる。入れ子構造の逆転。眼前の何もかもをカメラに接収しようと試みる主人公が、自分の身体で消えた牡丹を探し続ける馬達に主導権を奪われるという構図は、ロウ・イエが私淑したミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』を彷彿とさせる。そればかりかラストシーンでは主人公の恋人である美美が「本当に愛してるなら私を探して」という書置きを残して主人公の前から消え去ってしまう。カメラでは彼女を捉えることはできないのだ。ゆえに主人公は静かに目(カメラ)を閉じ、そして映画が終わる。
映画というカメラを通じてしか立ち上げようのない世界の中で、その外側にある尊いものをなんとか描き出したいという監督の意欲が伝わってくる作品だった。やや作家主義すぎるきらいはあったけど。あと邦題がいい。「ふたりの人魚」という曖昧な叙述は「人魚が2人いる」と「2人にとっての人魚」の二重の意味を持つ。まさにこの二重性こそが本作の要点なのだ。よく思いついたなあと感心する。
ジャ・ジャンクー然りワン・ビン然りロウ・イエ然り、中国(決して香港、台湾ではない)にも少なからず大きな野心と広い射程を持った映画作家がいることが確認できる。そもそも世界一の人口を抱える巨大国家であるわけだし、話を映画に限っても北京電影学院という名門校があることだし当たり前といえば当たり前だ。
ただ彼らの多くは中国当局から目を付けられており、映画製作の際は香港や台湾に逃げるとか、フランスや日本あたりの文化的締め付けの少ない先進諸国に配給を頼るとかいった亡命的手段に出ることを常に強いられている。本作のロウ・イエも天安門事件を題材にした映画を撮って上映禁止を食らい、以降はゲリラ的に活動したり海外資本を頼ったりしている。
映画に興味を持っても最終的には「国家の反逆者」か「お行儀の良い宮廷画家」かのどちらかを選ばなければいけないというのはかなり不健康な状態だなあと思う。巨大な土地と人口を国家という単一のイデオロギーによってまとめ上げるためには強硬的な支配体制を敷く必要があるという中国共産党の方針は度し難い傲慢ではあるが気持ちとしてはわからなくもない。ただそこに不文律的に逃げ道を用意してやるくらいのことはしないと芸術は育ちにくい。せっかく立派な映画学校があるというのにこれでは作家や俳優たちが浮かばれない。
香港・台湾との政治的緊張が強まりつつある現況にあっては、中国のこうした文化規制もますます苛烈なものとなっていくことが予想される。第六世代以下の才能ある中国人映画作家たちの行く末はお世辞にも明るいとはいえない。そのような状況下で撮られたロウ・イエ『シャドウプレイ』が本日(2023/01/20)より日本で上映開始される。彼らが現在の中国で何をどのように考えているのか、その端緒を知ることができれば幸いだ。
苏州河(原題)のような汚ない河(現実)に人魚(空想・幻想)がいるわけがない。※20年前の作品とは思えぬ鮮烈さ
①中国にもこのような映像作家がいるという驚き。不思議な面白さを湛えている。②話がとても面白いというわけでもない。映像美というのでもない。でも蠱惑的な映画だ。③主人公の目(カメラ)を通して先ずは美美という恋人との話が始まる(主観)。美美は時々姿を消す。主人公には『私がいなくなったら马达のように探してくれるか?』と訊く。主人公は马达の物語を勝手に空想する。ここから視点(カメラ)は主観から客観に切り替わる。④ところが、马达が上海に舞い戻ってきてからは、主観と客観とが混ざり会う=つまりもともと別個だった筈の2つの話がいつの間にか交錯し出す。主人公が勝手に空想した物語の登場人物である筈の马达が主人公の目の前(主観)に現れる。美美も牡丹が架空の産物だと思っていたのが実在の人物と知り(この時点で牡丹は死んでいる=実在していない、が)、ここでも空想と現実とが交錯している。⑤そして又姿を消した美美を主人公は马达のようには追わないことを決心する(視点は主観に戻っている)。カメラに語らせるというのでもなく、カメラが物語を紡いでいくというのでもない、映画らしからぬようで正に映画といったら良いのであろうか。⑥映画を考えるんじゃなくて、映画を感じることを選んだら、恐らくこの映画は解る。
一人称で進行すヒューマンネオファンタジー
二組の恋人達、
二つの時間軸、
静かなる交差、
切なき終幕は、
波静かな雑踏。
中国・独国・日本国と三国合作とのこと、
雑踏とした風背景に、鋭い切れ味と円やかな暖かさ滲む
良い映画でした。
入子構造の映画
映画は基本的にビデオ撮影屋を営む「僕」の語りで進んでいく。複雑なのは、その話の中に現れるマーダーという男が「僕」を相手に回想を始めることだ。大きな箱の中にまた小さな箱が入っていて、その中身がなんだか大きな箱の外の世界と通じているような、不思議な感覚に見舞われる。
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