ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ

ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ

1992年製作/92分/イラン
原題または英題:Once Upon a Time, Cinema

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映画レビュー

4.0映画とは歴史である

2025年1月1日
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映画ほど不自由な芸術もそうそうない。

見世物小屋のいち演目として生を受けた映画は、20世紀を通して資本主義の浸透と加速に寄与し続けた。かのレーニンは映画こそ最も優れたプロパガンダメディアであると断じた。『カサブランカ』はドイツを無際限に悪魔化し、『桃太郎 海の神兵』は特攻の意義とアメリカ侵攻の正義を高らかに主張した。

これらのエピソードを「今は昔」と一笑に付すことは、残念ながらできない。いつの時代も映画は資本主義やプロパガンダといった「体制」と共にある。なぜなら、映画には、べらぼうにカネがかかるから。そしてカネを出すのはいつだって資本主義社会の勝者たちだ。

本作の舞台であるイランは日本にも増して表現に対する規制が厳しいことで知られる。イスラム教圏ゆえ、過激な描写はもちろんのこと、そもそも芸術というものそれ自体が嫌厭される傾向がある。

突然現れたチャップリン似の主人公を王が処刑しなかったのは、映画が「カネになるかもしれない」という可能性があったからに過ぎない。

しかし映画が単に資本主義やプロパガンダを拡散するだけのメディアであったなら、映画は今日まで延命することができただろうか?

映画にはもっと崇高な何か(ある人はそれを運動と呼んだり、魔術と呼んだり)がある。そしてそれは経済的思想的打算を超越して受け手を魅了する。王は覗き穴の中で巻き起こるサスペンスの虜になり、そこに登場するヒロインに心酔してしまう。

ああ、彼女が現実に存在したなら!そう願った瞬間に彼の後方に彼女が舞い降りる。「幻が現実に、現実が幻になるのが映画さ」と主人公は微笑む。幾重にも重なるメタフィクション的構造が実にマフマルバフ映画らしく、また同時にイラン映画らしくもある。

王がヒロインに心酔したことで、それを良からぬと考えた側近や妾の手によってヒロインが酷い目に遭わされる。たとえばヒロインの手前で無数のハサミが鳴るシーンでは彼女=映画がハサミによって切り取られる=検閲・カットさまが率直に現されている。

映画と現実を跨ぐ奇妙奇天烈なドタバタ劇はどこまでも続いていく。王が巻き戻れ!と念じるとフィルムが逆回転を始め、人物たちが後ろに向かって駆け出したり、王の側近が映画の中で針の穴に糸を通せずに困っている老婆を助けにスクリーンの横から少しずつスクリーンの中に入っていったり。

荒唐無稽なミザンセーヌの嵐に物語も美学もことごとく解体されていき、カオスの印象だけが無際限に強まっていく。いよいよ何もかもわからなくなってきた我々受け手の心境を代弁するかのように「映画って何だ!!」と絶叫する誰か。

それと同時にいきおい始まる謎の映像。どうやら実在のイラン映画のショットを繋ぎ合わせたもののようだ。ぎこちないモンタージュはやがて抱擁という具体的運動を見出し、無数の抱擁シーンが走馬灯のように明滅していく。

『ニュー・シネマ・パラダイス』あるいは近年であれば『バビロン』を彷彿とさせるような一連のシークエンス。「映画とは歴史である」という映画の主権回復宣言。映画の崇高ささえも資本主義によって説明可能だとしても、歴史だけは領土化することができない。

映画とは歴史である。ゆえに本作のラストシーンはマフマルバフの撮った映像ではなく、イラン映画の他ならぬ歴史的巨匠、アッバス・キアロスタミのショットによって幕を閉じる。

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