「「ユダヤ人映画」&「シン・家族映画」としての『レ・ミゼラブル』のマニアックな翻案作!」レ・ミゼラブル(1995) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「ユダヤ人映画」&「シン・家族映画」としての『レ・ミゼラブル』のマニアックな翻案作!
ラストの円舞シーン。
ぐるぐるぐるぐる、回って回って!
いつもより余計に回しております~~!!!
これぞ、クロード・ルルーシュの歓喜の舞。
そういや、出世作『男と女』でも、結ばれたカップルの男女はカメラといっしょに、ぐるぐるぐるぐる回りまくってたよな、と、エンドクレジットを観ながら苦笑い。
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ジャン=ポール・ベルモンド傑作選グランドフィナーレ、1本目。
巨匠と呼ばれるわりにはちゃんと公開されないというか、『男と女』と『白い恋人たち』『愛と哀しみのボレロ』くらいしか観られていない感のあるクロード・ルルーシュ作品。
実際にこうやって観ると、たしかに作品の出来自体としては、いろいろ隙の多い映画ではあるなあとは思う。
監督本人としては、おそらくベルトルッチの『1900年』みたいな群像劇を目指しているのだろう(まさに本作は1900年の年越しを祝うジルベスター円舞会からスタートする)。
「1945年という臨界点に向けて、錯綜する複数のドラマが一気に収束していく大河ロマン」。さしずめこんなところか。
ただ、実際には全体の出来にだいぶと「むら」があり、緊張感のあるシーンとB級じみたぬるいシーンの差が激しい。しきりに脇道にそれているうちに、何が本筋かわからないようになっている感があるし、後半になればなるほど蛇足感のある展開が増えて、しかもそちらに重心が移っていくという困った事態に。この迷走感と雑駁な印象は、このあと観た『ライオンと呼ばれた男』でもあまり大きく変わらなかったので、中期以降のルルーシュの作風自体がそういうものなのかもしれない。
要するに、シーン間の調子を均したり、物語のテンポを整えたり、全体のカラーを統一したりする「バランス感覚」が決定的に欠如してるんだよね。思いついたシーンを、思いついたままに、ただつないでいっちゃってるような。
こういうタイプって、有名で優秀な監督さんのなかにもときどきいて、アメリカだとロバート・ゼメキスがよく似たテイストで、いつもゲンナリさせられるのを想起した(『コンタクト』とか)。
他にも、冒頭のジャン=ポールの泣き顔のシーンがなぜ強調されているのかよくわからないとか、「日曜洋画劇場」のOP曲みたいなピアノ曲がひたすら流れててうるさいとか、馬車に押しつぶされてる人を助けるために持ち上げるサイドが逆にしか思えないとか、刑事が自害する流れが唐突すぎるとか、文句をあげだしたら切りがないのだが(笑)、陳腐でダサいシーンも多い分、ときどき「おっ」と思うようなショットや、妙なアイディアシーンがぽろっと出て来るのも、いかにもルルーシュらしい。
●アホみたいに高い井戸をすごい勢いで壁にぶつかりながら自由落下する「煙突塔」&パパを仰角で撮影!(滑車もないけど、どうやってふだん使うための井戸なんだよ、これw)。
●何度も繰り返される、ナチス将校が仕事そっちのけで超絶技巧のピアノ曲を弾きまくる謎シーン(ミシェル・ルグランが『遠い日の家族』のために作った楽曲とのこと)。
●延々と修道院の側廊沿いに置かれたピアノを、寄宿生たちが並んで弾きまくる謎シーン。
●終盤、唐突に展開する「逆アンダーグラウンド×ミザリー」の夫婦サイコ譚(爆笑)。
このあたりは、ある種の珍味として十分に堪能させていただきました。
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●古典翻案映画としての『レ・ミゼラブル』
本作で最も重要なポイントしてあげるべきは、やはり翻案作としてのありようだろう。
究極の古典ともいえる『レ・ミゼラブル』。
それをまずは、20世紀前半の物語へと移し替えようというのが、第一の試みだ。
でも、ルルーシュがやっていることはそれだけではない。
何度も何度も原作小説や映画化作品への直接的な言及が行われるばかりか、作中で文盲の主人公に周辺人物が『レ・ミゼラブル』を読み聞かせる行為が繰り返され、その過程で「劇中劇」として有名シーンの再現が行われる。
あげくに海の家のオヤジが「テナルディエ善玉論」をぶちはじめて、主人公とのあいだで論争が起きるというクエンティン・タランティーノみたいなシーンまで出てくる。
まさに『レ・ミゼラブル』まみれというか。
『レ・ミゼラブル』研究披露会というか。
複層的に『レ・ミゼラブル』を食らい尽くしている感じだ。
時代変更をした物語のなかで、さらに自己言及的に原作の内容に触れ続け、主人公に「俺はジャン・ヴァルジャンでコゼットだ」と言わしめる、不思議な「多重翻案」。
しょうじき、それが必ずしもうまくいっているとは言い難いし、いちいち主人公が『レ・ミゼラブル』ネタを何度も何度も自ら蒸し返して来るのも、いい加減聞いていて「うざい」感じもしたのだが、そもそも原作の『レ・ミゼラブル』という小説自体が一筋縄ではいかないことを考えると、面白い翻案ではあると思う。
なにせ、読んだことのある人はわかると思うが、原作の『レ・ミゼラブル』自体、かなり「異様な小説」である。すくなくとも、アニメや映画や子供向けの抄訳やミュージカルで知っているあらすじと、原作小説の示している実像とは、大きくかけ離れている。
とにかく、半分くらいで済む話が、延々と脱線ばかり繰り返しているせいで、いつまで読んでも終わらない(笑)。ひたすら微細に描き込まれる、当時のフランスの状況や、町の様子やさまざまな人々の紹介。ワーテルローの戦いを描く一節。政治的な信条や哲学的な思索の披露。実際、『レ・ミゼラブル』という小説の大半は、物語ではなくて、膨大なうんちくと社会啓蒙的な内容で占められているのだ。
この雑駁で、脱線しがちで、無駄の多いつくりや、最初はジャン・ヴァルジャンの物語だったのが、いつしかコゼットとマリウスの物語にずれ込んでいく展開などは、そのままルルーシュの映画版の雑駁さ、脱線癖、主役のすげ替え(アンリ→ユダヤ人一家)といった要素と相似形を成す。映画版は「原作の持ち味をそのまま作品構造に持ち込んでいる」といってもいい。
すなわち、本作は原作のストーリーを20世紀に移し替えただけでなく、原作自体を作中であらためて引用し、分析し、解釈しつづけるという特異な構造をもち、さらには原作自体の構造性をも模倣してみせているのだ。
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●ユダヤ人映画としての『レ・ミゼラブル』
クロード・ルルーシュは、ユダヤ人である。
僕は未見だが、『遠い日の家族』では、ユダヤ人一家の悲劇を既に描いているらしい。
『レ・ミゼラブル』もまた、バリバリのユダヤ人の悲劇をテーマとした映画だ。
20世紀に時代を移した「ジャン・バルジャン」の映画なのかと思って観ていたら、そのうちユダヤ人家族のフランス脱出話に移行して、途中からジャン=ポールそっちのけで、三人それぞれの辿る苦難が描かれるようになる。要するに、クロード・ルルーシュが本作の時代設定を20世紀に移し替えたのは、「ユダヤ人家族の国境越え」というイヴェントをなにがなんでもやりたかったからだ、ということがわかる。
ここで興味深いのは、『レ・ミゼラブル』の著者のユゴー自身は、そもそもは反ユダヤ主義の側にいたということだ。時代的な背景もあるから致し方ない部分もあるだろうが、Wikiによれば、彼はユダヤ人について「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べて非難している。また小説の中では、大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き、「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフも出て来るらしい。
ルルーシュのなかで、高潔な啓蒙主義者や人文主義者の間でもなお、反ユダヤ思想が一般的だった歴史的背景を踏まえて、「俺たち(ユダヤ人)の『レ・ミゼラブル』として〈上書き〉してやろうじゃないか」という熱い思いがあったのではないか?
もう一点、本作のなかで物語の転機となるのは、常に「密告」と「裏切り」だ。
ナチスによって国を追われたユダヤ人たちを、本当の意味で追いつめたのは、ナチスに協力して密告にいそしんでいたフランス人たちだった。引っ越し先で密告のうえ金目の家具を奪い取る老夫婦。国境越えをエサに荒稼ぎしたあげく、ナチスとつるんでユダヤ人を虐殺している偽の逃がし屋集団。地下室で「飼っている」逃亡ユダヤ人の耳に噓を流しこみ続ける農民夫婦。
「本当にあくどかったのは、お前らなんだよ」。ルルーシュの強烈なメッセージがこだまする。
逆に、司祭(まさかのジャン・マレー!)と女子修道院長(こちらは『肉体の悪魔』のミシュリーヌ・プレール!)は、フランス人(キリスト教)の善なる側を代表する存在だ。彼らの正しきキリスト教精神は、ユゴーの人文主義者としての博愛と連帯の理念の根底を成しており、その部分についてはルルーシュも気持ちよく引き継いでいるようだ。
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●家族映画としての『レ・ミゼラブル』
『レ・ミゼラブル』は、家族の絆を描いた映画でもある。
フォルダン一家の絆。ジマン一家の絆。フランソワ夫婦の絆。
血のつながりを超えて結ばれる、「養い親と継子」の絆。
このあたり、続けて観た『ライオンと呼ばれた男』もずぶずぶの「家族映画」であり、実子と継子といったトピックも強調されていたことを考えると、ルルーシュにとってはわりかし重要なテーマだったのかもしれない。
……と思っていたら、観たあとでパンフとWikiで知ったんだけど、ヒロインのアレサンドラ・マルティンヌって、クロード・ルルーシュの奥さんだったのね。1993年に結婚して2006年に離婚しているから、ちょうどこの映画を撮っている時期はアツアツだったに違いない。
その後も、結婚しているあいだ、ルルーシュは律儀といっていいほどに、毎年のように彼女を主演、もしくは準主演に据えて映画を撮っている。
ちなみに娘のサロメ役の「サロメ」って、なんでこの子だけ名字がないのかとエンドクレジット観ながら思っていたのだが、パンフやWikiには「サロメ・ルルーシュ」とあって、なんのことはない、彼女はクロード・ルルーシュの実子なのだ。
どうやらずいぶん前に離婚した奥さんの子供で、育ての親はその奥さんと再婚したピエール・アルディティ(『ふたりのマエストロ』のお父さん指揮者役の人)らしい。
要するに、これはルルーシュ自身のプライベートな、べったべたの家族映画でもあるわけだ。『レ・ミゼラブル』は継子との愛の物語だが、まさにアレサンドロ・マルティンヌとサロメは現実の継母と継子として、実の親子の訳を演じていたというわけだ。
それにしても、映画の子役として自分の子供を出して、しかもその子の実名を役名にしちゃうって……すごい厚顔さだよなあ(笑)。
クロード・ルルーシュって少なくとも10回以上、サロメを自分の映画に出していて、そのうち4回の役名がサロメ……きっと、一緒に暮らしていないぶん、可愛くてしょうがないんだろうけど、回りも「キモいからやめろ」っていい加減とめろよ。なんかヘロデ王とサロメのエピソードをつい思い出しちゃうし……。
ちなみにパンフによれば、本作でジャン=ポール・ベルモンドの若きころを演じているポール・ベルモンドというのは、ベルモンドの実子らしい(笑)。
どいつもこいつも私物化が甚だしい、よくやるよ、とも思う一方で、たぶんクロード・ルルーシュという人は、「家族映画」というものは本当にこういうつくり方でいいって信じてるんだろうなあ、とも思う。
自分の嫁さんや娘を出演させて、いったい何が悪い? 家族の大切さを描く作品だったら、家族を前面に押し出すほうがむしろ正しいんじゃないのか? そのくらいの気概である(笑)。
最後にジャン=ポール・ベルモンドについて。
62歳にしては、やけに老け込んでいて、くしゃおじさんみたいな顔になっているが、「文盲の苦労人」で、「犯罪者から改心して、市井の善良なる民となった偉人」を、説得力をもって演じていた。
こうして見ると、ジャン・ヴァルジャンって、密告・逮捕・改心・自己犠牲と、いかにもキリスト教的な聖人の類型を大衆化したようなキャラクターなんだな。
ルルーシュ監督は「愛と哀しみのボレロ」位しか知らないのでレビューとても参考になりました!今までのベルモンド映画とまるで異なるので戸惑いましたが、ベルモンドの映画人生の総まとめにはいったのかなあと思いました。ベルモンドは外で動いて走ってジャンプして窓から出入りしてという人だから日焼けはするし、若い時のボクシングで鼻潰してるし年齢の割には皺深い。それでも笑顔が素敵で大好きです