リービング・ラスベガスのレビュー・感想・評価
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若かりし頃、なぜか憧れた生き方…
日本公開1996年秋。
ニコラス・ケイジとエリザベス・シューによる、救いのないラブストーリー。
ととのいました!
「不幸な男女の出会い」と掛けまして、
「勉強しない受験生」とときます。
そのココロは、
どちらも落ちるだけでしょう。
ということで、
マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるはずが、
人間は違うんですよね。
ニコラス・ケイジが演じるのは、ハリウッドの元売れっ子脚本家ベン。
酒癖の悪さから仕事を干されたあげく、妻子に見捨てられたアル中オトコ。立ち直る気力もなく、死ぬまで飲み続けるためにラスベガスにやって来る。
ある日、娼婦サラ(エリザベス・シュー)と出会う。
ふたりはお互いに惹かれ合い、同棲するようになるのだが。。。
「不幸なオトコ」と「不幸なオンナ」のペアは、人生の輝きを取り戻すのか?
残念ながら、
映画の世界では、このパターンがハッピーエンドで終わるのを余り見たことがない(笑)。
ベンは世捨て人、というより、自暴自棄男(じぼうじきお)と呼ぶほうが正しいだろう。
サラと居ることに心の安らぎを感じているのは、まっとうな人間ではなく、死を望んでいるアル中のベンなのだ。(まっとうな人間、なんて世の中にはいないのだが)
ベンが飲みだすと記憶が飛ぶまで飲む。そして、手当たり次第にめちゃくちゃにしてしまう。酔いが覚めて自分のした事もまったく思い出せないほどだ。最悪な飲み方だ。
仕事が来なくなるのも頷ける。
周囲からすればただ迷惑な存在であり、結果的に、二人の居場所はラスベガスの中でもどんどんなくなっていく。転がり落ち続けていく。
救いがない、悲しい映画だ。
しかしなぜか、30年近く昔の私は、
このニコラス・ケイジが演じた男に、強いシンパシーを覚え、憧れ、いっとき毎晩ウィスキーを空けていた。
それは、ベンにではなく、ベンを演じたニコラス・ケイジに憧れていたからだと気付いたのは、恥ずかしながら、最近になってからだ。
【”飲酒運転はイケマセン!”ニコラス・ケイジの絶頂期の作品。だが、私はニコラス・ケイジのその後の低迷期を含めて未だにハリウッドの第一線で活躍する姿に敬意を表するのである。】
■リウッドの脚本家・ベン(ニコラス・ケイジ)は、酒が原因で仕事を失い、妻子にも逃げられた。
自暴自棄になった彼は、死ぬまで酒を飲み続けようとラスベガスへ向かった。
ある夜、路上で出会った娼婦・サラ(エリザベス・シュー)と一夜を共にする。
訳ありなサラは、ベンの優しさに惹かれていき、結ばれるが・・。
◆感想
・ニコラス・ケイジを知ったのは学生時代に名画座で観た「バーディ」である。若き彼はベトナム戦争で心を病んだ友を救うために友をこの世に戻すために懸命に尽くす姿を好演していた。
・その後はニコラス・ケイジ主演作からは、何となく縁がなかった。
ー 私の嗜好である。ニコラス・ケイジ主演の作品は何だか、暑苦しい感じがしたのである。だが、今作で彼はオスカーを手にしたのである。-
<私がニコラス・ケイジを凄いと思ったのは、(しかい、ほぼ作品は見ていないのであるが・・。)彼がオスカー俳優でありながらも、興行失敗作が続き多額の借金を返すために、明かにB級映画に積極的に出演している事である。
40年近くハリウッドの第一線を張る姿には、プロフェッショナル魂を感じるのである。>
どうしようもなさ
日本は他の国よりだめ人間・クズ人間を主人公とした映画が多いです。
てことは、わたしたち日本人はだめ人間を主人公とした映画を好んでいるか──と言えば、そんなことはない。と思います。
日本にだめ人間を主人公とした映画が多い理由は、それが好きな監督が多いからです。観衆の好みとは関係がありません。
(個人的な考察・憶測ですが)なぜそうなってしまっているのか──と言うと、出発点がポルノの監督がきわめて多いことに所以しています。
現世代はちがいますが旧世代、業界の重鎮と呼ばれる監督はキャリアのスタート地点がポルノの人だらけです。荒井晴彦、石井隆、井筒和幸、神代辰巳、高橋伴明、廣木隆一、若松孝二、瀬々敬久、和泉聖治・・・滝田洋二郎や根岸吉太郎さえポルノ出身者です。
で、ポルノでは構成上、女を脱がさなきゃならないゆえに、だめ・クズ人間が必要不可欠になってきます。
女は夜の商売で、男はヒモで・・・そういう定型の四畳半ドラマをつくりつづけた結果、だめ・クズ人間に美学あるいは娯楽性を見いだすようになったのが、日本映画の先達者たちです。
メインストリームでいい映画をつくった監督もいますが、個人的に日本映画は勘違いの歴史をたどってきたと思っています。飲んだくれて女をぶんなぐる男に美学も娯楽性もありゃしませんよ。勘違いがまかり通ってきたから日本映画が衰退したわけです。
で、旧世代がポルノの呪縛に絡め取られたのはいいとして、ポルノと関係のない現世代はだめ・クズ人間が嫌いなはず──と思うじゃないですか。
あにはからんや。
現世代の監督もだめ・クズ人間がだいすきです。いったい彼らの視点からどういう現代が見えているのでしょうか。日本映画界とは昭和を続けるレミングの大移動です。
さて、現世代の監督たちもだめ・クズ人間が好きなことで、ポルノ出身だから──の理屈が破綻していると思うかもしれませんが、そうでもありません。
だめ・クズ人間には、やられる女がつきものです。この設定を利用して女優をいただくのが監督の目標です。かつてのポルノ製作現場の風潮がそのまま日本映画界の風潮に移行したわけです。身も蓋もない見解ですが、旧世代も現世代も、下心が映画監督の本懐です。園子温や榊英雄は氷山の一角でしょう。
つまりクリエイティヴィティが発露しているふりをしつつ女優を追いこんで懇ろになろうってのが日本の映画監督の真の目的です。そんな業界が衰退するのは当たり前なのです。
──
Leaving Las Vegasはだめ・クズ人間が描かれた、一見日本映画のような外国映画ですが、真に迫る気配とやるせないペーソスを持っていました。破滅する人間を描くにしてもこけおどしやはったりでなければ訴えるものです。
日本の映画監督が破滅を描くのは、そのニセの作家性を通じて周りの人々を威嚇したいから──でもあります。簡単にいうと映画製作をつうじて「おれは怖い男なんだぞ」と言いたいわけ。園子温はまさにそれ。北野武も威嚇を動機とした映画をつくりました。
海外では作りたいもの、言いたいことがあって映画がつくられます。そもそも絵であれ小説であれ映画であれ、作品の創作動機はそれが正道です。ところが日本映画界で映画がつくられる理由は監督自身の承認欲や権力欲による場合があります。監督さまと崇められたい──それが日本の映画監督の動機になっていることが多々あります。
Leaving Las Vegasには、しぬまで飲むために換金した金をすべてお酒にして飲んだくれるベン(ニコラス・ケイジ)と娼婦のサラ(エリザベス・シュー)のはかない交流が描かれています。
なぜベンが飲みつづけるのか明かされませんが最初こっけいな酔っぱらいにしか見えなかったニコラス・ケイジがだんだん気の毒に見えてきます。気分によっては、ふたりの零落に共感をおぼえさえします。Leaving Las Vegasには人と人が傷をなめ合う様子が描かれているのであって、だめ人間の末路が描かれているわけではありません。
ペーソスと熱演の甲斐あってLeaving Las Vegasは名作になりました。Imdb7.5、RottenTomatoes91%と85%。
Leaving Las Vegasが名作になったことで、もっとも建設的だったのはエリザベス・シューが報われたことです。本作が公開された当時の謳いは、清純派のシューが汚れ役を演じたことの衝撃でした。
脱いで玩弄される役をやった女優が報われたか報われなかったか、考えたことがありますか。じぶんはわりと考えます。こんなとこ(こんな監督のこんな作品)で脱いじゃってかわいそうに──などとよく思います。日本で脱いだ女優が報われたことってあったのでしょうか。
じぶんは前に若松孝二監督の「完全なる飼育 赤い殺意」(2004)のレビューにこう書きました。
『主演の伊東美華氏のウィキペディアには2004年以降の活動歴がない。で、もういちど繰り返すが日本映画界というのは言ってみれば加虐に歓びをかんじる映画監督の無意味な要求をのんで散っていった数知れない無名俳優たちの墓場──である。
(中略)
この映画は伊東美華氏が気の毒。ほとんど全裸でがんばっている。ひたすらそこだけで他の感想はまったくない。余計なお世話だが消えた俳優の熱演を見ると「どこかで楽しく暮らしてますように」とか思う。』
合う人向き
アル中と娼婦の腐れ縁的な恋愛模様のみがひたすら続く、ある意味で「純粋」ラブストーリーです。
裏返せばドラマもサスペンスも皆無なので、合わない人には徹底的に合いませんが、こういうダルで刹那的な映像世界が好きな人にはど真ん中に付き刺さる感じはよく理解できます。
しかし、オスカー取るほどの演技とは思えないけど。
わざと画面ざらつかせているので、ざらついた男女関係がグイグイ迫ってきます。
気怠さ漂う
主人公も彼女も、今に至るプロセスをできるだけ排除して、今の姿を見せているところが秀逸。何か理由をつけて、だからこうなったと不幸な境遇を意識付けようとするが、すぱっと排除したのは立派。
何としても酒をやめない主人公。その頑なな意思があれば、死なずに酒が止められたと思ってしまう。冴えないアル中をニコラス・ケージはさすがの演技。ただ、映画ではここが限界なんだろう。反吐の臭いとか汚い部屋の様子までは伝わり切らなかったな。
エリザベス・シューは良かったね。高級感ある娼婦を演じていて、どうして彼女が彼に惚れて尽くすのか、判ったようで分からない感じがいいね、
アル中介護
ムード漂う音楽が執拗に流れる理由は監督が音楽も担っているからか、当時にしても今でも古臭くメロウな雰囲気がダサく思える。
腹上死での結末と捉えて良いのかしら、何とも腑に落ちない半端な終わり方のようにも、死にたいから呑むのか、呑みたいから死ぬまで呑むのか、覚悟が伝わらないニコラス・ケイジの潔さが潔くない、これだけ受け入れて追い出す理由が商売敵、ポン引きから解放されるのもアッサリと、この二人が堕落する説得力が足りない。
チャールズ・ブコウスキー脚本の『バーフライ』と原作の『酔いどれ詩人になるまえに』を引き合いにミッキー・ロークとマット・ディロン、本作のニコラス・ケイジとコッポラ監督作『ランブルフィッシュ』での三人でもあり、デニス・ホッパーは本物、皆んながアル中でもある共通点!?
アル中の演技
酔っ払った雰囲気を味わえる映像と、どうしようもないアル中の主人公。ニコラス・ケイジにシリアスな役は似合わないなぁと思っていたら、にじみ出るコミカルな面が感じられるシーンが何箇所も出てくる。
ヨッパライはこれほどまでに近所迷惑になるんだな。スティングの歌が心地よい・・・♪
誰か話し相手が欲しくなる・・・
ニコラス・ケイジも大好きですが、エリザベス・シュー目当てで観ました(笑) ニコラス・ケイジがバーで声をかけるビジネスウーマン?の女性も魅力的でした(笑) 悲しい話でしたね、観た後は誰か話し相手が欲しくなります、僕はお酒を飲みませんが、「最後に目一杯~してから死のう」なんて気持ちはわかります。 もちろん死ぬ計画なんて立てていませんが(笑)
アル中ニコラスの末路
アル中の元脚本家ベン、売春婦サラ、イタリアDV男のユーリ。
水中でグラサンかけたベンと酒の口移しをするシーンが好き。最後は絶命寸前のベンのイチモツをサラが受け入れる。
酒に溺れると恐ろしいな。
終わりが見えない
寂しさからか酒におぼれる男と身寄りのない売春婦の恋愛の話。
男の心に救いが見えない。見ていて胸のつかえを感じる。自分の『個』の中から出ることのない男と当面の寂しさのためにそのままの男を受け入れる女に(最後は違うが)侘しさを感じました。
朽ちゆく幸福な男の物語
朽ちゆく幸福な男の物語のように思えた。
アル中を肯定してるわけではないけど、この男の場合においては酒によって自分の先の人生を捨てた変わりに不安や死の恐怖から逃れ一瞬の幸せを手に入れれたと捉えた。こんな男の面倒見れるかよ、しかもこんな美人が…と思うのだけど、女の歩んできた人生と出会い方が、それを納得させてくれた。ダメな男とダメな女の愛の物語と言えばそれまでだけど、その愛を美しく見せた映像と演出、ニコラスケイジの演技に痺れた。クセのあるアクション俳優というイメージが覆った。
良い映画だった。
アルコールと云うドラッグ
この映画にはメッセージ性も何も無い。
これが前提で観る映画である。
つまり、この主人公はアルコール依存症の典型的な罹患者であり、これはそのままである。
だからこそ、アルコール依存症患者を家族に持つ人だけでは無く、患者にも是非観て欲しい作品である。
冒頭から総てアルコール依存症患者が普通に辿る行為であり、最期こそ娼婦と共にベッドで死せる、とボカして描いているが実際は事故か自殺か病気で死せるのである。
ここからアルコール患者やその関係者、被害者以外受け取る物はハッキリ云って間違っている。
ここからある種のファタジー性や社会に云々、もしかし愛などを感じる事は無意味である。
アルコール依存症患者は、アルコールが総てであり愛という物に価値を感じない。
ただ、ただ、飲んで死ぬ事だけしか考え無いのである。
この主人公はある意味躁病的な患者であり、アメリカ的なのかも知れない。
周りの人間関係などをアルコールで自ら破壊してしまうと人間は鬱病的になり、家に引きこもりながら酒を飲む患者が日本では大半である。
本気でアルコール問題について我々は考え無ければいけない。
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