世にも怪奇な物語のレビュー・感想・評価
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3作共通して主人公がクズ!?
エドガー・アラン・ポーの原作を3人の監督がそれぞれ実写化したオムニバス。
1作目は金にモノ言わす傲慢女主人、2作目は真正サディスト(もはやサイコパスの域)軍人、3作目は落ちぶれたアル中映画俳優と、なぜか主人公は揃いも揃って感情移入しづらいクズ人間なのでw、どの作品も主人公目線でストーリーを追うというより、演技や演出から雰囲気を感じとる楽しみ方がメインになります。
全体的に説明不足というか、展開が唐突な部分が多いのでなおのこと。
個人的お気に入りは3作目の悪魔の首飾り。肝心の白い少女の存在感が薄いのが気になりますが、話のスジは他2作より分かりやすいし、終始得体の知れない薄気味悪さが漂っていて好みでした。
巨匠三人によるポーの映像化オムニバス。フェリーニ作は才能迸る彼の最高傑作のひとつ。
アップリンク吉祥寺の『ホラー秘宝まつり2023』にて鑑賞。
毎年夏になるとキネカ大森と吉祥寺で開催されているこの企画、70~80年代のジャッロやホラーの近作に交えて、古めのマスターピースやハーシェル・ゴードン・ルイスのゴアムーヴィーなんかをやってくれるので、昔ヴィデオで観ただけの懐かしい傑作を映画館で観られて大変重宝している。
今回の目玉のひとつが、こちら4K版の『世にも怪奇な物語』だ。
60年代末にすでに巨匠であったロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニの三人が参加したエドガー・アラン・ポー原作のホラー・オムニバスで(当時、この手の複数監督が参加する艶笑譚や怪奇もののオムニバス映画が、フランスやイタリアで大流行していた)、当初はオーソン・ウェルズやルキノ・ヴィスコンティ、ジョセフ・ロージー、クロード・シャブロルあたりも参加予定だったらしいが、結局頓挫したり合流できなかったりで、上記の三人に収まったとのこと。
同じポー原作で競作するといっても、原作の扱い方や「恐怖」の捉え方、ゴチック的な雰囲気の出し方には、三者三様の個性が明確に出ていて、実に面白い。
内容的には、とにかくフェリーニ作の出来が図抜けていて、残り二人の「前座」感がきつくて可哀想だが、それぞれの味はちゃんと感じられるし、総じて面白いオムニバスだと思う。
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第一話『黒馬の哭く館』。
原作は、ポーの「メッツェンガーシュタイン」。
映画内の使用言語は英語。
ロジェ・ヴァディム監督が、当時の奥さんだったジェーン・フォンダを主演に撮った呪いの物語で、前作『バーバレラ』を撮ってから、すぐに撮影にとりかかったらしい。
原作は、15歳の少年当主フレデリックと敵対する老当主ウィルヘルムの名家同士の抗争話となっているのを、わざわざ「女当主と従兄弟」のちょっと「逆・嵐が丘」めいた愛憎の物語に変えたのは、もちろん第一義的には、妻のジェーン・フォンダにヒロインをやらせるためだろう。
ロジェ・ヴァディムのアプローチは、あくまでも「モチーフ」主体だ。
ジェーン・フォンダの美しい顔貌と肢体、そしてエキセントリックな衣装。
荒涼たるブルターニュの光景と、古城、廃墟、森林、海景の美。
エロティックな器具と、刀剣、蝋燭、タペストリーといった退廃的な調度。
黒馬、仔豹、洋犬、キンメフクロウといった動物たち。
とにかくインパクトのある「かたち」「見た目」のモチーフをかき集め、贅沢に並べて目を楽しませる。そのモチーフの美しさと奇矯さ、不気味さと博物学的な魅力によって、観客の関心を掻き立て、視覚的な幻想にひたらせる。
まずは、そこに主眼が置かれている。
描写はあくまでイメージ先行で、「美しくコケティッシュなジェーン・フォンダの“牝”の魅力」を、ひたすらゴチック的な雰囲気のなかで堪能することが、映画のほぼすべてといってもよい。
そのぶん、各人の演技はほぼ学芸会レベルで、カメラワークもたいして凝っていない。
黒馬を騎乗するシーンなどは、もう少しヴァリエーションを持たせないとさすがに退屈だし、総じて同じようなシーンのリピートが多すぎる。
一点、あまり指摘されない点だが、「黒馬」「炎」「飛び込む」というキーワードで容易に想起される物語がある。
そう、『ニーベルングの指輪』に登場する、ブリュンヒルデと愛馬グラーネだ。
実際、映画のなかでジェーン・フォンダは胸甲のような金属製の服を着ているし、弓の技量などでアルテミスばりの正確さを見せつけている。
罠に囚われたフレデリックをウィルヘルムが助けるのが二人のなれそめというのも、いかにもブリュンヒルデとジークフリートの出逢いを想起させる。
何より、相手役に実弟のピーター・フォンダがキャスティングされているのが意味深だ。
ブリュンヒルデとジークフリートは伯母と甥であり、ジークフリートの父と母は双子の兄妹。このへんが反映されていると考えるのが妥当なところではないだろうか。
要するにロジェ・ヴァディムは、原作の「悪の少年」を妙齢の女性であるジェーン・フォンダにすげ変えるにあたって、黒馬の連想から、そのキャラクターにブリュンヒルデをオーバーラップさせることを思いついた。そこから、愛しても報われない相手役に「ジェーン・フォンダの実の弟」をキャスティングするという奇妙な選択が生まれたというわけ。
別になんの資料を見たわけでもないので単なる僕の当て推量だが、意外といいところをついているのではないかと思っている。
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第二話『影を殺した男』。
原作は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』。
映画内の使用言語はフランス語。
ルイ・マル監督が次作の資金集めのために引き受けた作品で、原作はいわゆる「ドッペルゲンガー」ものの古典。
内容は、ポーが『黒猫』や『告げ口心臓』など複数の作品で繰り返してきたお得意の構図で、いかにもピカレスクな悪漢が犯罪を企てるが、自らの内なる「良心の声」が分離したドッペルゲンガー的な存在に虚をつかれ、犯行を暴かれ破滅するというパターンの物語だ。
告解で自らの過去を語るという設定や、少年期のサディスティックな滑車吊り下げのいじめシーン、死体解剖のシーン(ポーの『息の喪失』あたりを意識しているか)、いかさまトランプの相手が貴族から女性ギャンブラー(クラウディア・カルディナーレにしか見えないブリジット・バルドーw)になっているなど、個々のイベント自体はかなりいじっているが、話の大筋はほぼ原作どおりで展開している。
ルイ・マルの手法は、モンタージュ主導だ。
冒頭の墜落シーンから、かなり凝った時系列のシャッフルと、クセの強いモンタージュが仕掛けられている。その他、回るカメラ、極端なズーム、移動ショット、走ったり剣戟したりの動的なシーン、ドッペルゲンガーの視点切り替えなど、「撮り方」だけで映画を成立させようという、至極まっとうな使命感をもって作られている。
そのわりに、物事の描写自体は、意外なくらい即物的だといえるかもしれない。
実際に起きた事実をなるべくそのままに、比較的淡々と描写している。
これは原作自体の、なんだかポーにしてはやけに抑制的で即物的な文体と呼応させている部分もあるのだろう。
逆にそうであるからこそ、主人公ウィリアム・ウィルソンの嗜虐性や残忍さが際立って感じられるし、下世話でエロティックで露骨なSM描写も、ある種の生々しさを持ちつつも、なんとなく受容できる形に仕上がっている。
ただ個人的には、ルイ・マルにとっては不本意で手慣れないSM描写を無理やり入れ込んだがゆえに、解剖台での女性凌辱をあのまま続けたとして、ウィルソンと同朋たちはどうあの場を収めるつもりだったのだろうとか、バルドーの半裸鞭打ちは許容するのに、イカサマをやっていたと知れた途端に掌をくるっと返す取り巻き連中が不自然すぎるとか、いろいろとうまくいかない部分が残ってしまっている気はする。
あと、エクストラカードとパームを使ったあんな古典的イカサマやって、誰も気づかないなんてことがあるんだろうか、とか。
とはいえ、とにかく絶頂期のアラン・ドロンの美貌ががっつり捉えられているのは確かで、とくに堅めの制服とアラン・ドロンの相性の良さがうまく利用されているのが実に良い。
アラン・ドロンの少年時代を演じている子役も、本家に負けないくらいの澄んだ美貌を備えており、総じてアラン・ドロンをこよなく愛する僕としては、十分にご褒美たり得る映画だといえる。
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第三話『悪魔の首飾り』
原作は、ポーの『悪魔に首をかけるな』。
映画内の使用言語は、イタリア語と英語。
「落ち」以外は、ほぼ原作を無視した完全オリジナルといっていいくらいの、フェリーニ流魔改造が施されており、舞台を現代のショービズ世界に置き換えている。
こちらは、控えめにいってもすごい傑作。
ちょっとぶっ飛ぶくらいの完成度で、20年ぶりくらいに観て、その真価を改めて認識させられた。50年以上前の映画なのに、まるで古びていない。
フェリーニの武器は、想像力と幻視力だ。
あふれかえる綺想と悪夢的ヴィジョン。
乾いた笑いとうつろな恐怖。
伝統的な白塗り芸の演劇をベースとした、妖しさ満点のキャラクターたち。
監督は、映画スターがローマの空港に降り立ったその瞬間から、ノンストップでぶっとんだセンスと畸形的な造形性をハイテンションで投入しつづけ、観客に息つく間を与えない。
フェリーニ様式が確立して以降の映画としては、もっとも商業的に観客に歩み寄った内容(通俗的なホラー)で、極端な難解さを回避しているうえに、時間的にも1時間弱と気楽に愉しめて、かつフェリーニの個性がこれ以上ないまでに噴出している。
しかも、最初から最初まで異様なテンションでぶっ飛ばしてて、すべてのフェリーニ映画のなかでも、最も「動的」で「煽情的」なヴァイタリティがみなぎっている。
個人的には、ある意味彼の「最高傑作」じゃないかと言いたいくらい、僕はこの短い幻想譚を愛している。
フェリーニが、この作品の中核を成す怪奇的なヴィジョンとして、マリオ・バーヴァの『呪いの館』(1966)から「白いボールを持った白い服と金髪の少女の幻影」を借りてきたことはよく知られているが、同じ悪魔(悪霊)キャラとしては、本作のほうが格段にスマートでインパクトのある使い方がなされていると言える。
ここぞというところで、逆回しのボールのトリック撮影が出てくるのは、ジャン・コクトーのセンスをちょっと想起させるし、とにかく少女の上目遣いの半笑いがトラウマ級に薄気味悪すぎる(笑)。
そのインパクトはとにかく強烈で、皆さんお気づきの通り、本作における少女の佇まいや登場の仕方は、のちの日本で一時代を席捲した一連のJホラー群……『呪怨』や『リング』といった「子供/女性の霊が出てくる」あらゆる映画において、圧倒的な影響を及ぼしている。
それと、徹底的に奇妙な登場人物たちで場面の隅から隅まで埋め尽くしていく、フェリーニ特有の悪夢的な幻視性の淵源を辿るとすれば、僕はヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルの描く15~16世紀の地獄絵があるのではないかと思っている。
奇抜な服装、奇矯な行動、グロテスクな顔貌、恐怖と笑いの混淆。
ボスの奇怪なキャラクター群は、そのままローマの空港へと移入され、ロックスターのパロディであり、現代のヴァンパイア(生ける死人)の装いを与えられたテレンス・スタンプの到着を盛り上げる。
悪夢的なヴィジョンはやがて空港からあふれ出し、オレンジ色の夕景を走るタクシーを経て、映画賞の受賞式典をも覆い尽くす。
ラスト近くで出てくる、遠景の高所で窓から光が差していて、そこから人物が声をかけてくるイメージ。あれなどは、まさにヒエロニムス・ボスの絵画内で何度も観てきた描写そのものだ。
それともう一つ。
テレンス・スタンプが首に厳重に巻いているネッカチーフ。
あれを彼がしきりに触ったり、ほどきかけたり、巻きなおしたりすることで、観客の意識をそこに集中させる演出は、なかなかに老獪で狷介だと思う。
あれを取ったら、いったいどうなるのか?
ヴァンパイアの眷属のように、首筋に二つ穴がぽっかり空いているのでは?
あるいは、デュラハンのように、すでに横にすっぱり切れていて、そのままころりと落ちてしまうのでは?
そんな妄想を観客に掻き立てるうまいブラフ、あるいはギミックとして機能していて、本当に感心する。
最後まで観終わったとき、われわれは初めて、この物語がアンブローズ・ビアスの『アウル・クリーク橋の一事件』(ロベール・アンリコの『ふくろうの河』の原作)に似た叙述構造を持った話であったことに気付く。
同時に、凋落したプライドのやりどころや、それに伴う激しい希死念慮といった、きわめて現代的でアップトゥデイトなテーマをも扱っていることに、衝撃を受けることだろう。
『悪魔の首飾り』1本を観るためだけでも、『世にも怪奇な物語』は足を運ぶに値する映画だ。超おすすめです。
怪奇な世界にようこそ。 破滅の美学を堪能あれ。
江戸川乱歩氏等熱狂的ファンが多いエドガー・アラン・ポー氏の小説を映画化した、3人の監督のオムニバス。
『黒馬の哭く館』ヴァデム監督 ☆2つ。
『影を殺した男』マル監督 ☆3つ。
『悪魔の首飾り』フェリーニ監督 ☆5つ。
総合評価は、平均して、☆3.3・・・・・なのだけれど、
「トラウマ必須」と名高い『悪魔の首飾り』が、怖くて、後味悪くて、それでも惹きつけられるという、わけのわからない映画です。
R・PG指定のないこの映画、何も知らずに子ども時代に鑑賞された方は、だいたい口を揃えて「トラウマ」と言う。
とはいえ、”トラウマ”を期待したり、有名なネタバレを知って鑑賞したりすると、「そんなに怖くない」になるかも。
この映画が話題になって、『悪魔の首飾り』的な演出をしている恐怖映画が増えているせいもあるからと思います。
でも、役者の演技、監督の演出。その世界観。やっぱり怖いよ。私には。
『世にも奇妙な物語』の着想のもととなった映画とか。
ポー氏も、江戸川乱歩氏等、後世に大きな影響を与えていますが、
この映画も、各方面に影響を与えているのでしょう。
幻想的で耽美で、人間の闇を切り取って読者に見せるポー氏の世界観を、3人の監督がどう映画化しているか。3人3様の持ち味が出ていて面白い。
ヴァデム監督は、目を引くファッショナブルな衣装と古城・自然の取り合わせ。貴族の退廃的でゴージャスな世界を、ちょっと間延び?と言いたくなるほど、たっぷりと堪能させてくれる。
マル監督は、1作目より時代が現代に近い設定にしているせいか、コージャスではあるものの、よりスマート。必要部分だけを的確に映像化している。
フェリーニ監督は、舞台を現代にし、芸能界を華々しく描き、かつ、現実と心象風景・幻想・幻覚の境目を曖昧にして、百鬼夜行の様をこれでもかと描き切る。
企画の段階で、このようなコンセプトにしたのか、たんに監督の持ち味なのか。コテコテの作品ばかりだと疲れるが、良いバランスとなっている。少しずつ狂気に誘われる。
(ポー氏の小説はいくつか読んでいるものの、この映画の原作未読)
1話:『黒馬の哭く館』ヴァデム監督
とにかく美しい。美男美女もそうだけど、衣装や調度、城や森の風景にうっとりします。
ジェーン・フォンダさん演じる伯爵夫人の奔放さにも釘付け。ヘンリー・フォンダ氏の娘として、元々セレブだからか、立ち振る舞い、言葉等板についています。実生活でもこんななのではと偏見をもってしまうほど。
物語はお金持ちのわがまま女の…でなんとなく言いたいことはわかるけど、「呪いを受け取ることにした」とか急に言われても…(読み取りが悪いのか?字幕が悪いのか?)。最期の女主人公の歓喜極まる表情も、状況を考えると怪奇そのものなんですが、そこに至るまでが説明不足で唐突に見えます。その辺の心理描写をしっかりと、または怪奇的に流れをしっかり描いてくれたら最高なんですが…。ただ、人と戯れ、馬と戯れている印象しか残らない。消化(昇華)不良。”呪い”よりも、女主人公の性癖・言動、それを周りが許してしまう環境そのものが怪奇なのか?一人でいるときとか、男爵といるときは普通の人だし。
ヴァデム監督作品は、他に『危険な関係』しか見ていません。『危険な関係』の、人を人として見ていない、けれどあるきっかけで人としての心を取り戻しそうになる様と共通するのでしょうか?
それより、ヴァデム監督ご自身、相当なプレーボーイだったとか。『危険な関係』でも、その映画の撮影当時妻だった女優を作品に登場させていますが、この作品でも、撮影当時妻だったジェーンさんを主役に持ってきています。そのジェーンさんが演じる伯爵夫人が恋焦がれる男爵を、ジェーンさんの実弟ピーター氏が演じていらして、”禁断の・・・”という雰囲気を出しているというレビューも読んだことがありますが、単に、夫である監督が、妻が他の男に恋する様を見せたくなかったが故の配役?とか妄想してしまいます。(ちなみに、2作目に登場するバルドーさんも、ヴァデム監督の元妻。遍歴がすごすぎます)
映画の方のストーリーにのめりこめなかったせいか、そんな裏事情も頭にちらついてしまいます。テーマ自体は、何でも思い通りになる環境であるからこそ、心が空虚で、それゆえ破滅に導かれてしまう夫人の顛末という映画に最適なものなのに。この伯爵夫人と同じ心境にいたのが、監督であり、ジェーンさん・ピーター氏なのだろうかとまで妄想してしまいます。
私の、エドガー・アラン・ポー氏の小説イメージってなぜか『ポーの一族』。その『ポーの一族』に近いのは1話でしょうか?どこか退廃的で耽美でロマンチック、なのに物悲しいところに酔いしれていました。”宿命”に縛られている、永遠でありながら、”滅び”がちらつき、”発展”が見えない。世界観は見事です。
2話:『影を殺した男』マル監督
とにかくアラン・ドロン氏が美しいし、子役もすごかったです。
でも、映画に遊びがない。現実的で怖いです。
『世にも奇妙な物語』にもドッペルゲンガー的な話があったように記憶していますが、こちらの方が先ですね。でもその設定より、主人公の性格の方が怖かったです。しかも、現実にいそうなのが、よりいっそう怖い。しかも、周りは止めない。なんて人たちなんだ。
マル監督作品は、他には『死刑台のエレベーター』しか見ていません。『死刑台のエレベーター』も、ジャンヌ・モローさんとマイルス・デイヴィス氏の音楽ありきの映画でしたが、この映画もドロン氏ありきの映画です。ドロン氏の、あの冷たさがなければ、もっとドッペルゲンガー現象に比重が置かれた話になっていたのではないでしょうか。
3話:『悪魔の首飾り』フェリーニ監督
テレンス・スタンプ氏の怪演!!! 映画に出てくる女の子は確かにトラウマになります。
女の子を演じた女優は撮影当時22歳と聞きました。「トラウマの女の子」なんて子どものうちからレッテル張られていたらどうしようと心配していましたが、杞憂でした。(ほっ。)
話は、『8 1/2』とカブってしまって…。『8 1/2』より狂気の世界。逃げ場がありません。いや、逃げ場はあそこだけか、ラストの、あの・・・。と、頭が段々と酩酊してきます。呑んでないのに。そんな追いつめられた、諦めた感じが、嫌な感じで後をひきます。
色調がこれでもかというほど、めまいを起こしそうになるほど不愉快です。芸術作品としては凝りに凝った色合いなのだけど、観続けることを拒否したくなります。だのに、時折飛び込んでくるテレンス氏や女の子の表情に心奪われて目が離せません。観たくないのに探してしまいます。
気持ち悪い。夢見が悪い。ラストも、予想しつつも、ポ~ンと、あの場所(ハイウェイなのか闇の底なし沼なのか)に、主人公の代わりに私がおいてかれた感が半端ありません。
すっきりしない。鑑賞後に口直しの映画が欲しくなります。
『道』のような救いもありません。『アマルコルド』や『8 1/2』のようなユーモアもありません。
これだけ、酷評しているのに、忘れられません。怖がりで躊躇するのに、また確かめたくなります。
まさに映像・音楽のドラッグ。
すざまじいの一言です。
ニ度と観たくない、でも惹きつけられてしまう。そんな映画です。
それこそ怪奇な現象? さあ、怪奇な世界へ誘われん。 ともに、狂いましょう。
背筋が凍るような不気味な後味
雑誌で特徴的なイラストを描くイラストレーターさんが昔この映画を観て
「影響された」と言っていたのを読んだのが鑑賞のきっかけ。
エドガー・アラン・ポーの作品を原作として、
3人の監督がそれぞれ1つずつ制作した物語が映される
オムニバス形式のホラー。
ホラーと言っても血みどろな雰囲気は無く、
どことなく不気味な背筋がぞくりとするような後味。
1番目の「黒馬の哭く館」は、ストーリーはもちろん
独特な美的感覚で作られた衣装も印象的。
2番目の「影を殺した男」は若かりし頃のアラン・ドロンに目が行きがちだけど、ラストの演出は中々に不気味。
3番目の「悪魔の首飾り」は、
少女の笑みが脳裏に焼き付いて夢に出てきそう。
ジャパニーズホラーとは全くテイストが違うのにこっちの方がかなり怖い。その笑みに魅入られたら最後、二度と彼岸からは帰れない…。
耽美な純文学
総合:75点
ストーリー: 70
キャスト: 80
演出: 80
ビジュアル: 75
音楽: 65
第一作目
自分が世界の中心と考える小人が、美と権力と金を持つとこんなに傲慢でわがままになる。昔の貴族って本当に傲慢で嫌な人だ。それが自分の愚かさがもたらした罪悪感から狂気に走る、炎に向かって文字通り走る。そして悲劇的浄化によって狂気が鎮静される、耽美な純文学だった。その耽美さがゆえに、個人的には一番気に入った。ただしジェーン・フォンダの美を少しだけ必要以上に前に出し過ぎた印象はある。貴族が馬に乗るのにそんな露出しなくても。
第二作目
自己中心的で、人を虐げることが大好きで、そんな自分がこれまた大好きという、嫌なやつが主人公。そんな彼に現れるもう一人の自分は、彼の悪事を止めようとする彼の隠れた良心なのか、彼を正しい方向に導こうとする神なのか、それとも彼を破滅へと導く悪魔なのか。彼は社会にとっては害毒のような人なのではあるが、それにしてもこれだけのことでこの結末は厳しい。
第三作目
主人公は酒浸りということだが、むしろ麻薬でラリッた人が夢を見ているように思える。何もかもが現実感がない。弱い自分に絶望していて、現実逃避をして、さらにそこから進んでこの世からすらも逃げ出したくなっているかのよう。実は自ら望む物を見て望む道を行ったんじゃないかな。とても妖しげで退廃的で破滅的で幻想的で、独特の雰囲気が出ているという意味では一番。世間的には三作の中で一番評価が高いらしく、知らない人だけれども主人公の役者も相当に頑張っていた。
ところでこれって恐怖映画らしい。でも見ていて怖いと感じたことは全くなかった。原作者であるポーの小説をいくつか読んだことがあるが、世間で怖いと言われていても自分が怖いと思ったことはなかったし、現代からすれば古臭い。この作品も今の基準からすればちょっと不思議で幻想的な話という程度で、恐怖映画にはならないと思う。
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