「山の生活」山の焚火 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
山の生活
むかしのじぶんにとって山の焚火はパゾリーニのアポロンの地獄を見るのと同じだった。禁忌を描写しちゃっているぞという扇情的な触れ込みが若いわたしのあたまの中ですごい絵にふくらんでいた。
しかし思えば若い頃エロを期待して見たものがエロだったことはなかった。(とうぜんといえばとうぜんだが)名画であつかわれる性は題材にすぎない。とはいえ今見るのとは違う新鮮さがあった。
端的に言うと閉鎖的空間によって引き起こされた近親姦を描いている。が、改めて見ると山の生活記録だった。
幼いころアニメのハイジを見た世代はハイジが住んでいる魅力的なログハウスや寝起きしている丸窓から高原が見渡せる山地生活にあこがれを持ったのではなかろうか。
山の焚火もおそらくハイジのようなものだ。ただし耳の聞こえない息子「坊や」が一家の生活にとほうもない混沌をもたらす。だが、それも含めて全体として孤立した山岳生活を描いている。
つまりハイジとてその後をリアルに大人向けに描いたとしたらペーターがハイジを犯ってしまうのかもしれない。
山の焚火も近親姦に重点を据えているわけではなく、山岳生活とはそのように僅かな人と人が孤立して生きている──と言っているのだった。
親は坊やが本来もっている男性に無頓着すぎた。耳が聞こえず精神的にも子供であることで坊やの素地にある性に油断していた。が立派な男の体をして対象が姉しかいない。それが起こることは必至だった。
とある批評家が学校へ行かないマーケティングをしている子供に、いずれ彼はできちゃった婚をして売り込みが終焉するでしょう──と予測していた。まったくだ。することのない若い男は性へ奔り最も手近な者をはらます。
キムギドクの春夏秋冬~で残酷な幼年期を終えた僧の青年期の描写は岩場で女とやっているところからはじまる。
あまねく人間のプリミティブな欲求なのだった。
もちろん姉ベッリにもそれは言える。姉弟がやったことは神をも畏れぬタブーだがベッリはあんがいタフだ。姉弟で仲睦まじくやっていきそうな鷹揚さも見せる。
そもそも相姦の描写はなく焦点でもなかった。
ムーラー監督のwikiには──
『~ギリシア悲劇的アクセントをもつ山岳住民の近親相姦を描いた『山の焚火』で真のインパクトを生み出し、~』
──と書いてあるがギリシャ悲劇作家のパゾリーニは性が中心テーマだが、フレディムーラーは山のドキュメンタリー作家である。
父が散弾の誤射で死に、それを見た母が発作で死ぬのはむしろ滑稽で唐突だった。母が一寸目を覚ますのが映っていてなんか適当さもあった。
山の焚火の触れ込みにはこれらが衝撃の結末だと謳ってあったがわたしはメルヘンに落としているように感じた。
この映画は権威主義者が性的なところに着眼した見解をしてそれが主流になってしまっているが、ユニークな山の生活を描いた記録映画と見るべきだろう。(と思う。)
死化粧された両親をいつでも拝顔できるようにするラストはなんとなく笑える。ユーモラスな(と言っていい)映画だった。
(現代の萌文化には妹に憧憬する兄という構図がよく出てくるが、兄妹間もしくは姉弟間における暗い欲心を描いたそれらのアニメやライトノベルは、近親姦に至らずともそれが仄めかされることで、山の焚火よりもはるかに不健全だ。そんな現代では尚更この話を衝撃と言ってしまうのは無理がある。──という話。)