「保安官バッジよりも大切なもの」真昼の決闘 TRINITY:The Righthanded DeVilさんの映画レビュー(感想・評価)
保安官バッジよりも大切なもの
孤立無援の保安官と、復讐のために舞い戻った悪党一味との対決をリアルな時間経過を軸にスリリングに描く、古典的西部劇のマスターピース。
日本で西部劇映画について語る場合、まずハリウッド(アメリカ)製西部劇とマカロニ・ウエスタンとに区分したたうえで、前者を「本場」「正統派」と称える一方、後者を「まがい物」「インチキ」と貶めることが多い。
だが、「正統派」の本場ハリウッドの西部劇もまた、大きく二つに分類することができる(と思う。あくまで個人的見解)。
ひとつは「インディアン・シューティング・ムービー」と、もう一つは「それ以外」。
本作は後者に属する代表的な作品で、『シェーン』(1953)や『大いなる西部』(1958)と同様、白人同士の間にも深刻な対立が存在する(あるいは、簡単に対立が生じる)ことを主題にした、当時としては異色かつ画期的な西部劇映画。
主人公のウィル・ケインは、キリスト教フレンド派の若妻エイミーとの結婚を機に、引退を決意する老保安官(劇中の彼は「マーシャル」と呼ばれ、事務所にもMARSHALの表記があることから、連邦保安官だということが分かる。地元住民の判断で雇用できるシェリフ〈sheriff〉と違い、州の任命が必要なので、若い助手が「俺が次の保安官になりたかったのに」とゴネてるのは、マジでガキっぽいわがまま)。
仲間に祝福されて結婚式を終えたばかりの彼のもとに、五年前に自分が逮捕し監獄送りにした極悪人フランクが正午の列車で街に戻るとの報せが。
かつての悪党仲間と合流し、保安官に復讐することが目的だった。
時刻は午前10時40分。ここから映画は実際の時間とほぼ同じ流れで推移し、観る側も主人公の焦燥や苦悩、町民の無策・無力をリアルな感覚で目撃することになる。
当初は仲間に促されて一旦は新妻とともに町を離れるものの、意を決して戻ってきたケイン。
妻の哀願をよそに、フランク一味を迎え撃つべく、ふたたびバッジを胸に自警団を募るが、ケインの期待に反してある者は臆病風に吹かれ、ある者は撃ち合いになって町の評判を損ねることを危惧し、また、ある者は高齢を理由に、そして助力を約束した筈の最後のひとりも勝ち目がないと悟るや、家族を理由に彼に背を向ける。
孤立無援のなか、無頼漢4人を相手に闘う羽目になり、恐怖と焦燥感に苛まれるケイン。
だが、無情にも時間は刻一刻と過ぎていく。
そして正午。駅にはフランクを乗せた列車が、予定どおり到着し─。
『真昼の決闘』が製作された1952年当時、ハリウッドでは赤狩りの猛威が席捲していた。
そのため、本作は赤狩りを寓意的に扱った作品と受け取られることも多く、実際に原作小説にアレンジを加えた脚本家のC・フォアマンは映画の完成後、亡命を余儀なくされている。
その一方で、製作のS・クレイマーや監督のF・ジンネマンは政治的意図はなかったとも。
ケインを町から逃がした際の住民は、この時点では概ね彼に好意的。だが、信念なのか意地なのか、「僕は今まで逃げたことはない」と言い張って彼はふたたび町へ舞い戻る。
作品中には、主人公に不満を抱くグループ(保安官が悪党に撃ち殺される話題を肴に、午前中から酒場で屯ろする不道徳者として描かれる)も少数派ながら登場するが、多くの住民はケインの功績を認め、彼を尊敬していた人たち。それだけに、「どうして素直に言うことを聞いて逃げてくれないんだ」という戸惑いや苛立ちがストーリーに滲み出てくる。
個々の政治的スタンスに関係なく、共に映画作りに励んでいた仲間が赤狩りでリストアップされた時、残された側には、「嘘でもいいから転向してくれ」という願いもあった筈。
だが、D・トランボらのように信念を曲げなかった者は、映画界からの追放を迫られる。
本作は、単に赤狩りを非難する文脈だけでなく、仲間を救えなかった多くの映画人の無念や無力感が込められているのだと自分は思う。
作品には、ケイン以外にも二人の女性が孤立した存在(マイノリティ)として登場する。
フランク、ケイン双方と親密な関係だった経験がある酒場の女主人ラミレスは、「この町はメキシコ女に冷たい」と心情を吐露し、町を去る準備にかかる。
一方、すがる思いで彼女を訪ねたエイミーは、撃ち合いで父と兄を失って改宗した経緯を口にする。
キリスト教フレンド派(クェーカーは本来は蔑称)は当時、異端とされた宗派。
平和主義を旨とし、女性の権利や黒人奴隷の解放など先進的な教義を唱えたフレンド派は、保守的な勢力とは絶対に相容れない(だから牧師に「なぜ教会に来ない」と詰問されるまでケインは妻の宗派を秘密にしていた)。
「町のことより自分たちのことを考えて」と訴えるエイミーは一見、自己中心的な存在にしか見えないが、平和を求めて切実な気持ちで改宗したのに、今また大事な人を銃禍で奪われることへの激しい抵抗でもあることも理解すべきだろう。
映画のラストは、ケインが保安官バッジを地面に投げ捨てる有名なシーンで幕を閉じる。
だが、その前に彼は、一度は決別したはずの妻を抱き起こしてやさしく抱擁する。
政治的な思惑で簡単に分断を招く権力より、もっと大切なもののために和解の道を模索すべき─。
ラストシーンには、現代にも通ずるそんなメッセージも込められている気がしてならない。
主人公のケイン役は、ベテラン俳優のゲイリー・クーパー。従来のヒーロー像ではなく、苦悩する等身大の老保安官を好演し、この年のアカデミー主演男優賞に。
ヒロインのエイミーを演じたのは、映画出演二本目のグレース・ケリー。若さと気高さが際立つ魅力をこの作品で存分に披露した彼女は、のちにモナコ公妃になったことで有名。
二人だけでなく、他の出演陣も多士済々。
野心家で嫉妬深い保安官補ハーヴェイを演じたのはロイド・ブリッジス。TVでも活躍し、息子たちも俳優として成功している(彼も一時、赤狩りにリストアップされたことも)。
サム役のハリー(クレジットはヘンリー)・モーガンは、ほかにも西部劇に多数出演しているが、『グレン・ミラー物語』(1954)での主人公の親友チャミー役が印象的。
前任の保安官を演じたロン・チェイニーJrはモンスター映画の常連俳優。
ドラキュラ、狼男、ミイラ男、フランケンシュタイン(の怪物)すべてを演じたとか。四刀流だね。
フランクの一味コルビーを演じ、いの一番に画面に登場するのは若き日のリー・ヴァン・クリーフ。
オープニングでは精悍なアップもお披露目し、強烈なインパクトを植え付けるが、本作が彼の映画デビュー作。
しかし、オープニングの鮮烈なイメージとは裏腹に、本編の彼には一言のセリフも与えられず、目立ったシーンもない。
その後の彼のキャリアも不遇。
端役ばかりで大きな役をもらえず、1960年代半ば頃には俳優としてセミリタイア状態だった。
だが、イタリアからの誘いで出演したマカロニ・ウエスタン『夕陽のガンマン』(1965)が世界的に大ヒットし、リーも一躍大スターに。
『真昼の決闘』がその後の多くの映画に影響を与えたことは有名だが、西部劇好きのS・レオーネがリーを招いて監督した『夕陽のガンマン』も本作のオマージュで一杯。
『真昼の決闘』同様、冒頭で精悍なアップを印象付けたリーは、フランクのように列車で登場し、ケインのように独りで悪党一味に立ち向かおうとする初老のガンマンを貫禄たっぷりに熱演(当時の実年齢は40歳)。やはりマカロニ・ウエスタンでキャリアアップしたスーパーレジェンド、C・イーストウッドの向こうを張った存在感を示している。
マカロニの貴公子G・ジェンマと共演した『怒りの荒野』(1967)では、みずから射撃の手ほどきをした主人公と対決する運命になる、ちょっとひねった悪役を好演(ちなみに、役名はフランク・タルビー)。
晩年に出演した『ニューヨーク1997』(1981)でのホーク所長役もシブくてかっこいい。
決闘に向かうケインに牢屋から追い出される酔っ払いを演じたジャック・イーラムも、のちにレオーネの『ウエスタン』(1968)に出演し、本作を模した冒頭で、駅で待ち受ける3人組のひとりをケレン味たっぷりに演じている(ここでも悪役の名はフランク!!)でも、リーのようなスターにはなれず。
『地平線から来た男』(1971)での、ラストシーンの自虐ネタ(?)が、もの悲しい。