マクベス(1948)のレビュー・感想・評価
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猜疑と権力欲に衝き動かされて破滅への坂を転がり落ちてゆく暴君の姿に、現代の独裁者の影を見る。
「血の川に、ここまで踏み込んだからには、たとえ渡り切れなくても、今更引き返せぬ、先へ行くしかない」(マクベス)
まさに引くに引けないウクライナ戦線のことじゃないか。
「俺は、もはや恐怖の味をほとんど忘れてしまった。ありとあらゆる恐怖を食らいすぎたのだ。いまや何が起ころうと、人殺しの俺にとってはもう馴染のもので、怯えを感じることなどない」(マクベス)
これも、まさに今のプーチンの立つ、精神の荒野だよなあ。
今更ながら、あらためて『マクベス』を劇場で観ると、とくに後半の「悪」に染まり切って後戻りできなくなってからのマクベスの姿が、今、世界を震撼させている独裁者の姿といちいち被ってみえて仕方がない。
「悪」の思考を突き詰め、極めるという意味で、シェイクスピアという偉大な劇作家は、すでに多くの「解」を僕たちに呈示してくれてたんだなあ、と。
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オーソン・ウェルズは、もともと1936年にNYで「ブードゥーのマクベス」というオール黒人キャストで、舞台をスコットランドからカリブに移し、魔女の魔法をハイチのブードゥーに置き換えた画期的な演劇を監督していた。
1948年の映画版は、そこで培われた作品分析なども含めて、ドルイド教対初期キリスト教という解釈に基づいて魔女と聖職者が扱われている。かなり脚本はオリジナルからは書き換えられているそうで、キャストは全員、猛烈な巻き舌(たぶんスコットランド訛り)でしゃべる。
映画自体の完成度は素晴らしいが、しょうじき『オセロ』ほど好きかといわれると、だいぶ落ちるかも。
とにかく、23日間で撮った、80万ドルの映画だ。
台詞は先録り、コスチュームの大半は、西部劇からの転用。
セットも、西部劇用のものを再利用している。
どうしても、オールロケを敢行した『オセロ』とは、画面の迫力がまるで異なるし、ウェルズのやりたい映像美学が十全に表現されているとは思えない。
逆に言えば、この映画の「意図」を感じさせる田舎の文士劇のような張りぼて感、読み替え演出のオペラでも観ているかのような斬新な演劇テイストは、「低予算の縛り」から生まれた「前衛的表現」だったとも言える。(むかし、極限まで切り詰めたミニマルで抽象的、象徴的な舞台演出で鳴らした、ワーグナー楽劇の新バイロイト方式も、戦後ドイツの「貧困」が実は大きな要因としてあるという話を誰かから聞いたことがある。)
冒頭から、オーソン・ウェルズらしい視覚の冒険と実験が全力全開で展開される『オセロ』と違って、比較的、序盤は抑え気味だし、総じてストーリーライン自体が、マクベスの独り相撲と毒妻の唆しで終始し、なんとなく鬱々、うだうだしているので、観ていて結構じりじりする。
あと、あまりに台詞が抽象的で、考えがおっつかない部分も多い。
いわゆる「見せ場」も確かに多いが、特に印象的なシーンは、マクベスがアホな王冠を被りだして以降に集中しているので、前半はかなり退屈して睡魔に襲われてしまった。うーむ、すいません。
でも、牢獄に囚われた子供がこましゃくれたバカいってお母ちゃん笑わせてたら、突然侵入してきたマクベス一味に、家族郎党一瞬で皆殺しにされるシーンは、マジで40年代とは思えないショッカー演出で、およそこちらの眠気も吹っ飛ぶ。
年端も行かない子供がニワトリみたいな悲鳴あげながら、「ぼく殺されちゃう!」って言ったはなから、マウントポジションでざくざく滅多刺しっすからね……こ、怖すぎる……! ちなみに、女の子かと思って観てたら男の子だったのだが、実は演じているのはオーソン・ウェルズの娘らしい。なんだ、やっぱ女の子なのか! ふ、俺の少女センサーは正しかった。
終盤の、「森がやってくる」シーンの映像効果も素晴らしい。
イングランド軍が蝟集する情景も、うまく槍の林立するベラスケス『ブレダの開城』みたいなビジュアルイメージを活用して、低予算ながらマッス感を現出している。
最後の攻防も、まず悪妻の崖下への投身があって、彼方の低地から大群が迫り、下から攻め上げるマクダフたちを上方の利を用いて防ごうとするマクベスがいて、最後に上方に突き上げられる●●ですべてが決する、と、巧みに「上下」の構造を利用したスペクタクルが展開されていて、流石の演出力だと思った。
総じて言えば、ウェルズらしい冴えは抜群に発揮されているけど、これが天井じゃないと思う。
逆に言うと、ここで味わった「もっとこうしたい、次こそはあれをやりたい」というのが、極限の高みで結実したのが、続けてヨーロッパで撮った傑作『オセロ』だったのではないか。
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