「あの場で「No」と言える精神力。…人は何のために何を成し遂げるのか。」炎のランナー とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
あの場で「No」と言える精神力。…人は何のために何を成し遂げるのか。
観た気になっていたが、鑑賞したら、想像と全く違う映画。
反芻するたびに、味わいが増してくる。
あの有名なオープニングテーマを聴く度に、心の底に、何かを成し遂げたいと思う炎が静かに灯る。
と、同時に、この映画の彼らほどの濃さはないけれど、青春を分かち合った人々を思い出し、懐かしさと失われたときに対して、甘酸っぱさを思い出すとともに、むせび泣きたくなる。
初見。
ケンブリッジ大を中心に、1920年代の上流階級の社会にうっとりさせられる。
入学したその晩に催される晩餐会。新入生も皆タキシード。ろうそくの光に輝く、カトラリー。
シビルを始めとする女性たちの衣装。
ケンブリッジ大生たちの仕立てが良く、着心地がよさそうな衣装。
エリック・リデルの住まうスコットランドの風景。人を寄せ付けなさそうな、”豊かな”とは程遠い素朴さ。なぜか沁みる。
あのようなフォームでは早く走れないだろうと思ったが、実在のリデル氏が天を仰いで飛ぶように走って「フライング・スコッツマン」と呼ばれたのだと、毎日新聞1993年10月10日の特集記事で知った。ラグビーの選手として、クロスカントリーやヒルレースが発達した故郷の地勢で、リデル氏の足腰を強化したのだろうと書いてあった。
そこに、青春を謳歌する若者たち。舞台はオリンピックへ。
映画の雰囲気を楽しむだけでもうっとりしてしまう。
ただ、要所要所は見ごたえのあるシーンなれど、クライマックスにかけての盛り上げ方はドラマチックではなく、想像していた物語とも違うこともあり、不完全燃焼の思いが残る。
けれど、見直すと。
長いものに巻かれろ的な私は、あの場で自分の思いを貫き通せるのだろうか。
彼らの信念の貫き方に圧倒されてしまう。
ユダヤ人であることで、自分は”イギリス人”からは締め出されると主張するハロルド。映画では直接差別を描き出さない。描かれるのは、暗黙のルールを読めずに、浮き上がってしまうシーンのみ。自閉症スペクトラム障害をもつ方や、文化・風習が違う土地に来た人たちの戸惑いにも似ている。尤も、この場面では、周りの「しょうがないなあ」的な笑いでハロルドも笑いあって”仲間”になっていく。
それでも、”一番”になれば、学校や国に利益をもたらせば、”イギリス人の仲間”として受け入れられると信じるハロルド。そのための努力を欠かさない。
だが、それに”待った”がかかる。プロとアマの違いという。今では当たり前の、プロのコーチについてパフォーマンスを上げるというのが、アマの精神に反するというのだ。自分たちだって、教員のプロとして学生を教えているのではないかと反発したくなるのだが。
というより、どんな手段を使っても”一番”になりたいという思いが、卑しいと問題なのだろう。自分さえよければというユダヤ主義(『ベニスの商人』に出てくるシャイロックがユダヤ金貸しの典型と聞く)。イギリスの支配階級・昔ながらの爵位制度、なれ合いの均衡で成り立っている勢力分布。誰かが、抜きん出ればその均衡が崩れる。組織の勢力争いにも似て…。
手を借りるコーチがイギリス人でないというのも、自分たちのプライドを潰すのであろう。
ハロルドが入りたいと望んでいる、そんな”社会”の暗黙のルールをちらつかせる先生方(≒上司)に「No」というハロルド。
そして…。
そして、彼が最終的に手にしたものは…。
中国で生まれたスコットランド人であるエリック。神の使命に応えることが自分の役目と信じている。将来は宣教師。だから、安息日には走れない。
あれだけのメンバーに囲まれて、民衆の期待も押し寄せて、それなのに「No」と言う。ここで「Yes」と言わなければ、イギリス国内での自分の居場所はなくなってしまいそうだ。今なら「国賊」という言葉がネットやワイドショーにばらまかれそうだ。
オリンピックが終われば中国に行くつもりだから、神の方だけを向いていればいいのか。キリスト教の説く最後の審判が一番重要だから、それだけを見つめていればよいのか。目の前の権威を振りかざす人々の期待より、もっと自身にとって大事なものを守りたいエリック。
そして…。
そんな二人を中心に描いているが、アンドリューの生き方も面白い。
爵位をやがて継ぐ身。スポーツは「遊び」と言い切る。ひょっとして人生はすべて遊び?ひっかきまわしておもしろがる部分と、余裕があり、手助けをする部分と。メダリストになる可能性に賭けるより、自己を犠牲にして国益に奉仕した博愛精神の持ち主となる方を選ぶアイデンティティ。”貴族”としてのあるべき姿。
そして…。
この映画で、「犠牲なくして忠誠はない」と”国”のために走れと迫る皇太子(のちのエドワード8世)が、後年、自身の幸せのため、”国”を捨て、王位を放りだすのは、この時の影響か?と勘繰ってしまったり。
映画の最初の方で、”国”のために、第一次大戦で命を落とした生徒たちのエピソードが出てくる。
ハロルドが入寮の時に言う言葉を反芻したくなる。
そして、この映画の数年後には、第二次世界大戦が始まる。
「国のために」
オリンピックが、個人の力を競う場ではなく、”国”の威光を示す場になってしまってどのくらいたつのだろう。
”国”の威光を背負いきれなくなって、自死されたマラソン選手。
組織的なドーピングによって体を壊す人々。
そんな世界的な潮流。世相に飲み込まれながら動いていく日々。その流れに乗ってしまった方が楽なのに、あえて、自分の信念を貫き通した男たちの物語。
実話がベースというのだから、唸ってしまう。
何のために走るのか。何のための競技か。
何のために何を成し遂げるのか。
人々の期待と、自分の人生との折り合いをどうつけるのか。
そして、そんな自分を支えてくれる人々との関係。
反対にそんな期待をかけられてしまった人をどう支えられるのか。
見るたびに視点が変わり、考えてしまう。
ただ、イギリス社会を知らない身には、多少説明不足。
アンドリューとオーブリーが、最後の最後に「彼(エリック)は勝ったんだ」というが、何に勝ったのかがわからない。
Wikiや解説を読んで、イギリス社会で、イギリス人として要職に就いたことが、ハロルドの最初の目的である「イギリス社会に受け入れられ、立派なイギリス人になった」から”勝った”ということなのか。
個人的には、人種・宗教を超えて、素敵な伴侶と人生を共にしたということであってほしいと思う。
それが理解できたとき、この映画の本当の価値を理解できるのだろうと思う。