「社運を賭けた超大作」ベン・ハー(1959) とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
社運を賭けた超大作
大まかな粗筋はすでに知っている作品。だのに、なんでこんなに魅入られるのだろう。
どなたもおっしゃることだが、ガレー船のシーンも、レースのシーンも、あら捜しをすればいくらでもできると思うが、そこらへんのCG物より迫力満点。他のシーンも見ごたえある。
DVDについていたヘストン氏等の解説を伺うと、当時TVの台頭により斜陽となった映画界・映画会社。そんな衰退の危機に社運をかけて制作された映画。豪華絢爛・広大なセットも、実は使いまわしと聞いてうなってしまった。
そんな中で選ばれた題材。副題に『キリストの物語』とつくベストセラー。
とはいえ、世界中の、キリスト・ユダヤ教以外の人にも見てもらわなければ、赤字になる。だから、極力キリスト秘話(賛歌)は削ったそうだ。
ローマ(抑圧者)に痛めつけられても、誇りを・他者へのやさしさを失わなかった男が生きる希望を見出す物語。
1950年代。未だナチスの傷跡が濃く、反面赤狩りも始まっていた時代。ローマという古の悪役に、観客の怒りを投影させる。そこに不屈の男。その技量で抑圧側の総大将からも愛でられ、奴隷から跡取りへと出世を遂げる。だが、自身の栄華のみではなく、親族の・民族の悲運のために戦おう。とはいえ、いつまでも恨みを背負っていれば世界はまた戦争になる。そこに”赦し”。奇跡もキリストを信じたからではなく、ただ無実の者への哀れみを持っていたからだという設定(説法を聞きに行っていたエスターが奇跡を受けるのではなく、初めて出会った母と娘が奇跡を受ける)。抑圧者から受けた業病もきれいに洗い流され、”愛”の未来をというところで映画が終わる。
だからかな。キリスト教者ではない私も、ジュダや周りの人間に気持ちを寄せて、様々な感情を揺り動かされて見入ってしまう。
この原作の映画化は、すでに何本もある。だのに、この古い映画を越えるものができたという話はまだ聞いたことがない。他の映画は未見だが、観てがっかりしたらどうしようと思ってしまうほど、この作品の完成度は高い。
プロデューサーの急死等すんなり完成とはならなかった作品。
役者も、ヘストン氏がメッサラをとか、様々に変転したらしい。
監督は、族長を演じたグリフィス氏や皇帝を演じたレルフ氏を「さすが、シェイクスピアの国の役者だ」「舞台役者だ」と褒めていた。うん、多少舞台役者らしい大仰な立ち回りとかはあるけれど、品格が備わっている。ピラトを演じられたスリング氏の所作なんて、生まれもっての貴族ってこういう立ち姿なんじゃないかしらなんてうっとりしてしまう。そのくせ、親友の跡継ぎに対する思い入れと為政者としてのいやらしさを的確に表現して見せてくれる。
レースの観客はエキストラ。ゴールしたジュダの馬車を、コースに降りて追いかけてくるのは演出ではなく、自然発生的に起こったことだそうだ。さすが、イタリア人(笑)。
馬車(戦車)から落ちかけた場面は本当にあった偶然のミスだそうだ。そんなアクシデントさえ、没にせず、使いこなす演出(ちなみに、解説では「死人はでていない」を強調していた)。
ことこまかに、しつこく取り直した場面と、このような偶然をそのまま使うセンス。さすがだ。
このような解説を伺ってもう一度鑑賞しなおすと、単なる数奇な運命をたどった青年の物語としてではなく、エスターの、メッサラの、言動に新たな意味を付与してしまう。そして、最後の嵐とともに、心のオリが洗い流されるような清々しさで終わる。
一度は鑑賞してもらいたい古典だと思う。
しかし、この映画でのヘストン氏がレッドメイン氏に、
スリング氏がリックマン氏に見えてしまうのは私だけだろうか?
スリング氏とリックマン氏はともかく、
ヘストン氏とレッドメイン氏ではムキムキ度が違うというのに…。