フルスタリョフ、車を!のレビュー・感想・評価
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跳梁するミザンセーヌ
常に喧騒が画面を囲繞している。老婆が叫び犬が鳴き、車が走り鳩が舞う。それら被写体の動性に誘われるようにカメラが回り出し、フレームが形を変える。「長回し」という映像技法が歴史的に孕む退屈主義とは一切無縁の、言うなればオーソン・ウェルズやアルフレッド・ヒッチコックに先祖返りしたかのような、運動に満ち溢れた長回し映画だった。
道の真ん中で急に開く傘とか、カメラの動きに同期して飛び立つ鳥たちとか、非人間的なオブジェクトが不意にフィクションを背負う瞬間が何度もあってドキッとした。
人間の力ではどうにもならないもの、あるいは人為性を介入させるべきではないものを、いかに「映画」化できるかが監督としての正念場だが、その点アレクセイ・ゲルマンの手腕に淀みはない。
ソ連を覆い尽くす雪との巧みな戯れは言わずもがな、森林を浸す濃霧や機関車の吐き出す黒煙でさえも、まるでそう流れることを予め運命づけられたかのようにミザンセーヌとして完全に調和していた。
物語の筋は徹頭徹尾意味がわからなかった。しかしそれこそが本作を観ることにおける最大の僥倖だった。頭の中で筋道を立てたり、何が何のアレゴリーであるかを推察したりといった労苦から解放され、ひたすら画面上を乱れ舞う動きの連鎖に耽溺するという体験はしようと思ってもなかなかできるものではない。己の歴史的無知に乾杯!
少将が車のドア越しにカラスと目を合わせるシーンが本当によかった。ネコを風呂の中にバチャバチャ沈めるみたいな横暴さもよかった。動物を雑に扱う映画って倫理を犯しているだけあって映像的な面白さが割と担保されてるから最高なんだよな。エミール・クストリッツァ『白猫・黒猫』、ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』がそうであるように。
スターリニズムと旧ソ連人の心持ち
「酔っぱらいのおしゃべり好きなロシア人に、政治の話を禁句にさせたらどうなるか」というケーススタディーが、旧ソ連の芸術なのだ。
無駄に長い。それはきっとロシアだから。
無駄に長いのは、ロシアの作家の特徴。トルストイやドストエフスキーなどロシア文学しかり、ショスタコーヴィッチなど作曲家しかり。
どうでもいい会話や題材が脈絡もなく延々と続く。ロシア人の辞書に「コンパクト」という発想はない。それはタイガの大地と気候のせいだろうきっと。
旧ソ連時代にシベリア鉄道でぶらぶらと一人旅をしたことがある。車窓に映る地平線の位置がずっとかわらない世界。コンパートメントの中ではロシア人とウォッカで酔っ払っているか、おしゃべりしてハラショーとやっているか、ぐらいのことしかやることがない。
おしゃべりの話題で政治の話は禁句だ。当時の流行語だったペレストロイカというフレーズさえも、その言葉を出したとたんに場のムードが凍る。
というわけだから、真面目に社会的な話題がおしゃべりできないのだから、どうでもいい話しかすることがない。
タブーの多い社会でそのタブーを評価して表現することは難易度が高い。月面宙返り並みの難易度だ。
ただし、この作品は無駄に長いとはいえ、理解不能なレベルではない。私の好きなタルコフスキー先生など私の頭では本当に全く理解できない映像とセリフが延々と続く。
この作品は、本当にバカバカしいどうでもいいイベントが延々と発生するが、そのバカバカしさは意図された表現。
最後に監督自身の総括ともいえるナレーションが入る。「ばかばかしい!」と。
これつまり、スターリン時代の酷さをその時代の空気を経験した人間がその時代を評価しようとした結果、ばかばかしさを表現する顛末に至ったに違いない。
政治を語らずに政治を評価するというウルトラCを演じることが体に染み着いてしまったので、こういう表現になった。
このバカバカしい冗長なストーリーは確信犯なのだ。監督のいわんとしたことはタルコフスキー先生よりかはずっと理解できる。スターリニズムもそれを産み出した自分たち自身もばかばかしいんだ、と。
もっといえば、無駄に長いが、トルストイやドストエフスキーを読むことと比較したらずっと短い。我慢するのは2時間ちょっとでいいのだから。
そういうふうにポジティブに考えるしかない。
この映画を批評する資格のある人は、スターリン時代を経験したことのある旧ソ連の人間だけだろう。
全く別世界の現日本人にこの映画を評価する資格はもたない。
とはいえ、旧ソ連の人々の、スターリニズムに対する複雑な思いはとてもよく伝わってくる。それがこの作品の救いだ。
やっぱりまったく分からない。
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