フィフィ大空をゆくのレビュー・感想・評価
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ラモリス流「大空を自由に飛ぶ夢」の集大成。鳥人間をめぐる詩情あふれるドタバタ劇。
なんか、中盤からは「ちょっと悪いパーマン」みたいになってたな(笑)。
「空に向かう夢」っていうのは、藤子不二雄の『パーマン』にせよ『ドラえもん』のタケコプターにせよ、ギャグベースになるとスラップスティックにつながりやすい。
本作では、あえてモノクロームによる撮影を選択して、サイレント映画のテイストを前面に押し出している。舞台はサーカス。主人公は泥棒。恋のライバルはライオン使い。
当然ながら、徹底したドタバタが展開されることに。
時計を用いたどつき合いなどは、まさにサイレント時代のスラップスティックを再現したような内容でほっこりする。そもそも、恋敵をめぐって筋肉ゴリラと貧弱な主人公がやり合うというのは、チャップリンやキートンの時代の典型的なプロットであり、いかに監督が古いコメディ映画を意識して本作に臨んでいるかということだ。
まあ、出てくる人間がみんなひと癖もふた癖もあるというか、ろくな人間が出てこないのと(笑)、あまり善悪にこだわらないというか、必ずしも因果応報の展開にならないところが、いかにもラモリス監督らしいけど。
サイレント映画に対する愛着と敬慕を隠さない本作のノリは、同時期のフランス映画のことを考えれば、当然ジャック・タチのことを思い出さざるをえないが、「サーカスと恋愛」という題材からすると、おそらくピエール・エテックスの『ヨーヨー』(65)が一番近いテイストの映画なのではないかと思う。
数年前にイメージフォーラムで開催された「ピエール・エテックス・レトロスペクティヴ」は最高の好企画で、楽しく全作コンプさせてもらったが、いずれの作品も『フィフィ大空をゆく』と極めてよく似た味わいの映画群だった。
単にサーカスや道化の描写が被るというだけでなく、「畑のただなかを突っ切る一本道を車で激走」「そこに現れるトラクター」「主人公にひたすらひどい目に遭わされる身近な憎まれ役」「主人公の周辺でどんどん粉々に壊れていく貴重品」といった諸要素は、まさにエテックス監督作品と通底している。
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『フィフィ大空をゆく』は、たしかに「自由に空を飛びまわる」ことをめぐる大人の寓話なのだが、ラモリス監督のフィルモグラフィとしては、不思議な到達点にあるとも思う。
ご存じのように、ラモリスは『赤い風船』で空への憧れ、飛翔への憧れを明確に打ち出し、それを『素晴らしい風船旅行』で大幅に増幅させた。それでも気球での旅行には危険と制約がつきまとったし、どちらの映画のラストもせつなさの残るものだった。
いずれの映画も「本当は自由に飛べない」ことへの、身をよじるような憧れと希求の念が内側で渦巻いていた。
だが、本作の場合は、そういった「飛べないことへの焦り」とは無縁だ。
むしろ、あっけらかんと飛んでしまう。あっさりと。自由自在に。
もともと、主人公は空を飛ぶことなんて望んでもいない、ただのコソ泥だ。
なのに飛ぶ能力を与えられた彼は、それを悪用して飄々と時計を盗んで回る。純真であるがゆえに、抵抗なく悪をも為すという、人好きのするピカレスク・ヒーロー。
ここでラモリスは、常識と現実のくびきを超えて「サイレント映画仕様」の「ドタバタコメディ」という極端なスタイルを選択することで、「飛ぶことへの憧れ」を自分なりに昇華させたのだ。
「なにがなんでも飛びたい」を、「夢のなかなら飛べる」へと。
フィクションの枠内で、本当に人の背中に羽を生やして自在に空に飛ばせてみせる。
その設定において、人が出来ることをやり切る。
彼は、「身をよじるような憧れ」を映画にすることを辞めて、その「憧れ」を映画という空想のなかで実際に実現することを選んだ。そして、充足した。
だからこそこの映画は、あの「憑き物が落ちた」ような喪羽のエンディングを迎えて幕を閉じるのだ。
劇映画としては最後になる本作で、「本当は人だって飛べる」というラモリスのメインテーマは、ひとつの結実を迎えた。「最後に人が飛ぶ」映画から、「最後は気球が飛んで行ってしまう」映画を経て、「最後は翼を喪っても幸せ」な映画へと帰結したわけだ。
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なぜ、フィフィは時計や宝飾品や真珠を盗むのか。
そんなに悪い人間でもないし、
むしろ純朴な青年として描かれているのに、
盗みが辞められないのはなぜか。
というか、盗みに全く罪悪感を感じていないのはなぜか。
映画を観ているあいだ僕はその答えが思いつかず、ちょっと居心地の悪い思いをしながら最後まで鑑賞していた。
ただ、帰り道につらつらと考えていて、ふと思いついた。
「どろぼうカササギ」。きっとこれだ。
宝飾品や光るものに目がなく、盗んで回るカラス科の鳥。
(実は濡れ衣でホントはそんな習性ないらしいけどw)
これは、その連想ゲームなのではないか??
要するに、フィフィは「鳥人間」。
鳥人間だから、宝飾品を本能的に盗む。
盗んでため込む。気に入った相手に渡す。
鳥、宝飾品、泥棒の連想ゲーム。
さらに、時計といえば鳩時計にカッコウ時計。鳥とつながりが深いグッズである。この映画でも、ウグイスのような鳥が飛び出てくる仕掛け時計が登場する。
鳥。宝飾品。時計……。
こんなところだったんじゃないのかな?
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●なんとなく、主人公のフィフィの顔立ちがジャン・ポール・ベルモンドっぽいのは、やはり泥棒稼業のピカレスクな主人公のイメージをフランスで一身に背負ってるからなんだろうな。主人公のくせに、泥棒で、詐欺師で、嘘つきで、女たらし。でも憎めない。良いキャラしてるよね。
●今一つ、この映画に入り込みにくい理由として、ヒロインにあたる馬の調教師(またも馬!)がキャラクター的に得体が知れないことが挙げられる。美人だし、笑顔はかわいいし、歯並びはいいし、魅力的な女性であることは間違いないのだが、何を考えているのかよくわからないし、ふつうに時計の貢ぎ物を喜ぶような貪欲なタイプの女性だし、男二人に対してナチュラルに両天秤にかけるかのような行動をとるし、俺ならこんな頭の弱そうな女は御免かな、と……(笑)
最後のチョッキンナも、そんな乱暴な?? と思いました。
だって、あれって嫉妬にくるって「だったらアレがないほうがまだマシだ」とばかりに「根元から断つ!!」って話で、ふつうに「阿部定」じゃん……!! こわいよw
●おそらく『天使とデート』(87)とか『ベルリン・天使の詩』(87)、『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』(93)といった映画に、本作は相応の影響は与えているんだろうね。そういや、『ベルリン・天使の詩』で天使が恋するのも、サーカスの空中ブランコ乗りの女だった。
●サーカスの芸として羽をつけられた男が、そこかしこで「天使」に誤認される展開は、『赤い風船』の風船や『白い馬』の馬や『素晴らしい風船旅行』の気球にキリスト教的な受難と迫害の物語が仮託されていたことと、決して無関係ではないだろう。
ラモリス監督のなかでは、つねにキリスト教的な隠喩は、映画製作の重要なモチベーションとして心に置かれていたはずだから。
終盤のキャピキャピ修道院(孤児院?)や、教会での結婚式なども含めて、全体に隠された宗教的含意を想像しながら観るのも面白そうだ。
考えすぎかもしれないけど、飛んでいるフィフィの姿自体、羽と身体と手が十字のシルエットに見えるんだよね。
●とぼけた寓話的ストーリーのように見えて、あちこちにえげつない要素が無造作に出てくるあたりや(最初の鳥人間ってアレ結局、墜死したんだよね?)、追いかけっこが想定以上の長尺で執拗に描写されるところ(『小さなロバ、ビム』でも『白い馬』でも『赤い風船』でも、依怙地になった追跡者の粘り腰は観ていてしんどくなってくるくらいだった)など、ラモリスらしさは随所に出ている。
終盤の追跡劇で、きっかけになったサーカス団の破壊は専らライオン使いが引き起こした惨状なのに、警察が無条件にライオン使いに先導されて使われてるのは、まあまあ不思議な展開。泥にまみれたフィフィや踏みつけにするライオン使いの姿からは、『白い馬』などでも見せたラモリスの内なる嗜虐性を垣間見ることができる。
●パンフによると、撮影はクレーンで吊って実際に俳優を飛ばして、吊っている線を消しているらしい。すなわち合成でもAIでもなく、すべてのシーンにおいて「本当に飛んでみせた」リアリティが刻印されている。だからこそ、フィフィの飛翔シーンには無骨なロマンティシズムがあり、真摯なポエトリーがたたえられているのだ。
一方で、フィフィの一人称視点で捉えられた「空からの画像」には、前作同様「ヘリヴィジョン」が活用されているとのこと。ラモリス監督の旗印といってもいい「空撮」の魅力を彼の作品に付与すると同時に、ラモリス自身の命を数年後に奪うことにもなる「ヘリヴィジョン」。流麗な空撮の美しさを堪能しながら、どこか寂しい気持ちに襲われるのは、監督の最期を知りながら観ているせいもあるかもしれない。
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これで、アルベール・ラモリス監督の特集上映はいちおう、コンプしました。
とにかく個性があって、美感と詩情をそなえた良い監督さん。
子どもと、人でない友達と、大空への夢を描くのが得意な映像詩人。
1960年代のヌーヴェル・ヴァーグ関連でいえば、明快に左岸派に近い立ち位置の人であり(実際、『素晴らしい風船旅行』ではジャック・ドゥミが助監督を務めている)、のちにカイエ派(右岸派)のゴダール、トリュフォー、シャブロル、リヴェットあたりが主張した即興主義&同時録音の流れとは対極にある、作り込んだ空想と夢の世界を精緻に紡いだ監督だった。
一方で、激しく臨場感のあるアクションや、善悪のあわいを超えたざらっとした感覚は、ヌーヴェル・ヴァーグの前史的な同時代性を感じさせないでもない。
ともあれ、こんな機会でもなければ、きっと観ることはなかっただろう。
とてもありがたい特集上映だったと思う。
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