「とにかく耳ぱたぱたさせたり、水を直のみしてるジャン・マレーの「野獣」ちゃんがかわゆす!」美女と野獣(1946) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
とにかく耳ぱたぱたさせたり、水を直のみしてるジャン・マレーの「野獣」ちゃんがかわゆす!
いやあ、予備知識なしで見ると、このラストはけっこうぶったまげるね。
なんかあのふたり、ふっ飛んでったんだけど!!(笑)
コクトー特集上映の三本目。
前半は眠くて眠くて結構ヤバかったのだが、野獣が出てきてからは、面白くてしゃっきり目が覚めた。楽しかったけど、なんか不思議な話でもあったなあ。
『美女と野獣』には、グリム童話に元ネタがある。旧版に収録されている『夏の庭と冬の庭』という御伽噺がそれだ。
この話を底本として1740年にヴィルヌーヴ夫人が長篇小説化したのが『美女と野獣』で、1756年になってボーモン夫人がそれをさらに子供向けの教訓読みものの短篇に書き直した。
コクトーが映画化し、のちにディズニーがアニメ化したのは、このボーモン夫人版である。
僕もそうだし、大半の人がそうだと思うが、ディズニー版の『美女と野獣』を先に観てしまっているので、コクトー版にはいろいろとディズニー版と異なっている部分が多くて面食らう。
ただ実際は、コクトー版のほうが概ね原作準拠で、『シンデレラ』っぽい姉たちの設定や、商人の父親が破産する出だしなどは、すべて元の話にあるものだ。歌のうまいポットやダンスの踊れるキャンドルスタンドなんか出てこないのも、原作どおり。逆にこのお話にミセス・ポットやルミエールを付け足してみせたディズニー担当者の発想力には頭が下がる。
原作になくてコクトー版にある要素もある。財宝庫と金の鍵の話とか、煙のあがる魔法の手袋の力とか、リュドヴィクとアヴナンの野獣討伐作戦とか。ディズニー版のガストンの原型ともいえるアヴナンは、キャラ自体が原作に登場しない。コクトーのオリジナル要素がディズニーにいくばくか引き継がれたケースといえそうだ。
コクトーが『美女と野獣』でやっていることは、じつは『詩人の血』や『オルフェ』と、そう変わりない。
●出てくる男女がみんな美形ぞろい。
●真実を映し、異世界へと通じるきわめて重要なアイテムとして、「鏡」がでてくる。
●ここぞというところで必ずぶっこんでくるトリック撮影(逆回し、壁に見える床など)
●男性間の友情は繊細に描かれる一方、女性の描き方が若干シニカルで類型的。
●絵画的な画面のアプローチと、美術史的文脈からの引用(ドレとフェルメール)。
●彫像の姿をした女神が、受肉して主人公の人生を左右する(本作ではディアナ)。
このあたりの、「コクトー」らしさは、そのまま本作にもまるっと引き継がれている。
ただ、有名な御伽噺の映画化ということで、ちゃんと平易な物語映画として成立しているし、『詩人の血』や『オルフェ』のような、わかりにくかったり、とんがったりしている要素はほとんどない。
むしろ、喜劇やメロドラマの旧作からの引用や、作品研究の成果が随所で生かされている感じがする。姉ふたりの極端に戯画的な扱いはどちらかといえば喜劇的だし、音楽の使い方も、同じジョルジュ・オーリックでもいかにもメロドラマ調の曲調で馴染みやすい。このへん、ノンクレジットの共同監督としてルネ・クレマンが参加しているというのもあるのかもしれない。
お話は、ある意味「モンスター映画」の「祖型」みたいなところがあるぶん、類似したさまざまなジャンル映画の種々のシーンがいろいろと脳裏をよぎったのも確かだ。
あるときは、『オペラ座の怪人』みたいだったり。
あるときは、『キングコング』みたいだったり。
あるいは、『狼男』みたいだったり、『フランケンシュタイン』みたいだったり。
じつは、「モンスターが人間の女性に懸想する」タイプの物語って、みんな結局は『美女と野獣』から派生したものだったんだなあ、と今さらながらに思う。
また、物語としてとても根源的なテーマであるぶん、現代とつなげて観られる部分もずいぶんとある。
たとえば、ルッキズムをめぐる、ラディカリストと伝統主義者の対立とか。
新興宗教の信者に対して脱会を薦める側の主張する正当性の有無とか。
毒家族の悪しき影響から逃れるための「さらってくれる男」の存在とか。
とくに「さらってくれる男」のテーマというのは、まさに『美女と野獣』を祖型のひとつとする黄金類型であって、誘拐されて無理やり結婚させられた蛮族の王が、振る舞いは野蛮だが実は優しくて超優秀でいつのまにかめろめろに、なんてのはまさに女性向けロマンスの定番中の定番だといってよい。シークもの(アラブの族長)とか、ハイランダーもの(スコットランドの王)とか。
考えてみれば、『カリオストロの城』の「自分をさらいにきてくれる義賊」てのだってそうだし、あるいはこのあいだドラマが中止に追い込まれていた『幸色のワンルーム』だって、淵源をたどれば『美女と野獣』の物語にたどり着く。いまテレビでアニメをやっている『ノケモノたちの夜』だって、ビジュアルだけでいえば、完全に『美女と野獣』の延長上にあるお話だ。
『美女と野獣』を観るという行為は、「その後」に生まれた大量の『美女と野獣のような物語』とのあいだで「答え合わせ」をする行為でもある。
どういう形で当初の「強要的な関係」を設定するか。どのへんから野獣を「デレ」させるか。どうやって女性の気持ちをなびかせるか。終盤にどんな障害をふたりの前に投下するか。多くの創作者たちが、『美女と野獣』のテーマに挑んできた積み重ねとしての「総合知」が、観ていて「フィードバック」してくる感覚とでもいうのか。
「美」と「醜」の対比を前面に押し出したロマンスという意味でも、『美女と野獣』の類型は、多くのフォロワーを生み出している。前出したモンスター映画だってそうだし、『愛と誠』だって、『101回目のプロポーズ』だって、『電車男』だって、『俺物語』だって、要するに「格差恋愛」で男性側に圧倒的なマイナス面があるものは、多かれ少なかれ『美女と野獣』の影響下にある。
この場合、けっこう大きなポイントになるのは、「ヒロインは生まれつきの美貌に恵まれ、そのメリットもデメリットも自覚して成長してきたために、意外に相手の不細工さや挙動不審さに対しては気にならなかったり、抵抗を覚えなかったりする」という「裏設定」だろう(笑)。
これは、物語だけの話だけではなく、時に現実でも実際に起きている事案だから、結構リアルに則した感覚なんだろうけど。
コクトー版『美女と野獣』でいちばん印象的なのは、「野獣」があまり「野獣」らしからぬ点だ。
登場した瞬間から、「野獣」が強面で迫るシーンがほとんどなく、常に紳士的で、ずいぶんと弱気だ。
(じつは原作でも「野獣」は紳士らしくふるまうキャラであり、野獣が「粗野」というのはディズニー版で新たに付け加えられた要素らしいが。)
「野獣」というより、なんだか「アニマル」っぽい(実際、台詞でもどこかでベルに「アニマル」って言われてたはず)。
自分のこと、「あなたが女主人で、私は尽くす立場だ」みたいに、下僕宣言までしてるし。
「泣いた赤鬼」とか「かいじゅうたちのいるところ」と一緒で、見た目が怪物なだけで、ちっともこわくない。てか実際、ベルと出逢ってすぐの段階からこいつ、めそめそ泣いて弱み見せてるし。
あと、40年代の映画なのに、ギンギンにケモナー属性全開で萌え死ぬ。
なんか、耳ひくひくさせてるし!
頭なでられてるし!
手から水ぺろぺろしてるし!
ベルの移り香残る毛布に、ライナスみたいにむしゃぶりついてクンカクンカしているし!
お前はどこの岩清水弘か!!
ベルはベルで結構、言いたいこと言ってる(笑)。
「あなたは醜いわ」とか、「出て行って」とか、「友達でいましょう」とか、まあまあ容赦がない。
がっつり拒絶してたわりには、真珠のネックレスもらったら、まんざらでもなさそうに態度を軟化させたり、自分が美しいことにはきわめて自覚的だったりと、意外に計算高いところも垣間見える。
ラストの会話のやりとりを聞いていると、「いいえ」と「はい」だけで、ほぼ王子の心を支配しており、今後の結婚生活で亭主を尻に敷きつづける行く末が目に浮かぶようだ。
世間的には、ディズニー版でベルにフェミニストとしてのキャラが与えられ、「ヒロインが成長する物語」から「野獣が成長する物語」への切り替えが図られたことになっているが、コクトー版のベルも、この時代にしては結構、男性に対してものおじしないキャラクターではないかと思う。
一番気になるのは、やはりアヴナンのキャラクターだ。
なぜ、わざわざジャン・マレーの一人二役まで使って、このオリジナル・キャラをコクトーは出したがったのか? ライバル・キャラとしては、どちらかというと弱っちいというか、「野獣」ほどキャラが立っていない分、余計にそこはとてもひっかかる。
パンフを紐解いてみると、「ボーモン夫人版物語を忠実に映画化したとしても短編にしかならなかったため」とあり、「もちろん素顔のマレーの出番を増やす意図もあった」とあって、それはたしかになるほどねって話なんだけど(笑)。
野獣とアヴナンは、どちらも同じジャン・マレーが演じていて、どちらもベルに求婚しているうえ、野獣に「アヴナンのことが好きだったのか」と訊かれたベルは、はっきり「ええ」と答えている(じつは観ていて「ええっ? そうだったんだ!」とちょっとびっくりした)。ラストで野獣とアヴナンの「交代」劇まで扱われている以上、野獣とアヴナンが「対」となる存在であることは間違いない。
ただその割には、アヴナンの扱いが軽いというか、ただの頭の弱いくだらないやつにしか思えないし、ベルがこんな男のどのへんに良さを見出していたのかもよくわからないし、ラストでの短慮ゆえに起きる悲劇も含めて、とても「野獣と並び立つ」ようなキャラクターには思えない。
このあたりは、もう少しちゃんと考えてみないといけない部分かもなあ。
その他、終盤になって唐突に「匂わせ」てくるお姉さんのアヴナンへの慕情とか、ラストのあの場で残されたリュドヴィクは結局どうなったのかとか、おじいさんの手に渡った涙のダイヤモンドって活用されたんだっけとか、いろいろと未解決の問題も多い気もするが、ぜんぶラストでふたりが吹っ飛んでいくのと一緒に吹っ飛んでしまいました(笑)。
総じていうと、お話としてはふつうに面白かったけど、「恋愛譚」としては、あまりちゃんと心情描写が成されていないぶん、ちょっと組み立ての建付けが悪いというか、不格好な気もする。
出会いがしらに恋に落ちたといえばそれまでだが、強制的に拉致してきた女性に対して、出だしからひたすら低姿勢で求婚しつづける野獣は、説教レイプ犯レベルで十分キモいし、ベルが野獣にほだされていく過程も、きちんと描けているとはおよそいいがたい。
その点、ベルと野獣の心が通じていく過程を丹念に描くという意味では、ディズニー版のほうが圧倒的に完成度は高いだろう。
あと、王子のメタモルフォーゼン以降の流れは、さすがに短兵急に過ぎるのでは。
ディズニー版のときですら、変身した王子を観て「野獣のときのほうが、100倍魅力的だったんだけど!」と思ったものだが、コクトー版の王子は、華麗できらびやかというより、頭の悪いボンボンのただのコスプレのようにしか見えない。だいたい、あんなにしおらしくて陰影に富んでいた「野獣」の本性が、こんな気持ちの悪い自信満々のイケイケボンクラ王子だったなんてガッカリだよ……しかもそこからの流れでいきなり米米CLUBか窪塚洋介みたいにアイ・キャン・フライかましてくるんだから、こちらとしてはただ失笑するしかない。
王子様に変身した野獣を凝視しつつ、女の顔をしながら、ぬめっとした笑みを浮かべているベルもたいがい怖いし。そういやこいつ「アヴナンのことも好きだった」とか返事してたもんな。結構、魔性系かも。
気になる点をあげだしたら、他にもいろいろ出てきそうだけど、
まあ、「野獣」のかわいさで、すべては許せちゃうんだよね。
とにかく、野獣かわいい。
この映画はそれに尽きる。
その意味では、これもまたコクトーによる、ジャン・マレーへの愛の贈り物みたいな映画なのかも。