ピクニック at ハンギング・ロックのレビュー・感想・評価
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神話かと思った。
神話と言われたって頷ける。
真っ白なワンピースでそろえた少女たちが、くすぐったそうに笑い合いながら、セリフらしいセリフも無くピクニックに出かける。野性味のある岩場でおもいおもいくつろぐ姿は、まるで天使のよう。そんな宗教画すらあった気がする。
その後の急転直下、失踪とその混乱も、ミステリアスな現象と描写ばかりで、もはや神秘的に思える。
そんな霞の中の話のようで、解釈はもとより、眼の前の事態をただ呆然と眺めること以外に何もできなく、一体全体これはなんだったんだろう、と。なにを見ていたんだろう、と茫然自失だった。
無理やり理解しようとするなら、天使が神の岩場で遊んで、人間をからかってました、みたいな事態で、だから神話かと思った。いまだにどうにも収められないモヤモヤが渦巻いている。。
まっしろなワンピースの説得力
まっしろなワンピースをきた少女たちがバレンタインデーに岩山へピクニックにいくってだけでもう耽美的すぎる。
しかもお揃いじゃなくて、色だけそろえてデザインはそれぞれちがうワンピースなのがほんとうにすばらしい。
少女特有の不安定さ残酷さヒステリックさ無垢さ神聖さが引鉄なのであれば、先生がひとりまきこまれる意味はなんなのだろう、と少し考えた。
(まきこまれた、のではないのかもしれないけれど)
筋肉少女帯のイメージがやっぱりちょっと強すぎて、みているあいだ「遠足には猫はつれてけない」というフレーズがふとよぎることが何度かありました。
不可思議なピクニック 女学院と女生徒
事実に基づく話って噂があるけど、創作のフィクションだそうです。
原作は小説で未読です。
女学院の女生徒がピクニックで行方不明になって…って話だけど、
女生徒、女生徒、女生徒、って感じに、女生徒まみれ(笑)
キャロル・キングの曲が使われてた事しか覚えてない『ヴァージン・スーサイズ』が再観したくなったのと、まだ観た事ない『若草物語』が観たくなった(笑)
不可思議な話です。
僕は楽しめました。
美しい文学的サスペンス
衣装や世界観、音楽が好みで気になっていた作品。それ以上にストーリーに引き込まれ、謎のままとなって終わる幾つかのポイントは一晩中誰かと語り合いたい。普段購入しないパンフレットもつい購入してしまった。50年近く前の作品とは思えない、美しい映画だった。
1900年、女子学校のピクニックで、数名が山にいったきり戻ってこな...
1900年、女子学校のピクニックで、数名が山にいったきり戻ってこなかったとのこと。
険しい岩山の描写、整った身なりの女子生徒たち、
まるで神話的な物語を観させていただいているような印象を抱きました。
手袋や靴下やコルセットなど、抑圧から徐々に解放されてゆく願望のような描写、
この学校が生徒たちにとってどんな場所だったのか、類推したくなります。
70年代半ばの作品らしい、映像や電子音楽の使い方も、
いま観られて、貴重な機会でした。
カルトと美女はよく似合う💕
Don’t think, feel!!!
理解なんかしなくていい!そんな気にしてくれるヘンテコなカルトムービー🌟でもすっごく良い❤ ❤ ❤
パンフレット買わなかったことあとあと後悔しちゃうかも?
ミランダちゃんが美し過ぎる(眼福)
一瞬のかぎろいのような「少女性」を「永遠の12時00分」に封じ込めたカルト作。
品位と気品のある、デイヴィッド・ハミルトン。
あるいは、年齢層高めの『エコール』『ミネハハ』。
そういっちゃうと、身もふたもないけど。
ロリータと呼ぶには若干とうの立った、ハイティーンの少女たちの一瞬の美と崇高さ。
それを、1900年というヴィクトリア朝最末期の時代設定と、白ワンピに黒ブーツのフェティッシュな清楚系お嬢様ファッションと、オーストラリアの大自然と、幻想的なカメラワークと、オープンエンドの後味の悪い脚本によって、永遠の12:00に封じ込めたカルト作。
少女たちの集団失踪事件を扱った映画ではあるが、原作ともども「オチがつかない」こと自体に意義を見出すべき作品であって、いわゆる論理的なミステリーとしては全く機能していない。むしろ「ロジカルにオープンエンド(解決のつかないエンディング)を設定する」ことで、巧みに観客を置いてけぼりにして五里霧中の状態に放置することを、緻密な計算でどまんなかから「狙った」作品である。
よって、事件の真相についてあれこれ考えても、もとより答えは出ないように出来ている。
一方で、全編にはりめぐらされた象徴性(シンボリズム)と暗喩(メタファー)の積み重ねは、本作が「少女性」を取り巻く危険と束縛、そこからの解放と自由の獲得を描いた象徴主義的作品であることを如実に示している。
「コルセット」と「革靴」と「教条的な校長先生」に象徴される、英国的で19世紀的で白人的でキリスト教的なヴィクトリア朝時代の「女性を縛る枷」。
彼女たちは、常に規律と教訓によってがんじがらめにされ、お仕着せの制服とコルセットと革靴によってきつく縛り上げられ、「善き淑女たれ」という周囲の要請する価値観にさらされている。
本作は、オーストラリアの原初的な大自然の力を借りて、それを少女たちが脱ぎ捨て、「まだ見ぬ自由」へと逃亡をはかる物語である。
純白の装束を身にまとったけがれなき少女たちは、
飼育される白い七面鳥の群れにたとえられると同時に、
優雅に湖上を泳ぐ、美しき白鳥にもたとえられる。
あるいは虫にたかられる柔らかそうな白パンに。
アップルヤードという学園名には、エデンの園と「原罪」の香りがつきまとう。
そこで、無垢なる少女たちは、蛇(トカゲや虫)による挑発と試練を受ける。
時の止まった12:00。現実と非現実のあわいで、知恵の実に手を伸ばしてしまう三人の乙女。
彼女たちは、神の束縛と知的制限からの自由を手に入れるが、一方で、楽園からは追放されざるを得ない……。
彼女たちの逃走劇の「触媒」となったのは、「霊山」であり「奇岩」だ。
オーストラリアでは、エアーズロックに代表されるように、「岩」がアニミズム的信仰の対象として原住民によって崇敬されてきた。
それは、キリスト教的なる人工の信仰体系とは対極にある、なにかしら土着的で、自然神的で、呪術的な、古代につらなる「モノリス」だ。
――そう、ちょうどイングランドにおけるストーンヘンジのように。
彼女たちは、「ピクニック」という非日常の「自由な空気」のなかで、この「霊山」の神秘の力を媒介に、一瞬のスキをついて、取りつかれたようにまだ見ぬ高みへと登ろうとする。
同時に、屹立する「山」が、男性的象徴としての機能を有している点も見逃せない。
山で失踪した少女の「コルセット」だけが喪われていたというのは、束縛からの解放を表わすとともに、性的な経験を通過儀礼として経たことの隠喩でもあるだろう。
これは、山で男たちに犯されて、かどわかされて、殺されて、埋められた、ということを直接的に示しているわけではない(校長先生は実際にそういうことが起きたと確信している様子だったが)。あくまで「概念的」な現象として「そそり立つ突起に自ら挑んだ少女たちがコルセットを外す」という事象が、少女性からの脱皮を示唆しているということだ。
そのなかで、小太りの少女(山においては体重によって大地に引き戻される存在)は、何かしらの危険(=キリスト教的な世界観からの逸脱)の気配を感じ取って、警告の悲鳴をあげながら隊列から脱落する。
それから、令嬢として富と名声を身にまとったダークヘアの少女も、一週間後に「異界」から「返される」。
結局、「あちら」の世界へと旅立って帰ってこなかったのは、才色兼備のマドンナとして学園で君臨していたミランダと、知的好奇心旺盛なメガネのアスペっ子と、男性的(マスカリン)な内面を備えた女性教師の三人だった。
彼女たちは、何かに「巻き込まれて」失踪したのではない。
彼女たちは、「高みへと登る」ことを目指し、
自らの意志で至高の地へと旅立ったのだ。俗世を捨てて。
そう考えれば、必ずしも本作は「悲劇」とは言えなくなってくる。
もちろんラストに待ち受けるのは、二つの悲劇だ。
「お姉さま」と「お兄さま」だけを慕う孤独な少女と、
「男性的な女教師」に心から頼り切っていたと述懐する老女。
俗世に取り残され、絆を断ち切られた二つの魂が辿った悲劇。
でも、女性があらゆる約束事に束縛されて自由に生きられない現世からの逃避、離脱を「前向きに」とらえることがもし許されるのなら、二人の決断もまた、必ずしも100%の悲劇とは言えないのではないだろうか。
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●『PaH』と「24年組」
森のなかの寄宿学校。同性愛的志向。
突出して優秀な、誰からも敬愛されるエトワール。
その死と不在が学園を呪いのように覆い、
静かな波紋が新たな事件を引き起こしてゆく……。
日本人なら誰しも、本作(1975)の持つ世界観と『24年組』――萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子、大島弓子ら――の挑んだ世界観との同時性(彼らの最盛期も70年代半ばだ)を感じざるを得ないだろう。
だが、日本の漫画家たちは、この映画を少なくとも1986年まで観ることは出来なかった(本作はピーター・ウィアー監督の『刑事ジョン・ブック 目撃者』がヒットしたのを受けて後追いで公開された)。要するに、両者はお互いを知らないまま、このような作品を作り合っていたというわけだ。
おそらくなら、僕の気づかない共通の始祖があるということなのだろうが、英米のメインストリームからは遠く離れた極東の地で、赤道を挟んでこれまた遠く離れた日本とオーストラリアのアーティストが、英国的な寄宿学校カルチャーを題材にとって、これだけ幻想的で耽美的な心に刺さる作品を競作していたというのは、とても興味深い現象だ。
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●『PaH』の東洋性
比較的なだらかで、素人でもハイキング感覚で登れる立地ながら、頂上付近には剥き出しの岩壁が土柱状に立ち並ぶという奇観は、関東近郊でいうとちょうど山梨の瑞牆山や群馬の妙義山を思わせるところがある(奇岩の洞を抜けていく感じは愛知県の乳岩っぽくもある)。中国でも、武陵源や桂林など、こういった岩峰を抱える奇峰は仙境として崇敬の対象とされ、格好の山水画の画題とされてきた。
その意味で、ハンギングロックの全貌を正面から映す冒頭のショットは、実に「中国」的で印象深い。
そそり立つ奇岩の絶壁と、低山の広がり、そして上部を広範囲に覆う湿潤な霞。
この風景はまさに、中国宋代山水の「郭熙の三遠――高遠・深遠・平遠」を想起させる画面構成だ。アボリジニ的というよりは、構図感が実に東洋的なのだ。
そういえば、東洋には「桃源郷」「隠れ里」の伝承が広く存在する。
要するに、深山幽谷まで分け入っていくと、この世の理から離れて隠棲できる理想郷があるとする考え方であり、「仙境」の思想が山岳信仰と深く結びついている一例である。
そして、そういう里に姿を消して帰ってこないことを「神隠し」という。
まさに東洋的な桃源郷幻想は、山の頂を目指すことで俗世からの転生をはかった少女たちを受け入れるには、ドンピシャの民俗学的背景だといえる。
だから、本作における岩壁のショットの、范寛『谿山行旅図』のような「高遠」を示す仰角アングルや、斧劈皴 (ふへきしゅん) ・披麻皴 (ひましゅん)を思わせる 岩肌の描写は、決して偶然ではなく、寄宿学校のキリスト教的な閉じた世界に、東洋的な「脱俗」の感覚を取り入れるための意識的な「寄せ」と考えたほうがよいのではないか。
桃源郷に入っている間は時間が止まるというのもいかにも東洋的な感覚だし、「足を縛っている拘束からの解放」が「自由」へとつながるというのも「纏足」を思わせるし。
あと、きわめて重要な言葉として、ミランダが「夢のなかの夢」というフレーズを口にするのだが、これって中国故事における「胡蝶の夢」だよね。
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●『PaH』と西洋美術
当然ながら、本作は西洋的な絵画史的伝統も深く受け継いでいる。
まず、森を描写する柔らかな陽光と、淡く茶色がかった色調は、僕にカミーユ・コローの風景画のそれを思い出させる。
それから、ピクニックと称して大自然のなかに配された美少女たちの姿は、マネやルノワール、スーラの印象派絵画、ブグローやカバネルのアカデミズム絵画、あるいはイギリスのラファエル前派の絵画(『オフィーリア』など)を容易に想起させる。
そのほか、「ハートの形をしたヴァレンタイン・ケーキをナイフで真ん中から切る」といった象徴的な表現や、鏡、写真立て、肖像画、グリーティングカード、ドライフラワー(「押し花」もまた抑圧と囚われの象徴だろう)などの印象的な使用など、絵画表現に由来する要素は随所で見ることが出来る。作中では女教師がミランダを「ボッティチェリの天使」にたとえるシーンも登場する。また終盤には、校長室の壁にラファエル前派と交流のあったフレデリック・レイトンによる『燃え上がる6月』の複製画が掛かっているのも一瞬目にすることが出来る。
何より、岩塊のふもとで少女たちが三々五々休憩しているシーンは、まごうことなき「活人画」(タブロー・ヴィヴァン=実際の人間を使って舞台上で絵画の一シーンを再現する見世物)の技法で作られており、パゾリーニやグリーナウェイとの相似性を感じさせる。
その他、備忘録。
●上記の白い七面鳥やコブハクチョウ、トカゲ、蟻以外にも、本作にはオーストラリアの動物たちが登場する。
二度、大群の群れでインコが登場するほか、青年の腕にセミが止まったり、青年たちが山狩りに出かけるときに、樹上でクモとカミカザリバトと別種のインコとコアラが順番に映し出されたりする。コアラってマジで野生でいるんだ! あと、探索の途中には、アゴヒゲトカゲが! それと動物ではないが、オジギソウ(笑)。
●音楽は、パンフルートの名手ザンフィルによる主題曲が大変印象的。パンフルートというのは、好色な牧神パンが自分から逃げだした処女のニンフが姿を変えた葦を使って作ったとされる笛で、本作の主題(処女性の永遠性、逃亡と変容)および田園画(パストラル)の伝統と深く関わっており、メイン楽器として実にふさわしい。
それと、少しマイケル・ナイマンとフランシス・レイを混ぜたみたいな感じの、緊張感のあるピアノメインのオリジナル曲も何度も出て来る。
クラシック曲もあちこちで援用される。一番かかるのがベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第二楽章。ほぼ第三の主題曲といった扱いだ。
それから、山への出発の際にはバッハの平均律クラヴィーア曲集のピアノ版が流れ、園遊会ではモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番第二楽章が、屋外のカルテットによって演奏される。あとは少女たちが歌う童謡とか。山に少女たちが登っているときは、ずっと得体の知れない謎の「ゴゴゴゴ」という響きが鳴っているが、パンフの監督インタビューによると、地震の音を効果音として入れているらしい。
●何はともあれ、ミランダ役のアン=ルイーズ・ランバートが可愛い!!! 以上。
追記:ネットで「The Lost Ending」なるものを発見!! 現在のラストシーンのあとの校長の様子を描いたファウンド・フッテージで、大変示唆的な内容だった。これは創元から出ている原作も読んで観ないとなあ。
アンランバート の神々しく儚げな美しさは大画面での一見の価値あり
#bunkamuraルシネマ渋谷宮下 さんにて #ピーターウィアー監督『#ピクニックatハンギングロック ・ロック』(1975)4Kレストア版を鑑賞。
1900年のバレンタインデーにオースラリアで実際にあった女子生徒たちの神隠し事件を描いたミステリー。
どのカットも印象派の絵画のような美しさだが、ミランダ役の#アンランバート の神々しく儚げな美しさは大画面での一見の価値ありでしたね。
ファンタジー
ふんわりした印象を受けました。
理解できないところも多かったですが、それで良いのだと思います。
原作を読んだら、謎が解ける部分書いもあるのでしょうが、そのままにしておきます。
オーストラリアのイギリスを感じることができて、新鮮でした。
インドとはまた違いますね。
騙してるつもりはないだろうけど、 勝手に騙された 実話だと思って見...
騙してるつもりはないだろうけど、
勝手に騙された
実話だと思って見ちゃった
でも楽しめた
全編通して不思議な空気感があって、
異様な感じがしてそのせいで集中させられた
『え?これで終わり?』と思ったのは、
そこそこはまったからだと思う
1900年 女生徒女教師失踪事件に揺れ動く周囲の人々 少女達の危うさ・儚さ・美しさを映す映像が素晴らしい
1900年。女生徒女教師失踪事件に揺れ動く周囲の人々を描く。
事件の謎やメタファーとして散りばめられた数々の細かいディテール。
少女達の危うさ・儚さ・美しさを映す映像が素晴らしい。
その時代のドレスがクリーム色で統一され幻想的なビジュアルと’70年代独特のソフトな色調が見事。
◇未開のオーストラリアと少女たち
1900年2月14日ヴァレンタインデイ、寄宿女学校のピクニックで起こった女生徒たちの失踪事件に纏わる物語です。時代背景は英国ヴィクトリア朝末期、翌1901年オーストラリア🇦🇺は、イギリスからの独立しています。
子供から大人へと変わっていく少女たちの持つ不可思議な生態、不安定ゆえに妖しい魅力を放つ一瞬。それは昆虫などに見られるメタモルフォーゼ<変態>に例えられます。栄養摂取に特化して生き残りと成長に最適化された幼生と、生殖機能を備えた成体の間で、形態が大きく変わることです。
オーストラリア🇦🇺🐨🦘が孕んでいる未開の自然の不可解さや謎めいた懐の深さと、少女たちが大人へと成長していく過程の美しく魅惑的なモーメントとが、綴織のように物語を構成しています。そして、ミステリーについては収束されず不明瞭なまま幕を閉じます。結末に投げ出されたような浮遊感と物語からもたらされる曖昧さがシンクロして、夢と現実が混ざり合っていくような余韻が長く響き続けているようです。
ざわめきとか、揺らぎとか
ハンギング・ロックは険しい岩山だ。
この映画を初めて見た時は、ストーリーが謎を呼ぶ割に、理由も結局は不明で、ざわめきばかりが残り、いわゆる安堵感とか安心感といったものを一切感じなかった。ちょっと、突き放されたような感覚だった。
そして、イマジネーション力が問われている感じもした。
しかし、それからかなり経って、深夜の映画番組でこの作品が放送された時、解説の岡部まりさんが「少年が大人になる一瞬をテーマにした作品は比較的あるように思うが、この映画は少女が大人になる時の揺らぎを表現した数少ない作品ではないか」と話しているのを聞いてハッとしたことを覚えている。
岡部まりさんは、ずいぶん昔「探偵ナイトスクープ」で秘書をやっていた方だ。
この原作は、映画のカルト的な人気が高まるとともに実際にあった事件をベースにしたものだとの噂が広がった。
しかし、原作者のジョーン・リンジーが、実は自分の見た夢が元ネタだったと、ずいぶん後になってから明かす。
また、この映画は「ジョンブック/目撃者」で一躍有名になったピーター・ウィアーの初期監督作品として、海外公開から10年以上経ってからシネヴィヴァンという六本木のミニシアターで公開された。
いまの六本木ヒルズのある場所の六本木通り沿いのWAVEというビルの地下にあったシアターだ。
そして、「ジョンブック/目撃者」がヒットしなければ日本公開はなかったとされている。
僕が最初にこの映画に惹かれたのは、村上春樹作品が好きだったことが影響している思う。
村上春樹作品では、よくヒトやモノ、場合によってはゾウまでもが、当然、消失するのだ。
だが、そこには、村上春樹作品の静かに喪失感が進行する様とか、それに向き合おうとする姿勢はなく、代わりに何かがざわつく、居心地の悪い感じがあった。
(以下少々ネタバレ少しあり)
あったのは、
ボッティチェリのヴィーナス似の美少女ミランダを含む4人の失踪と、
僅かだが複数の目撃、
捜索に出たマイクルが意識不明で発見されたこと、
アルバートによるアーマの発見、
1週間を経て発見されたアーマの記憶喪失、
フラストレーションを募らせるアップルヤード校長、
孤児セーラへの虐待、
セーラの自殺、
そして、学校コミュニティのヒステリック化と崩壊だった。
その後、アップルヤード校長もハンギング・ロックで遺体となって発見される。
この作品は、事件の原因も理由も、結局は何も語らない。
サスペンス好きの方でも結末を重視する人にはお勧めできないストーリーかもしれない。
だが、だからこそ、カルト的人気が高まったのかもしれない。
舞台となった1900年頃のオーストラリアは、不況の直後で、白人支配を目指す政府が主に中国人を排斥する白豪主義をベースにした差別を制度化し、内政はイギリスから自治を獲得するが、外交はイギリスの管理下に置かれるという不安定な時代にあった。
だが、こうした時代背景がヒントなのだろうか。
僕は、原作が1960年代に書かれたことが実は重要なのではないかと今は思っている。
アメリカの1960年代は、公民権運動に加えて、女性解放運動が盛んになった時代だ。
きっと、アメリカ女性が社会進出したり自立を模索する様の詳細は、同じ英語圏のオーストラリアにもきっと伝わっていたに違いないのだ。性も男性に従属するのではないとの考え方もあっただろう。
そして、その頃、ジョーン・リンジーは、不安定な時代のオーストラリアに舞台を設定して、少女達と、それを取り巻く社会、少女が大人の女性に変化するひとときの揺らぎや、性への目覚め、ざわめきを暗示する物語を描こうとしたのではないか。
白い衣服はヴァージンを意味しているに違いない。
あっという間に「それを」乗り越えて、皆のそばから遠くに行ってしまう………つまり、大人びてしまうものもいる。
美しいミランダが最初に消えてしまうのにも、常に男たちの好奇の目の中にあるといった示唆的なものを感じる。
「それを」考えることで罪悪感に苛まれるものもいる。
貞操感が第一のものもいる。
厳格な宗教の教えの下では当たり前かもしれない。
経験しても今まで通り、普通にしていられるものもいる。
消えるスカートやコルセットは何を示唆しているのか。
因習や、価値観を縛り付ける何かだろうか。
学校という空間では、影響は瞬く間に広がる。
ヒステリックなまで管理を徹底しようとする社会や大人達。
消えたことに向き合おうとするより、現状の維持を優先したりする。
こうした目覚めは、いつか皆が通る道で、今である必要はないのだと考えているからだろうか。
傍観しているように見える男子。
そして、亡くなった校長も古い因習を表しているのではないか。
ハンギング・ロックは険しい岩山だ。
そして、「ピクニック」と「ハンギング・ロック」という組み合わのタイトルにも意味があったのではないかと考えさせられる。
簡単そうに思えて、実は容易に登ることは出来ない。
ピクニックのような気分ではいられないのだ。
そして、ハンギング・ロックは、性のメタファーではないのか。
興味を持っても、ざわついても、決して容易なテーマではないのだ。
そうであれば、明らかな解決策などあろうはずがない。
僕達は、この作品を通じて、少女の揺らぎやざわめきを隠されたテーマとして見せられたのではないのだろうか。
(※ 余談だが、昔、薬師丸ひろ子さんが「メインテーマ」という南佳孝さん作詞作曲の歌を歌っていたことがあったが、当の南佳孝さんが同じ曲を「スタンダード」という別のタイトルでカバーしていたことを思い出した。若い子にはメイン・テーマでも、大人にはスタンダードなのだそうだ。)
圧倒的な映像と対比の美学
30年ぶりに観た。1900年という時代のオーストラリア、という背景の中で、イギリス文明と開拓半ばのオーストラリアの野性、失踪で永遠の若さを維持する少女と壊れていく学校と老校長、神隠しという幻想と事故という現実等様々な対比が巧妙に盛り込まれている。壊れる時計、食べ物に群がるアリ等の隠喩も観た後で思い出してみると想像が膨らむ。
初めて観た時は実話に基づく映画とされていたが、現段階ではどうやら全くのフィクションということのよう。確かにクレジットにもフィクションだと書かれている。
儚い少女たちと不可思議な謎が幻想的な雰囲気を増す
岩山へピクニックへ出かけた名門女学園の生徒たち。そこで、数人の女生徒が忽然と姿を消す…。
1900年にオーストラリアで実際に起きた事件を映画化した、1975年のオーストラリア映画。
事件の真相を巡って、様々な諸説が挙げられている。
神隠し説、殺人説、事故説、生け贄説、果てはUFO連れ去り説まで。
事件は迷宮入りとなっている為、真実は分からないが、映画は“神隠し説”にスポットを当てたような作風になっている。
それを象徴しているのが、甘美な映像。幻想的な雰囲気を醸し出している。
また、純真無垢な女生徒たちと彼女たちを取り巻く人間模様が何処か不条理なドラマを作り上げている。
少女。
“女の子”とも“女性”とも違う、あどけなさを残しつつも繊細で多感な時期。
少女でいられるのは、女の子が大人の女性へと変わるほんの一時。それこそ神隠しの如く一瞬で消えてしまう。
儚いその存在が、謎の失踪事件を、神秘的にすら感じさせてしまう。
映画は謎に迫る本格ミステリーではない為、それを期待すると肩透かしを食らうかもしれないが、不思議な世界観と語り口には魅了される。
名匠ピーター・ウィアーの出世作。
失踪する少女の一人、レイチェル・ロバーツがハッとするほど綺麗。
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