薔薇の名前のレビュー・感想・評価
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真理がわれらを自由にする。
今は亡きコネリー様を偲ぶ。
原作既読。原作は、重層的に織り込まれた意味のおそらく10分の1も理解できていないと思うのに、表の皮一枚でしかない探偵小説の部分だけでもメチャメチャ面白い、という稀代の名著であった。
映画版はそこに迫ることはできないのだけれど、それでも滋味あふれる賢者の佇まいのコネリー様、そしてまだ10代半ばピチピ…溌剌とした生命力あふれるスレイターのコンビは、陰鬱とした修道院の闇を照らす一筋の灯火のように謎に迫っっていく。
知識は力であり特権であり、権力の象徴でもあった時代を窺い知ることで、ようやくここまできたんだという事を噛み締めつつ、逆戻りすることだけは避けたい、と強く思った。
知ることの大切さ
現代と比較して知識の獲得が十分でないが故に、宗教に縋るしかなかった時代の悲惨さ、痛ましさ、悍ましさを目の当たりにした印象です。分からないことを一つ一つ地道に解明していくことの大切さを改めて痛感しますし、哲学や科学を黙殺していた教会には憤りを覚えます。
こうした宗教と科学の対立は青のエクソシストなどで既視感がありましたが、「女は生来邪悪な存在」と言い放ち、聖母マリアすら例外ではない(本来は邪悪だが神の御業によって神聖な存在となった)かの様に仄めかす修道士の態度には驚きました。教会がマグダラのマリアを事実に反して売春婦に貶めたことはダン・ブラウンの小説にありましたが、まさか信仰の対象である聖母マリアにすら内心否定的だったとは考えもしませんでした。主人公の進歩的なウイリアム修道士でさえ「神が女を創りたもうたのには何か理由があるはず」などと、女性の存在意義を積極的に肯定できない様子でした。現代のタリバンと大差ないように見えますが、そのタリバンもカトリックのように将来考えを改める時が来るのでしょうか。
悪魔は左手に宿るとされ、描かれる悪魔のほとんどが左利きのキリスト教修道院で、僅か副司書一人とはいえ左利きの修道士がいたことも意外でしたし、教皇庁がローマではなくアビニョンにあったことも知りませんでした。
洗うが如き赤貧に民衆が喘ぎ、怪死事件が連続して起こり、民衆を導くべき修道士が教会と異なる思想を黙殺していてはあまりにも救いがないということなのか、無実の少女は磔刑を免れ、自らに異を唱えるウイリアムを異端呼ばわりする異端尋問官は怒れる民衆の手によって崖下に転落死させられますが、これらが何らかの救いになっているのか、粗末な食料と引き換えに下劣極まりない醜悪な修道士の慰みものになることが、少女にとって無実の磔刑と比べてどれほど良いことだったのか、私には分かりませんでした。
宗教の解釈に縛られすぎるのは如何なものか?だから宗教なのか・・・
見事な中世世界観、その中にショーン・コネリーをはじめとした俳優たちが溶け込んでいて、はらはら・ドキドキがすごい。
「信仰と狂信の差は紙一重」という言葉が鮮明に残っていて現代社会にも言える言葉だ。
ショーン・コネリーの存在感はもちろんだが弟子も他の信者も存在感のある印象に残る演技だった。
ストーリーも宗教題材ではあるが自分なりには理解できた。
少女が火あぶりの計から免れるところまでは自分の思うようなストーリーだったけれど最後の最後に再会を果したのに結果は残念なストーリーだった。(納得がいかない)
ショーン・コネリーは弟子アドソに一人の人を愛する尊さも教えるべきだった。
自分勝手な解釈で行くと「弟子アドソは少女をつれてどこかの村でひっそりと幸せに暮しました。チャン、チャン」である。
自分の描いたとおりに物語が進まなかったので1点減点してしまいました。自分の小ささに懺悔です。
上映館に急げ!
舞台は、14世紀の北イタリアの山地に聳える修道院。教皇派(その頃教皇庁は、アヴィニョン)とフランチェスコ会(アッシジの聖フランチェスコを引き継ぐ清貧派)との討議に参加するために修道院に到着したバスカヴィル(イングランド)のウィリアム(コネリー)とその弟子メルク(オーストリア)のアドソ(スレーター)は、若い修道士の不審死を知るが、その解明を修道院長から依頼される。早速その調査にかかるものの、不審死は続く。その過程で、高台の修道院敷地から残飯を含むゴミが投棄され、貧しい農民がそれに群がるのを目にする(モンサンミッシェルを訪れた時のことを思い出した)。二人は、修道院の塔の下層階にある写字室に入り、この塔には膨大な書籍があるはずで、それが怪死事件の背景と気づく。両派の到着後行われた討議は不調に終わったが、教皇派の一行に加わっていた異端審問官ベルナール・ギー(エイブラハムの怪演)により、不審事件は異端者のせいとされ、魔女と断定された(アドソと親しい)農民の娘と共に、火炙りの刑を受けることになる。ちょうどその頃、塔の高層階にあった迷路のような文書館に入ることができた二人は、事件の真実を捉えたのだった。
一番気になったのは、その結末。エンドロールに、以下のラテン語の詩句が出てくる
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.
「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」
その直前に老いたアドソのナレーションが流れる。初恋の村の娘のことを
She was the only earthly loved in my life. Yet, I never knew, no ever learned her name.
「生涯でただ一度私が愛した彼女の名前を私は知らないし、知ろうとすることもなかった」と聞き取れたが、この二つがタイトルに繋がることは判った。しかし、ラテン語の警句と台詞の意味するところは、相反している!
ラテン語の詩句はエーコによって書かれた原作にもあり、カトリックの「聖」の世界、教皇派とフランチェスコ会の向こうに見える。一方、アドソの台詞は映画にしかなく、現実の「俗」の世界、謎解き、ミステリー、ロマンの側。この二つの世界を、一つの映画の中で見せてくれた脚本、監督、製作に感謝したい。
傑作である。
現代の危うさへの警鐘か
映画の中の暗黒の中世はキリスト教原理主義とセットで、そこではギリシア・ローマ時代の哲学や思想は禁書とされる世界。聖書に書かれていることが全てであり、聖書以外の書籍からの知識や実世界を観察して得た情報から、自分の頭で物事を考えることは、ともすれば異端とみなされる世界。
民衆が楽しみを知ると神に縋らなくなるので、民衆には苦しみと恐怖を与えなければいけないとする世界。
現代にも似たような中世の闇は続いている事を強烈に暗示している映画だと思った。
楽しかった
14世紀頃のイタリアとのことで、日本で言えば鎌倉時代後期のあたりか。宗教が少しも人を救わない、ものすごく野蛮な世界をショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターの師弟コンビが征く推理冒険譚。冒険といっても舞台は一箇所から全く動かないので、ビデオで見たら眠くなったかも。ロケーションと美術の圧倒的な迫力で見せ切るスタイルで、全編ワクワクしっぱなし。映画館で見られて良かった。修道院の責任者達や、中央組織から来るさらに高位の聖職者達の思考回路は、現代の我々にはとてもついていけない狂ったようなものだが、揃いも揃って強烈過ぎるいでたちやヘアスタイル等に目を奪われて、あまり違和感なく見られるのがうまくできている。ある意味「スターウォーズ」的な異世界エンタメっぽくもあり、とても楽しく見ることができた。
名作だと思うんだけど。
35年ぶりに見ました。
やっぱり素晴らしい。クリスチャンスレイダーかわいい!!リアルな美術、衣装、1300年代世界観(知らんけど)確か映画みて原作も読んだがすっかり忘れてた。
社会人になったばかりのくそガキだった時に比べて私の理解力も上がって色んなことがクリアになってより楽しめました。当時続編出来ないかなぁ、、と思ったのを思い出した。
そして今回も思った。
続編出来ないかなぁ、、、、。
【ゴシックミステリーの秀作】
■1327年の北イタリア。修道士のウィリアム(ショーン・コネリー)と弟子のアドソは、キリストの財産をめぐる重要な会議に出席するためベネディクト修道院を訪れる。
到着してすぐ、若い修道士が不審な死を遂げた。
ウィリアムは事件の解明を依頼されるが、すぐに第2の殺人が起こる。
◆感想
・ウンベルト・エーコの原作を読んだのは、中学生時代である。分厚い本で難解ではあったが面白く読んだ。
・映画はレンタルで観たが、面白かった。原作の世界観が、見事に画面に反映されていた。
<今作は、原作の重厚な世界観をキチンと描いた作品であると思います。>
薔薇の名前は知らなかった
会議のため修道院にでかけた主人公(ショーン・コネリー)は若い弟子(クリスチャン・スレイター)を連れていた。
到着早々、院長から、つい最近起きた殺人事件を調べてほしいと頼まれる。
その後も殺人事件が続き、この修道院の闇の深さが感じられた。
映像が素晴らしい。
Spiritually dangerous books. 何かおごそかな宗教ミステリー
たまたまスターチャンネルEXで見付けて何となくショーン・コネリーの渋い顔に惹かれて観賞。思いっきりキリスト教のお話でした。ミステリーとしては本に毒が塗ってあったのでは?って事にわりかし早くわかってしまうのですが、キリスト教の思想に関しての方が面白く観れました。
いやー、でも改めてキリスト教って怖いわ~っと思いました。一神教って他は認めないから大変です。キリスト教の中でも派閥で別れているて、ハタから見たら同じキリスト教でしょ?ってなっちゃうのですが、やってる側からすると大違いなのでしょう。なかなか「仲良く喧嘩しな」って風にはならないみたいですね。でも自分達の思想を守る為に人殺しも辞さないって宗教として本末転倒な気もします。
あの当時はまだ活版印刷はなかった時代でしょうか?写す時は全部手書き!そりゃ本の価値も今とは比べ物にならなかったでしょう。見付けた時のウィリアムがメッチャはしゃいでましたし、それだけ本って貴重だったんですね。
雰囲気は14世紀当時の何とも閉鎖的なキリスト教の施設を良く再現してて良かったです。西洋の建物とか惹かれるものがありますね。ショーン・コネリーはカッコいいです。クリスチャン・クレーターが若い!そして、ロン・パールマンが出ててビックリ。よく似てるなぁっと思ってたら、まさか本人だったとは!
で、結局「薔薇の名前」ってあの村娘の事だったんですかね?メインの内容が宗教闘争ミステリーだったので、そこだとすると内容と題名と微妙にアンマッチなのでちょっと違ってる気もします。どうなのでしょう?
古い映画ですけど、
薔薇は神の名付けたる名前なり、汝の薔薇は名もなき薔薇
「薔薇の名前」は、世界的な記号論の巨人、ウンベルト・エーコ原作の同名歴史ミステリーを映画化したものだ。
そして、掲題は、当時の映画のエンドロールの直前に流れるラテン語の詩の邦訳だった……はずだが、これがVHS化された時に、この邦訳は変更されていた。
それは、小説の「過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」とほぼ同じだったと思う。
何故だろうか。
薔薇の名前は、ショーン・コネリーの重厚感や、若き日のクリスチャン・スレーターも印象的だったが、そのストーリーが単なる謎解きミステリーを大きく超えて、中世カトリックや、その強大化した権力、農奴に対する苛烈な支配・差別、宗教的な普遍的価値とは何かを問う大作だった。
その物語は、次々に修道院で起こる殺人事件と、異端が関係しているのか、実は修道院の何処かに隠されているとされるローマ・カトリックの禁書に関係しているのではないのか、そして、その禁書に何が記されているのか、様々な謎を孕み、映画ならではの迷路のようなセッティング、スペクタクルな場面を経て進行していく。
中世、ローマ・カトリックは、ローマ帝国崩壊後のローマに拠点を置き、荒廃したローマに活気を取り戻しただけに止まらず、当時の欧州各国の政治や王位継承に大きな影響を与える強大な権力を手にしていた。
ヒエラルキーの頂点に君臨していたのだ。
そして、その支配は苛烈でもあった。
異端を徹底的に排除し、死罪なども当たり前だった。
こうしたことを窺わせる場面も映画には散りばめられている。
農奴の置かれた劣悪な環境も差別が如何に酷かったのかを伝えている。
そして、禁書の示すものは…。
以下ネタバレを含みます。
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禁書とされたのは、アリストテレスの「笑い(喜劇)の章」だ。
何故これが禁書なのか。
その意味するのは、ローマ・カトリックの宗教支配が恐怖によるものだったということだ。
信仰に従わない者には苛烈な罰が与えられ、異端は往々にして死罪となり、普通の人間にも地獄に落ちるとか、神罰がくだるといった暗示的な恐怖で信仰を強制し、皆で笑うとか、楽しむなどというのは信仰に不必要なことだったのだ。
これは、ダンテが中世ヨーロッパにあって、この地獄や煉獄を含んだローマ・カトリックの世界観を「神曲」で示していることからも窺える。
ただ、当のダンテも、庶民にも読めるようにとイタリアの方言であるトスカーナ語で書いたため、ラテン語以外で書物を書いた罪で協会から追放されてしまう。
それほど、ローマ・カトリックは、戒律や規律で雁字搦めだったのだ。
これは、現代にも通じる話ではないか。
25年近く前にテロ事件を起こした新興宗教のマインド・コントロールもそうだし、少し視点を変えたら、自由主義や民主主義に依らず、特定の一党独裁やそれに近い政治支配、或いは、特定の宗教支配を行う共同体や国家の支配も類似していないか。
戦前の官憲が見廻る日本も大差なかったはずだ。
ハラスメントや劣悪な労働環境を改善せず、従業員を恐怖で縛り付ける企業だって大差ない。
そして、この作品は、禁書というヒントを通して考える機会を僕達に与えているのだ。
アリストテレスは、実際、喜劇について何か書き残したのではないかという説もあるようだし、当時の権力や支配者を笑い飛ばすなんてことが御法度の世界を、これと対比させることで、感情を自由に表現できるということの重要性も考えさせられる。
そして、最初に提示した謎。
何故、ラテン語の詩の邦訳は変更されたのか。
その詩の意味することは一体何なのか。
僕は20年近く、この謎が常に頭の片隅にあった。
しかし、ついに2000年を過ぎたころ、ウンベルト・エーコが、アメリカのアンカーのこの詩の意味は何なのかという質問に対して答えた記事をネットで発見する。
このラテン語の詩の原文はこれだ。
「Stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus」
エーコはこの質問に、これはちょっとした悪戯だった答える。
Rosa(薔薇)をRoma(ローマ)に変えてみなさい。
この詩は、12世紀、ある詩人がローマについて書いたものがオリジナルで、当時のローマの状況を憂えたものだ。
「過ぎにしローマはただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり」
ローマは共和制から、ローマ・カトリックの強権的な支配になって再び栄えているように見えるが、中身は全く異なるものになってしまった…と。
そして、何故、薔薇の名前だったのか。
この小説や映画のファンの間でも論争は続いていた。
中世では薔薇論争が宗教学者の間であったからだ。
いや、アドソの惹かれた農奴の少女の美しさをモチーフにしたのだ。
こうした、議論がずっと続いていたのだ。
しかし、事実は意外なものだった。
今、日本版のWikipediaは、薔薇論争のことが記載されているが、エーコのインタビューについてはアップデートされないままだ。
エーコは、この短いラテン語の詩で、彼の遊び心にも似た思いつきで、ずっと皆を惑わせ続けたのだ。
そして、僕は、邦訳の変更を20年もの間、その理由を知らず悩み続けたのだ。
あの邦訳は、そもそも意訳どころか、とんでもなく間違った訳だったのだ。
エーコは、僕達を惑わせて、自らは笑って見せたのだ。
「笑いの章」だ。
16年に亡くなったエーコは、真の智の巨人だったのだと改めて思う。
ショーン・コネリーのとんでもないマスター感!
とある修道院で起きた連続殺人事件とその裏に隠された秘密に、元異端審問官の修道士とその弟子が挑む、中世ヨーロッパを舞台にしたミステリー。
主人公ウィリアムを演じたのは、『007』シリーズや『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の、レジェンド俳優サー・ショーン・コネリー。
第12回 セザール賞において、外国映画賞を受賞!
中世の修道院を忠実に再現したと思われるセットと、画面越しでもその寒さが伝わってきそうな空気感、どことなく不気味な修道士の人々など、映画の雰囲気はすごく良いです。
何よりショーン・コネリーの圧倒的な存在感。彼がいるだけで凄い名作を見ている気がしてきます。
映画のテンポは静かでゆっくり。心地よいのだが眠くなる。
ミステリアスな雰囲気は素晴らしいが、なんとなく先が読めるストーリー展開。
ベネディクト会とかフランシスコ会だとか、キリスト教会の知識が無い人間には結構わかりづらい作品かも。
村娘と弟子のラブシーンはかなり唐突…
それが物語の重要な要素になるのだが、そこにはのめり込めなかった。
とにかく、雰囲気が素晴らしい。当時の修道院やキリスト教について学ぶことができる作品かと思います。
僧院を舞台にしての宗教論争
原作は長すぎて諦めました。
あの長さをよくまとめてあると思います。
暗~い中世時代の世界観、ゾクゾクします。
世界中にファンがいるのもうなずけます。 大好きな映画です。
異端者
この映画は因縁深い。最初にレンタルビデオを借りてきたときには暇が無くて見れなかった。知らぬうちにまた借りてしまったが、悪魔のような電話がかかってきて再度見ることができなかった。3回目はテレビで途中で寝てしまった・・・
キリスト教はさっぱりわからない。ベネディクト派と言われてもなんのことやらさっぱりだ。ザビエルみたいに頭のてっぺんを剃り上げてるのがそうなのだろうか。異端がドルチーノ派。そしてサルバトーレのメイクアップ。シャーロック・ホームズみたいな性格のウィリアム。かなり面白いことは確か。
異端を忌み嫌う封建的な修道院とホモセクシャルな雰囲気。謎解きもまぁまぁ面白かった。
ヨーロッパの中世の勉強に
勉強になります。閉塞感のある修道院の雰囲気や、信仰のために殺人を犯してしまう歪みなど、現代の基礎になるような内容。
ただ、キリスト教の教義や歴史についてある程度知識がないと、置いていかれるし、共感し難い部分がある。
特に、女性蔑視や同性愛忌避の思想が物凄く強いことが印象的。
原作読みたい
いやー良かった。
この世界観でミステリーとか最高ですw
なんとなくバチカン奇跡調査官を思い出しました…
オチや動機はそこまでなのですが、そこまでの展開や当時の雰囲気が良くでていて、最後までしっかりと見ることができました。
原作読みたいな…
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