野いちごのレビュー・感想・評価
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老年期の心の旅
偏屈な学級肌の老医師が、名誉博士号の受勲。授賞式への旅が人生の回顧への旅と重なる。婚約者を兄弟に奪われた傷つきによって支配された人生であったが、息子の妻から見た世界やヒッチハイクで拾った若者の愛に溢れる生命力に触れることで、自分の人生を肯定し、自分が元々持っていた周囲の人への愛情を回復する。/冒頭に出てくる悪夢がいい感じの悪夢である。
回想するに足りる人生が、きっと良い人生なのでしょう。
<映画のことば>
「私たちは夫婦じゃないぞ。」
「そのことを、毎晩、神に感謝していますわ。」
人づきあいの煩わしさから、意図して社会的な孤立を選びとってきたイサク教授―。
たしかに、人づきあいを省略することで、一時的な安息を得、学究に勤(いそ)しむ時間も産み出すことができたのでしょうから、ある意味、本望だったのかも知れません。
しかし、その反面、内心では人との交際を絶つことの不安や、自らの学究の成果について、潜在意識には常に不安がつきまとい、それがイサク教授の悪夢の根源だったことは、疑いようもないことでしょう。
世上、社会的な孤独は認知症発症の重大なリスク要因ともいわれますけれども。
そして、人づきあいは、確かに「ややこやしい」という一面はありますけれども、そういう煩わしさをなんとか解決していくことが、結局は「生きる」ということにつながる
のでしょう。
人間が「社会的な動物」ともいわれる所以(ゆえん)だとも思います。
ただ、評論子は、本作のイサク教授のような生き様を、アタマから否定するものではありません。
現に、もしイサク教授がただの変わり者の偏屈に過ぎなかったとしたら、家政婦のアグダは、あんなにも献身的にはボイル教授には仕えてはいなかっただろうと思うのです。
授賞式に向かう旅の途中、ヒッチハイカーの若者を拒むふうでもなく、(うまくはいってないのかもしれないけれども、同乗を拒むわけでもないという意味では)長男の嫁とも、これと言って折り合いは悪くなさそう―。
そんなこんなの事情に照らしても、イサク教授が偏屈で、取っ付きづらい人柄と断ずる要素は見当たらないと、評論子には思われます。
(上掲の映画のことばも、冗談めかして言われているものなのですけれども、その裏には、イサク教授への畏敬の念が隠されていたと思いますし、高い業績をあげたのであろう老教授の身の回りの世話を、妻亡きあとは一身に、彼の身近で焼くことに、ある種の誇りすら持っていたのかも知れません。)
要は、自身として満足のいく、得心のいく、つまり後悔のない一生を、自分として送ってきたかという「主観的な納得」こそが、その人の人生の価値を決めるものだと思うの
で。
そして、こういうふうに回想することのできる人生というものは、若い頃の婚約者をめぐる出来事を含めて、むしろ価値の高いものなのかも知れません。それに足りるのが(その人にとっては)「良い人生」だったとも言えることでしょう。
(邦題の野いちごは、その出来事をにまつわる大切なアイテムということなのだとも思います。)
本作は、私が入っている映画サークルの「映画についての評を語る会」というような集まりで、話題にする作品として選ばれたことから鑑賞したものでしたけれども。
さすがに映画サークルのメンバーお題作品として選ぶに足りる佳作でもあったと思います。
評論子は。
(追記)
まったくの余談ですけれども。
聖名祝日のパーティの席で、アーロンおじ様が使っていた補聴器は、いいなぁと思いました。
最近とみに加齢に伴う「聞こえの悪さ」を切実に実感している評論子としては。
あの補聴器なら、電池が切れることもないでしょうから省エネでしょうし、映画館で使えば、皆の注目を集めることは必定と思います(評論子は人気者だ!)。
唯一の難が、どこで売っているか、いくらくらいで売っているかが分からないこと。
レビュアーの皆さんで、もし、どこか店頭で見かけた方がいらしたら、是非とも評論子まで御一報をお願いいたします。(薄謝進呈)
【或る老齢の医学博士が、名誉博士号を授与されることになった道程で過去の思い出したくない出来事や、若者達や喧嘩する夫婦を乗せ乍ら様々な思いを胸にし、自宅に戻り静に眠りにつく物語。】
ー 今作は、イングマール・ベルイマン監督の古典的名作という位置づけにある作品だそうであるが、”私にはあと40年ほど人生経験を積まないと真の良さは分からないかな。”と思った作品である。-
◆感想
・イーサク博士が夢の中で自身の死の幻影を見るシーンなどは、針の無い時計や、棺桶からはみ出た自身の姿などシュールレアリスム的でもあり、印象的である。
・冒頭の、博士が若き時に恋していたサーラを弟のジーグフリードに取られるシーンや、その後授賞式へ向かう道程で出会った3人組の男女や、喧嘩ばかりしている夫婦の意味合いが良く分からない。
・彼の旅に同行する息子エーヴァルドの妻マリアンは、彼の事をエゴイストと言い、夫との関係も良くない。
だが、二人は結局仲直りをするのである。
<イーサク博士はそんな様々な経験をしても、自宅に戻ると穏やかな顔でベッドに入り眠りにつくのである。
年を取ると昔の悔やまれることを思い出したり、死の恐怖に苛まれたり、若者との価値観に疎外を覚えたりするのかもしれないが、イーサク博士はそんな思いを全て受け入れ、寛容な精神で穏やかに眠りに着いたのかな、と思った作品である。
所謂、達観した人生観を表した作品なのだろうか。もう少し年と人生経験を重ねないとイーサク博士の境地にはなれないのだろうか。
それにしても、イングマール・ベルイマン監督は今作を39歳で公開しているのである。老成した若者だったのか、真の天才だったのか、両方だったのだろうなあ。>
イングマール・ベルイマン監督の最高傑作‼️
わが敬愛するイングマール・ベルイマン監督作品の中でも一番優れている作品だと思うし、一番好きな作品ですね‼️ベルイマンの作品には夢や幻覚のシーンが多く見られ、時に難解と思われる作品もありますが、この「野いちご」はそれが最も美しく、そして最もわかりやすく表現されていると思います‼️ストックホルムで孤独に生きる78歳の老医師イーサクは、名誉博士の称号を授与されることになる。別居中の息子の妻マリアンと車で式典に向かう途中、イーサクは60年前の恋人サーラとの悲恋を回想する。サーラによく似た女性ら若者三人組や、喧嘩ばかりしてる老夫婦を車に拾うなどしながら目的地へ向かうが・・・‼️自分の死体と出会う奇怪な夢や、恋人が弟に奪われる回想シーン、妻が男と密会する現場を目撃したことを思い出したり、医師の試験を受けさせられたあげくの有罪判決、マリアンから子供を産むことを息子が許さないと相談されたり・・・‼️回想場面に現在の主人公自身が登場するのも独創的だし、夢と回想と現実が錯綜するような構成も印象的で、老いて死を予感している主人公の内面のイメージが見事に表現されていますよね‼️そんな夢と回想を織り交ぜながらのロードムービーを鑑賞しているうちに、イーサクのこれまでの様々な人生模様が浮かび上がってくる、まるで走馬灯のような映画ですね‼️そして若者三人組に祝福されたり、息子夫婦の仲直りを見ているうちに、名誉よりも心を開くことが大切であると気づいた主人公が、安らかな心でサーラの夢を見るラスト‼️なんて素晴らしい着地点なんでしょう‼️まさに人生に対するノスタルジー‼️ベルイマン監督の演出は静かで詩的で美しく、ホント心に沁みる‼️深みのあるモノクロ映像も格調を高めていてホント素晴らしいですね‼️
医学博士の車旅
映画は78歳の医学博士イサク(Victor Sjöström)の独白ではじまる。
『いわゆる「人づきあい」の主な中身は、そこに居ない誰かの噂をし悪口を言うことだ。私はそれが嫌で友を持たず、人とのつきあいを断った。歳をとった今ではいささか孤独な日々だ。・・・』
映画野いちごはイサクが学位の授与式に参列するためストックホルムからルンドまで車で移動する道中の様子を描いている。マップを開いたら直線で500キロほど、車で7時間──と出た。当時の車/インフラならもっとかかっただろう。
車旅は息子の嫁(イングリッド・チューリン)と三人の若者が道連れとなり、折々夢へ飛躍しながらイサクはじぶんの人生の再評価を余儀なくされる。
イサクは人々から尊敬され感謝される医者であり大学から叙されるほどの成功者だが、息子や亡妻に対して常に不機嫌で頑固で自己中心的であった──ことがイサクの見る白昼夢や息子の嫁の証言によって明らかになっていき、過去の自分自身を観察しながら次第に内省へと落ち込んでいく。
wikiの解説に『ベルイマンはストックホルムからDalarnaまでのドライブ中故郷のUppsalaに立ち寄ったときに映画「野いちご」のアイデアを思いついた。』とあった。
車を運転される方であればお解りになると思うが、ドライブ中はいろんなアイデアを思いついたり、あるいは嫌なことを思い出したりする。いいことはあまり思い出さず、不意に恥ずかしい失敗を思い出して車内で独りなのをいいことに、大声をあげてその記憶を振り払ったりする、こともある。
つまりベルイマンは「野いちご」のアイデアを閃いたことと、映画中でイサクが自省の念へ立ち戻っていく──という事象をドライブに紐付けながら語っている。
人生の黄昏期、集大成のような功労賞が与えられるという節に7時間のロングドライブをしたら、確かにあんなことやこんなことや、悲喜こもごもを思い出しながら、ひょっとしたら暗い気分になってしまうかもしれない──と思わせる普遍的な完成度をもった映画だった。
普遍的というのは、じぶんが78歳の医学博士に至っていなくても、まったく別の年齢で何も達成していなくても、この話はとてもわかる話だ──という意味であって、イサクが幻想でまみえる夢判断のような劇中劇も解りやすく、結果本作はベルイマンの代表作にもなり、キューブリックやタルコフスキーのような巨匠中巨匠でさえもが野いちごをAll Time Favoriteに挙げている。
ただしベルイマンの主潮流である神の不在とは印象が異なり別サイドの代表作という感じ。
個人的に普遍性と家族と、ある種の虚無感によって「東京物語のB面」というのはどうだろう。我ながらいい短評だと思う。
wikiによれば1957年撮影時のベルイマンは体調も悪く私生活も混乱していた。
前にも言ったことがあるがベルイマンという人は理知の塊のような映画をつくるのに反して結婚離婚を繰り返した人だった。それを「反して」というのは語弊があるかもしれない。ただすごく悟性に訴える映画をつくるのに何度も結婚離婚をしていることが日本人の見地からは違和があった。むろんそれがだめと言いたいわけではないしスウェーデンがそういう国なのかもしれないが、野いちごの撮影時には胃疾患とストレスでの入院後だったのに加え、出演者の一人であるBibi Anderssonとの関係が終焉していた──と概説にあった。ビビとは要するに不倫をしていたわけ。
わたしはどなた様の不倫にも感心がなくましてそれに善悪是非を裁定する権利がないと思っているがベルイマンが恋多き男だということは映画のピューリタンな印象とは異なっていた──という話である。
ただしもちろん、往々にして世の傑物がそうであるように、何度でも女性とくっついたり離れたりするような甲斐性や執着心がなければ人はクリエイターなんかになれない、というのは解る。(もちろんそうではないクリエイターもいくらでもいるが)
それらの絶不調に加えて主演のVictor Sjöströmが難物で、かれはサイレント映画時代の重鎮でベルイマンの大先輩でもあった。
ベルイマンは──
『Victorは憂鬱な気分でいて、映画をやりたがらなかった。彼は人間嫌いで疲れていて、老いを感じていた。彼にこの役を演じてもらうために、私はあらゆる説得力を駆使しなければならなかった』
──と述懐している。
つまりイサク役はVictor Sjöströmそのものだった。歳も同じくらいで、ベルイマンは時々脚本の細部について屁理屈を言われながら、最終的に撮影時間が変更されSjöströmが彼が日課にしている午後5時からのウイスキーを飲む時間に帰宅できるようになると、事態は好転した。──そうである。w
ベルイマンの苦労が報われ野いちごのVictor Sjöströmは迫真だった。Victor Sjöströmが遠くを見る目をするだけですでにドラマチックだった。
ラスト、イサクは幻想のなかでBibi Andersson扮するサラに誘導され、湖のほとりでピクニックする家族のヴィジョンが見えると、そこでやっとイサクは肯定的な歓びの表情をする。
あれはまもなく死ぬからだろうと思う。あれはハッピーエンドのイメージじゃなくて涅槃のイメージだ。だから野いちごは「人はどんな風に死んでいくのか」という映画だ、と(個人的には)思っている。
イーサクの遺作
何が彼をそーさせたのか、孤独で静かに頑迷だった親父の晩節が描かれている。夢は逃避の象徴として扱われることが多いですが、その逃避の夢が現実を変えるキッカケになり、ラストシーンでみる夢の慰めも深まる。
義理の娘は東京物語の原節子か。誰にでも女神はいる。
イングマール・ベルイマン
旅の途中の回想シーンはイーサクの人生の中でも辛いものばかり。弟に取られたサーラ。妻と男との密会。医師の試験まで受けさせられ、有罪判決を受けるというわけのわからない夢まで見てしまうのだ。
そんな嫌な記憶はあれど、三人の若者が純粋で楽しい。なぜだかその対比がイサークの人生の苦楽を象徴していて、生きる勇気をも与えてくれそうな雰囲気。一方、同じく医師である彼の息子も38歳という若さで死について考え込む性格らしい。嫁とも上手くいっていないことがイサークの気になるところだ。
たった1日の間に辛いこと、楽しいことをいっぱい経験した。若者たちが別れ際に歌を歌ってくれたのもうれしい。これが生きている喜び。就寝時には青春時代の楽しい思い出を夢に見る。
寛容を身に付けた老博士の人生回顧にある苦渋と達観の厳格なる映像作品
現代映画人の中で最も異才を放つイングマル・ベルイマン監督の最高傑作。地位と名声と安静を得た孤高の人生の晩年を迎えたひとりの老博士を主人公にした、ほんの数日の出来事。悪夢と追憶の内的苦渋を抱えながら、ただ流れに逆らわない人生を達観した人間の精神の在り方を厳格に描く。これを39歳のベルイマンが、その年齢で既に深く関心を抱き制作した達観さと老成に驚嘆する。凡人には計り知れない密度の濃い経歴を蓄積した上でなければ表現できない映像作品。
エピソードの中で最も興味深いのは、主人公が息子の妻の運転で移動する道中で拾った3人の若者たちとの関わりあい方である。女性一人の男性二人の三角関係を窺わせる自由恋愛の価値観にある若い世代と衝突する訳ではない。老博士は学問への執着からか、俗世間から離れ孤独な生活を送る身であっても、突然の若者との会話で戸惑うことなく逆に善き聞き手になっている。老博士の若者を見る姿勢は優しく、また若者たちも自由奔放ながら礼節を持ち敬仰している。この出会った日の夜の別れの場面が素晴らしい。
博士は、自分を取り巻く環境に操られることなく堅固として自己の良心を貫き通してきたのだろう。その内面は悩み苦しむことがあっても、肉体的にはどうこうされるものではなかった。自分が置かれた、また作り上げたきた立場を噛みしめながら、夢の中では少年時代を懐かしく回顧し、亡き父や若き母の姿を表情健やかに眺めることが出来る。人生を全うする者の率直な感動がある。表面上冷たく静かなベルイマンの演出は少しも冷徹ではなく、人生を見通した微笑みに満ちている。
地位も名誉も得て、あらゆる俗世間からひとり孤高を持する老博士の豊かなるゆとりの精神。存在の哲学的理解を超えて、知力の全てに身を任せても、人との触れ合いに人間的な寛容さを備えた人格の内的世界を見事に描く。
1976年 5月9日 高田馬場パール坐
45年前の駄文を記憶を頼りに再録してみましたが、10代の感動をそのままにしたい気持ちでいます。いつか観直したら、己の人生の粗末さに打ちひしがれるようで怖いです。
50代にちょうどいい。
男性優位の社会慣習や男女問わない日常的な喫煙の一般化など、分かりやすい時代錯誤感を捨象してみれば、今見てもとっても新鮮な老人ファンタジー。シュールだけどリアル。夢と現実の交錯という映画的技法が素直に楽しめた。
個人的にはベテランの住み込み女中さん(あー、これも今はPC的にアウトな言い方かな)のチャーミングなセリフと仕草が大好きだった。若いときに見ても、誰にも感情移入できなかったかもしれないな。
今、生誕100周年でありがとう、ベルイマン。
人生の終わりにしみじみ
小津安二郎監督と通じる語り口
功なり名も遂げた老人
しかし晩年は寂しいものだ
振り返ってみればこうすれば良かったと反省することもある
それだけの話だ
それを上手い構成でロードムービーとして構成してみせる手腕は見事
淡々としみじみながら全く飽きさせない
正直、見ている途中は退屈だった。 爺さんの人生回想されてもなあ(笑...
正直、見ている途中は退屈だった。
爺さんの人生回想されてもなあ(笑)
それにこれは私の苦手な、「何が言いたいのか分かるかい」系の上から目線映画とも感じた。
最後は幸福感に包まれようやく良かったと思えた。後、若者の無邪気な爽やかさも良かった。
鑑賞後ネットの様々な解説を読んで、すごい作品だったんだと気付かされました。皆さん、深いところまで味わっているんですね。ほんと私はまだまだです。
人生晩年にもう一度見よう。呆けてますます本作の良さが分からなくなってるような気がする(笑)
ベルイマンらしい分り辛さ
総合55点 ( ストーリー:60点|キャスト:65点|演出:60点|ビジュアル:60点|音楽:65点 )
社会的に成功している医者が急に夢を見る。何故今更彼はこんな夢を見るのか。
彼の体験するようなことはこの日ではなくても普通に起きていたのだろうが、彼自身がそれをあえて気にもせずに無視していただけではないかと思う。年老いて死を意識して初めて知った自分の不安と孤独という現状が、他人に無関心な彼の観る景色と人に関する意識を変え彼自身も変える。自分の意識の変化が観るものを変えているのである。
でもベルイマン監督らしい抽象的な描き方で相変わらず分り辛い。夢と現実が交じり合ってはっきりしない。感覚で感じとるのだろうが、彼の演出にはどうも素直にのめりこめない部分がある。たった半日の小さなことの積み重ねでの変化というのにもそれほど惹きつけられなかった。
しみじみとした希望
とんだガンコ爺さんが主人公ですが、乾いたタッチでユーモアもあり面白かったです。
人生の成功者である老教授が、その証である授賞式に向かう途中、自分の過去と改めて向き合っていきます。
イングマール・ベルイマン監督、1957年の作品です。
大昔にTVで観たことがあるらしく、冒頭のシーンと終盤の絵画のような美しい光景にはハッキリ記憶がありました。
ストーリーはサッパリ忘れてましたが、それだけのインパクトのある映像です。
心の底に沈んでいた過去に触れながらの、老教授の小旅行の行く先は…。
誰だって新しい今日を生きているのです。
歳を重ねて改めて出会い、しみじみとした希望を受け取りました。
人生の最後に自分人生に価値が無かったと思い知らされる恐怖
人間は誰もが『価値がある人生』を送ってその一生を終えたいと思っている。
それは『自分の育てた家族』であったり『社会に対する貢献』であったり『常人では成し遂げられない偉業』であったり、その形は人それぞれではあるが『価値ある人生』とは一夕一朝で成せるものではない
それを成し遂げる為の階段を毎日一段一段登ってゆく地道な日々の積み重ねなのだ。
努力を重ね、成長と反省を繰り返し、日々の積み重ねを成し遂げた者だけが『価値ある人生』を終える事ができる。
しかし、人生が終盤に近づき自分の人生を振り返った時、今まで積み重ねた日々が『間違っていた』『勘違いしていた』ことに気付いてしまったとしたらどうだろう?
それに勝る絶望は無いのではないだろうか。
立派に成長し、自分の事を尊敬してくれていると思いこんでいた子供の愛情が実は勘違いだった…
共に人生を過ごした愛すべき伴侶から本当は愛されていなかった…
この映画は人生の黄昏に差し掛かった老人が何十年と信じ続けてきた『自分の人生の価値』が本当はハリボテのイミテーションであったと思い知らされる地獄巡りの旅を描いた映画です。
傲慢の罪に対する罰は『孤独』恐ろしい、恐ろしい、物語…
しかし、この映画は絶望だけでは無く最後に微かな希望を残して終わります。
人生、『もう間に合わ無い』なんて事は無い、これから、今すぐにでも自分の生き方を見つめ直し、他人の為に『すべき事を成せ』
時間を戻すことは出来ないけれど、自分のあるがままを受け入れてゆく事はできる
そうすれば笑って人生を終える事もできるんじゃないか?
…僕にはこの映画がそう呟いているように感じました。
スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマンの1957年製作の作品ですが、そのメッセージ性は古びる事なく、今も人の価値観を揺さぶる名作だと思います、お薦めです!
あのSF作品の元ネタがこんなところに
回想、夢、旅の途中で出会う人々。三つの次元で老人の物語が語られる。
最初の夢のシーンの印象は強烈。誰もいない街路に、樹木と街灯の影が横たわっている。そのうち街灯の影はカメラが動いても形や長さを変えない。これは街灯に陽が当たって形作られた陰ではなく、実際にはセットの書割に描かれた絵である。この効果は大きく、モノクロの映像で非現実的な雰囲気を出すことに貢献している。
また、ラストの授賞式のシークエンス。荘厳なファンファーレが鳴り響き、ホールに厳粛な雰囲気が満ちる。主人公を囲む人々の晴れやかな表情。老人がおのれの人生への評価を、否定的なものから変化させていくシーン。似たようなシーンを30年後の作品で観た。ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」第一作のラストの元ネタは恐らくこの授賞式であろう。
21世紀に入っても、映画が描く人間には大きな変化はない。探せばもっとほかにも元ネタがあるのかも知れないが、そんなことよりも、ベルイマンの描く人間の姿を凝視したい。
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