長い灰色の線のレビュー・感想・評価
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必要がないときには役者にはしゃべらせるな(フォード監督の教え)
ニューヨーク州ウエストポイント陸軍士官学校に50年の長きにわたり勤務し、学校関係者や多くの士官候補生から敬愛された陸軍曹長マーティン・マーハー・ジュニア(1876年~1961年)の自伝『Bringing Up the brass』(1951年)を、ジョン・フォード監督が映画化した郷愁と人間愛に溢れた軍隊映画。フォード監督としては、アイルランドノスタルジーの名作「静かなる男」(1952年)と西部劇の代表作「捜索者」(1956年)の間に位置し、戦闘シーンのないコメディタッチが特徴です。この時60歳の巨匠の威厳と余裕ある落ち着きが、後半しみじみとした境地で閉める滋味深い映画でもあります。
マーティン・マーハーが20歳で学校の食堂の給仕職に就き、2年後陸軍に入隊してアスレチックトレーナーとして水泳教官を30年務め上げた史実を上司キーラー大尉と共にコミカルに描いて、同じくアイルランド移民のメアリーとの出会いでは、お互いに好意を持ちながら素直に打ち解けないもどかしさを、タイロン・パワーとモーリン・オハラが微笑ましく演じています。2人の新居にアイルランドの父と弟を呼び寄せるシーンでは、マーティに内緒にしていたメアリーがドアを開くと、パイプに火を付けようとするマーティの動きが止まります。既にテーブルで食事をしている父と弟が可笑しい。このマーティの父役が「わが谷は緑なりき」の名優ドナルド・クリスプ。モーリン・オハラは実の娘役から、この映画では義理の娘役になっていて「わが谷は緑なりき」を彷彿とさせます。マッチを持ったマーティの手が止まることで、驚きを演出するフォードタッチ。「わが谷は緑なりき」では真っ暗な部屋のランプにウオルター・ピジョンが明かりを付けると、座って待っていたモーリン・オハラが現れる驚きにピジョンの手が止まりました。この作品ではドアが開いてマーティが感無量になるサプライズシーンが印象的です。その名シーンが、長男出産の安堵に自宅に帰ったマーティに、隣の部屋から聴こえる士官候補生が歌うコーラス場面。後に大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー、アメフトの名手チャールズ・ドットソン、学業の援助を受けるジェームズ・サンドストローム、そして好青年のアブナー・オーバートン他が、マーティを讃える歌を捧げ、マーティ3世へ軍刀のプレゼントをします。キーラー少佐夫妻とキャサリン・カーターも奥から現れてお祝いのパーティーとなり、ここで父役クリスプが歌を披露する何とも幸福感に溢れたシーン。ドナルド・クリスプは24歳でイギリスからアメリカに移住し、その移民船で歌の才能を買われたのを契機に30歳の時D・W・グリフィスと共にハリウッドに渡った映画黎明期の一人。「国民の創生」「散り行く花」に出演した他に、監督も務めた伝説の映画人でした。若い頃フィルムセンターで「散り行く花」の残忍な悪役を見た時は、その後の役柄とのギャップに大変驚かされた記憶があります。この長男誕生の喜びから一転しての描写にもフォード監督の演出美があり、見事です。突然な子供の死から哀しみのどん底に耐えきれず酒場で気落ちしたマーティを迎えにきた士官候補生の5名。軍規を犯してマーティに寄り添う彼らの覚悟とその思いを知るのは、翌日校庭で罰則の担え銃行進に遭遇するマーティの表情に現れています。余計な台詞のない人物の動きで、その心理や感情を表現する映画の特質を知り尽くしたフォード監督。マーティたちが酒場を出ていくカットでは、父のクリスプが静かに後を付いて行きます。マーティがその酒場に居ると推察した父と候補生たちがどんな会話をしてその場に臨んだかは、観る者の想像に任せる。ここに映画の神髄があるのです。
マーティ親子が勝敗にお金を賭けるユーモアたっぷりなアメリカンフットボール試合は、1913年の対ノートルダム大学との史実を再現し、アイゼンハワーやチャールズ・ドットソンが卒業生となるのが1915年。続いて1917年にはキャサリンと結婚したジェームズ・サンドストロームとアブナー・オーバートンの第一次世界大戦参戦への出兵をウエストポイント駅で見送ります。シネマスコープを生かしたカメラワークの美しさ。翌年1918年の11月に休戦を迎える前の3月、教え子オーバートンの戦死を知り、卒業アルバムの写真ページに黒いリボンをかけるシーンがいい。偶然見てしまったメアリーの想いも加わる哀悼の悲しさ。そして休戦の歓喜も束の間サンドストロームの戦死を知るマーティ夫妻は、ニューヨークのキャサリン親子に会いに行きます。生まれたばかりの男子の遺児に議員が士官学校の入学資格を優先的に許可するのが一般的な事なのかは、知って驚くマーティからは判断できません。儀礼的なお悔やみの手紙でも、夫を亡くしたばかりのキャサリンにとって答えを出すのは残酷です。“職業軍人は死ぬように訓練される”という彼女の言葉とマーティの“任務を遂行する訓練だ”の返しは、どちらも成立します。それでも子供を軍人にしたかったマーティ夫妻の話から、夫ジェームズがどう考えていたかに思いを馳せるキャサリンの愛情深さもあり、もう一度ウエストポイントに戻る4人。泣きだすサンドストローム・ジュニアに続くカットが、一気に20年経過した第二次世界大戦前夜1938年の士官学校入学式のシーンでした。1896年から第一次世界大戦までをマーティとメアリーの夫婦愛で描き、後半の最期は父親のように振る舞うマーティとサンドストローム・ジュニアの師弟愛で物語を閉めます。それでも衰弱したメアリーの最期を看取るマーティとの静かなシーンは美しく、撮影当時34歳だったモーリン・オハラの老け役も自然でした。男やもめになったマーティがひとり寂しくクリスマスを迎える追憶最後のエピソードがまた素晴らしい。候補生がアメフトの歴代ベストメンバーを新聞に載せるインタビューを口実に訪れ、食事の世話をして一緒にクリスマスを祝うのです。そこへ太平洋戦争で負傷したサンドストローム・ジュニアが帰還する。候補生の時結婚を誓い籍を入れたものの、婚約者の親の反対で破棄となり、士官学校の規律違反を犯してしまったサンドストローム・ジュニアは、自ら退学し一兵卒として志願していました。卒業までの規律にプライベートなことまである陸軍士官学校の厳しさ。でも大尉に昇進し、マーティに階級章を付けて貰いたいと持参するサンドストローム・ジュニアの感謝と優しさの心が伝わります。キャサリンのピアノ伴奏でみんなが捧げるマーティ・マーの歌。「わが谷は緑なりき」でも感動的な歌うシーンが多く、ジョン・フォード監督の得意とする演出です。1946年の70歳の時、軍関係の仕事を退職したマーティン・マーですが、1961年に亡くなるまでウエストポイントから離れることは無かったのでしょう。アイゼンハワー大統領の就任期間は1953年から1961年ですから、ホワイトハウスから強制的にウエストポイント陸軍士官学校に護送されるユーモア溢れるラストは創作と思われます。全候補生がマーティ・マーの曲で行進するシーンで感無量となるマーティが想い起こす亡くなった人たちのモンタージュ。舞台のカーテンコールのようなこのフォードタッチも心に染みます。
タイロン・パワーは1958年に44歳で早逝しましたが、フォード演出で人気に見合った演技力を遺しました。この後の「愛情物語」と遺作「情婦」が代表作に挙げられますが、この20歳から70歳まで演じたマーティ・マー役も素晴らしいと、今回改めて見直しました。モーリン・オハラとドナルド・クリスプは、1963年の「スペンサーの山」で同じ間柄の役で共演しています。息子で夫役がヘンリー・フォンダでした。キーラー少佐役のワード・ボンドは31歳の時「或る夜の出来事」でバスの運転手を演じ、多くのフォード作品に出演、私の大好きな脇役の一人です。サンドストローム・ジュニアのロバート・フランシスは正統派二枚目俳優として将来を嘱望されていましたが、公開の1955年飛行機事故で亡くなっています。ジェームズ・ディーンの事故の二か月前でした。代表作にハンフリー・ボガートと共演した「ケイン号の叛乱」があります。今回驚いたのはジョン・ウェインの息子パトリック・ウェインのアブナー・オーバートン役でした。父親似の体格の良さで16歳ながら抜擢されたのでしょうが、まだ幼さが残る顔に愛嬌もあってアブナー役を好演しています。そして恋敵とライバルのルドルフ・ハインツ伍長役でテレビドラマ『スパイ大作戦』のピーター・グレイブスがキャスティングされていました。
騎兵隊や軍隊を肯定的に描いたジョン・フォード監督についてタカ派の印象を持つ人もいると思われますが、それら規律のある組織の中に家族的なつながりを描くフォード監督は、けして戦争を支持していた訳ではありません。これを証明するエピソードとして、ロバート・パリッシュという映画人の書いた『わがハリウッド年代記』から引用させて頂きます。私がフォード監督を敬愛する理由の一つでもあります。
太平洋戦争開戦でフォードはCIAの前身である軍の戦略事務所(OSS)の写真報道部長の少佐に任命されます。対日本戦の転換点となったミッドウェー海戦(1942年6月)で8缶の16ミリ・カラーフィルムを撮影しました。これを20分の記録映画に編集するのに、プロパガンダ映画にしますかとパリッシュが尋ねると、フォードは強い嫌悪感を示し、(アメリカの母親に見せる映画。母親たちに自分の息子がどれほど勇敢に戦っているかを知らせてやりたい)と答えます。ヘンリー・フォンダやジェーン・ダーウェル、そしてドナルド・クリスプなどにナレーションを依頼し、ふたりの脚本家(一人はダドリー・ニコルズ)と音楽はアルフレッド・ニューマンと短い期間に集中した編集作業を強行します。同時に極秘で編集するため軍にフィルムを渡さない苦労もありました。パリッシュは海戦勝利の立役者を競う四軍(陸海空に海兵隊)のバランスを取り、均等にフィルムを編集します。そこで、海兵隊の部分で5フィートのフィルムが足りないことをフォード監督に告げると、大統領の子息であるジェイムズ・ローズヴェルト海兵隊少佐のクロースアップのフィルムを取り出しました。フォードは事前にミッドウェー島で撮影していたのです。戦死したアメリカの若い兵たちの水葬シーンの海軍大佐や空軍大佐のアップと並べてはめこんでおけと命じます。しかし、サウンドトラックも済んでいた為、3と3分の1秒無音になると告げますが、フォードは丁度いい観客に考えさせる時間が出来るといいました。極秘が発覚して押収される一日前に、何とか初号プリントがワシントンに運ばれます。
その日ホワイトハウスでローズヴェルト大統領夫妻、海軍大将始め統合参謀本部の軍人たちと試写をしました。大統領は映写中話し続けていましたが、自分の息子の無音のクロースアップが映ると話すのをやめ、ミッドウェー海戦に散った勇者たちの水葬の儀式に敬礼をしました。その瞬間から最後まで2分21秒観客たちは沈黙しました。照明がともるとローズヴェルト夫人は泣いていました。大統領はリーヒー海軍大将に向って、アメリカの母親すべてにこの映画を見せたいと語りました。
この18分の記録映画は、1942年のアカデミー賞の最優秀短編作品賞を受賞します。戦時下で実際に撮られた戦争の実態は、今と違って衝撃的だったでしょう。しかし、フォード監督にとってアカデミー賞の名誉は眼中になかったと思います。戦争の残酷さを戦勝国は忘れがちです。国の為に命を捧げた若い兵士には、父親も母親もいます。父親は第一次世界大戦などで戦争を知っています。だからこの作品で母親に観てもらいたかった。その為に創作されたフォードの反戦映画なのです。戦場に行かない戦争を始めたローズヴェルト大統領に対するフォード監督のメッセージ。夫人の涙は、アメリカの母親の代表になったのです。ローズヴェルト大統領は、息子が水葬の戦艦にいたとは思っていません。それを承知の敬礼だったでしょう。
このエピソードを知って、もう一度観て欲しい
「自信とタイミング、リラックスと呼吸」
50年勤めた陸軍士官学校から退職勧告を出され、撤回のために大統領と面会するマーティ。その50年を振り返る。アイルランド移民の彼は、まず給仕として陸軍士官学校に勤める。やがて入隊し士官学校の体育教官に。上官の家の女中メアリーと結婚、二度の大戦、教え子や愛する人との別れ。
学校の制服の色が灰色。序盤は若さゆえのコミカルな展開。その後息子の死もあって、教え子たちに息子のように接するマーティとメアリー。出来の悪かった教え子の戦死、その息子の入校と朗らかで感動的な物語でした。好きな作品「陽のあたる教室」を思い出しました。
グレーの制服での分列行進の様
ウェスト・ポイント陸軍士官学校は1802年創立の由緒ある兵学校、主人公のマーティ ・マー(タイロン・パワー)はアイルランドからの移民で20才で給仕見習いとしてウェスト・ポイントに入りました、体育教官のケーラー大尉に喧嘩の腕を買われ助手に昇格、50年にわたり体育教官として学生の指導にあたりました。彼の伝記をもとにした実話ベースですが家族関係などは脚色だそうです。
熱狂的なファンのいるアメフトのエピソードを絡める辺りはお見事、名門ノートルダム大学にロングパスで大敗するエピソードは秀逸でした。
特に熱血教師と言う訳でもなく挫折の度に退役を口にしますが家族の説得で思いとどまります。
根っからの軍人ではないのでざっくばらん、若者たちのよき相談相手でもあり皆に慕われ最後の引退時には生徒全員での分列行進の栄誉を受けました、制服が火薬の色からとった灰色だったのでタイトルの「長い灰色の線」はこの行進の様を表しています。
西部劇の神様と言われたジョン・フォード監督ですが「我が谷は緑なりき」などヒューマンドラマでも繊細な人物描写には定評があります、ウェスト・ポイントの学長でもなく地味な一介の体育教官の半生にスポットをあてて、二つの大戦にまたがる苦難の時代を描いています。
教え子でもあったアイゼンハワー大統領に回想を語る設定ですが、話が地味なので盛ってみたのでしょう。日本の若者には馴染みのない米国の士官学校が舞台の昔の映画なので退屈かも知れませんがジョン・フォード監督の名作の一つであることは間違いありませんね。
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