トラベラーのレビュー・感想・評価
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傑作ですな
血の通った、いきいきとした作品で、映画を観ているということを忘れてしまうくらい素晴らしかった。 まず、映像がひじょうに魅力的である。一つひとつのシーン、一つひとつのカットがとても力強い。 まるで往年の名写真家が撮影したような、深みのあるしっかりとした画(え)の連続によって、この映画は構成されている。 その映像からは、異国の空気がリアルに感じられるような気がした。 それから、情報量を絞ったモノクロームの映像で表現することにより、本作の推進力になっている少年の欲望や好奇心がよりダイナミックにストレートに伝わってくるようにも感じた。 そして、主演のハッサン・ダラビ。 名立たる俳優がふっ飛んでしまうような見事な演技! 映画の魔法にかかり、知らぬ間に僕はあの悪ガキとともに「トラベラー」になっていたのだった。 ところで、この教訓的な物語の根底には、やはりイスラムという宗教が影響しているのかな? 追記 なんで「ALLTIME BEST」に選ばれてないのかな?
近さと遠さのなかで
監督の処女長編ということで、後年の代表作と比べるとスタンダードな映像表現が多い。アッバス・キアロスタミもモンタージュとかやるんだ…と妙に感心してしまった。 しかしそんな中でもハッとするような唯一無二のショットがいくつもある。主人公の悪ガキ2人が壊れたカメラで学校や近所の人々を撮っていくところなんかごく普通の人が次から次へと映し出されていくだけなのに、迫り来る生の躍動感に圧倒された。悪ガキの心に後ろめたさを投げかけるものとしてはこの上なく説得力があったように思う。 それから試合の終わってしまったサッカースタジアムを悪ガキが途方に暮れながら歩いていくシーン。そしてそれを俯瞰で捉えるカメラ。しかし完全に突き放すわけでもなく、悪ガキの動きに合わせてほんの少しだけ画角が調整される。この距離感がいい。 アッバス・キアロスタミが撮り上げる子供はちゃんと子供に見える。それは子供に近づきすぎもしなければ遠ざかりすぎもしていないからだと思う。近すぎれば過度に感傷的なホームビデオになるし、遠すぎれば監視カメラの録画映像と見分けがつかない。確かなバランス感覚がないといけない。 思えば小津安二郎の『お早よう』も卓越したバランス感覚があった。しきりにテレビを欲しがる兄弟の姿は、親からしてみれば鬱陶しくて仕方がない。あるいは全くの他人からしてみれば路傍の石ほどどうでもいい。だから小津はその中間を狙い澄ます。テレビを欲しがる兄弟を遠巻きに笑いながら、一方で彼らの切実さに思いを馳せるような、絶妙な地点を探り当てる。 本作も同様だ。悪ガキの反社会的な行動は、親教師からしてみれば不愉快この上ないが、一方で「何としてもサッカーの試合を生で見たい」という彼の心境も理解できる。そういうどっちつかずのシーソーゲームに観客もろとも巻き込んでしまう技量がアッバス・キアロスタミにはある。
逞しさと危険性
特別な環境にあるわけではない一人のこどもの、一つのエピソードを映画にしているだけだけれど、シンプルながらユニークだし考えさせられる面もあり、忘れられない映画になるかもしれない。 とても丁寧に描いてあるので、観ているうちにこの子の心理に没頭してしまう。 「そんなことしたらヤバイよ」と言ってやりたい気持ちは最後まで付きまとうけど、「がんばるね、なかなかやるじゃん」という応援したいような気持ちもいつのまにか芽生えてしまう。 憧れていることをどうしてもやってみたいという気持ちや秘密の冒険をしたい気持ちは自分のこども時代にも覚えがあるので共感してしまう面もある。それに、彼は何しろホントによく粘って、なかなか頑張る。だから、つい「成功を祈る」的な気分になってしまう。 この子は欲求がとても強い。大人になって犯罪に手を染めかねないかと少し心配にはなる。と、同時に凄く頭のいいビッグな成功をおさめる大人になるんのでは?という可能性も感じる。 逞しさと危険は紙一重だなぁ、と。 無意識に子供のことに無頓着になっていた母親と、子どもに口出しをしないと決めているらしい父親(この父親はもしかしてとても思慮深い?またはその反対?)という家庭環境は、この子の人生の可能性を限りなく広げてるように見える。 『無頓着』がもたらすものは悪いことばかりではない… 映画の最後は、反省や仕出かした事の後始末への恐怖の夢でおわるけれど、それはどうなんだろう、この映画がもたらす社会への影響を考慮したのか…。 この子を<危険>に陥る可能性から守り、好ましい方向に導く何かが必要なのはわかるけれど、教訓的に終わるのは少し残念で、もう少し違う形だと面白かったのにな、とチラリとおもう。 かといって、具体案は思い浮かばないけど…
【故、アッバス・キアロスタミ監督のその後の作品群の製作姿勢の根底が見える作品。】
ー 故、アッバス・キアロスタミ監督の「桜桃の味」を鑑賞し、人生に対する肯定的なメッセージに、薫陶を受けた。 その後、数週間の間に「友だちのうちはどこ?」以降のグネグネ三作を鑑賞し、 ”こんなにすごい監督がイランにいたんだ!” と驚愕しつつ、配信でその後の作品も鑑賞。(流石に寝不足です・・。) 今作は、映画が、ワールドワイドな芸術作品であるという当たり前のことを、再認識させられた監督の初期作品である。 ◆感想 ・ストーリーはシンプルで、サッカーが大好き少年が、田舎からテヘランで行われるサッカーの試合をイロイロと、少年ながらのズルをしながらも鑑賞しに行く過程を描いている。 ・実存主義的色合いを、随所に織り込ながらも、自らの”サッカーを観たい!”と言う欲求を満たすために行動する、落第生の少年の自然な欲求の発露を、自然に描き出すアッバス・キアロスタミ監督の手腕に唸る。 <大袈裟ではあるが、映画に魅入られた全世界の映画人の、私が生を受ける前から製作した諸作品を観る事は、愉しすぎる。 これだから、映画を観る事は止められない・・、と思うのである。 一言:私は決して、シネフィルではない。 世の中には、想像を超えるシネフィルの方々が多数、存在する。 当たり前であるが、映画とは、読書、ロックと並んで蠱惑的な、不変の文化なのである、という事をこの作品を観て再認識した。>
amoral
悪ガキだ。母親のつけているブレスレットにまで、目がいって、それを売ってテヘラン行きの費用にしようと。父親が母親にあげたお金までとって、取らないと言う。手に何度も鞭を打たれても嘘を突き通す。壊れたカメラで写真を撮ってあげると言って小銭を稼ぐ。悪ガキ、ガセン(Hassan Darabi)の友達はモラルがあって、困った顔して、ガセンを見つめる。 こんな悪ガキが昔いたような気がする。しかし、この成長期に悪ガキでも、まともな人間になっていくんだよね。このゆっくりとした人間成長の過程がみられる社会がイランだけではなく、日本にもあった。善悪を知らない子供でも、家族が教えられなくても、学校が、社会、宗教が教えて、悪ガキがそうでなくなっていく。これこそが、辛辣や歓喜をまなべる人間成長過程なんだけど。 今ならきっと、ガセンの数々の行為が警察沙汰になってしまうかも。 社会があまりにも早く動きすぎるし、寛容性を失って白黒つけたがるから。 このガキは現代社会から見ると、『将来犯罪者になるね』となると。でも、そこに街角の老人が出てきて、『許してやれよ』と。そして、老人が悪ガキに善悪を諭す。失敗や間違いは人生の終わりでなく、人生のはじまりだという概念を与えられる人がいる。 いやいや、それにしてもこのガキはよくも次次と悪知恵が働くし動き回る。好奇心の塊で感心した。イランのガセンの住んでいるマレイヤーMalayer からテヘランまでバスの中で一睡もしてなかったようだった。球場に入るまで悪戦苦闘でも、その後、 大人の真似してちょっと横になったが、うっかり長寝してしまった。夢に、自分のしたことの因果応報が出てくる。この監督、キアロスタミは私を飽きさせない。最高のシーンだね。そして、試合はすでに、、、、、、 こんな悪ガキが大人になりながら、善悪を学んでいく。この悪ガキが気に入った。 千九百七十四年の映画で、シャーの時代だったから、ホメイニの時代と違ってモスリム 色が強くない。人々の服装でもわかると思う。モスリム 教は善悪がはっきりしている宗教で、学校でも教義が中心だが、シャーの時代は科学の授業で心臓の働きを勉強しているんだなと。このシーンと校長先生がガセンの掌に鞭打ちして、ガセンがお金はお金をとっていないと叫んでるシーンの兼ね合いで監督の裁量がうかがえる。科学的な心臓の働きと、ガセンの心の問題が、血液を送り出したり取り入れたりしている音に、ムチを打つ音/受ける動揺が重なり合っていると思う。
不思議な緊緊張感と途轍もない絶望感
アイロニーというべきか苦笑いの連続で、狡猾な企みにまんまと乗せられ最後まで見てしまったけれど、終わりの絶望感たるや想像を絶するようなところもあり、気持ちのいい作品ではない。 映像は力強く鮮明だった。
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