田園詩のレビュー・感想・評価
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何故か記憶に残る
昔「落葉」を岩波ホールで鑑賞したことがあるのですが、そのときは終始たんたんとした展開だったためか、半分くらい寝てしまった遠い記憶があります。でも何か画面に漂う温かな雰囲気のようなものや、ときおりはっとするような美しいショットもあったためか、記憶に残る作品となってました。で、今回オタール・イオセリアーニ監督、私にとって二作目の鑑賞です。
沢山の牛、夜明けとともにけたたましい声で鳴く鶏、コルホーズの集団農場に向かうトラックの荷台に芋洗い状態で乗る家族や村の仲間、宴会で酒が入ってつまらない理由で「侮辱した」とどなりちらす男の声、急な土砂降りで沢山の布団を取り込む女達の明るい声、少女と楽団の若者たちとのゲーム遊び、少し音の外れたピアノ連弾遊びではじける笑い声、そして楽団の奏でるバロック音楽の響き。
それらの音や映像が、少女の一夏の少し切ない感情を帯びた心象風景の一部となって、やはり今回も脳裏に焼き付いています。
自身の作品を、映画ではなくシネマト・グラフと呼んだロベール・ブレッソン同様、ひとつひとつの画面が、一枚の優れた写真のように美しい画面になっているように思いましたが、鋭利な刃物のような切れ味のある禁欲的なブレッソンの作品とは対照的に、どこか滑稽なおかしみをたたえていて、そこがまた良い味わいなのだと思いました。
「音楽」と「笑い」に彩られた、ジョージア(グルジア)の農村部の日常を描く田園叙情詩。
家の飲んだくれ亭主が誰かに似てると思ったら・・・・・・深見東州だ!!(笑)
バロック系のカルテットが、ジョージアの片田舎の農家でホームステイする。
彼らが滞在したひと夏(体感、一週間くらい?)の様子を、セミドキュメンタリータッチで描き出すモノクロ作品。配給側の言い方としては、「叙情詩」と銘打っている。
まだイオセリアーニがジョージアにいたころの初期作だが、すでに画面の奥行きは深く、カメラワークには確信がみなぎる。意味のとれないような日常のやりとりも含めて、登場人物たちの放つちょっとした言葉を拾い続けるスタイルも、セミドキュメンタリー的な空気感に大いに寄与している。
村の何気ない日常を淡々と綴っていくなかで、活写される農民たちの生き生きとした生活ぶり。
殊更何が起きるというわけではなく、多少喧嘩したり、宴会をやったり、雨が降ったりするだけの話なのだが、ジョージア辺境の文化・宗教・習俗に関する情報量は濃い。
なんかすげー懐かしい感じがするんだよね。日本人の僕から見ても。
土の道。埃まみれのバス。おんぼろの軽トラ。
荷台にぎゅう詰めで乗って移動する老若男女。
道をうろつく豚、牛、ニワトリ、ヒツジといった家畜の群れ。
道端でたむろしてスケにちょっかいを出すかっぺ青年団。
ワカメちゃんパンツの少女。後をついてくるガキども。
酒場で飲んだくれてるオッサンたちと老人。
ああ、これってまんま昭和の日本の農村部でもあった光景だよなあ。
ほんとに、そんなに空気感も変わらない。髪黒い人も多いし。
(トークショーのゲストいわく、「ジョージアは西洋と東洋のはざまの国」らしい。)
まあ、昭和の日本に絶対存在しなかったのは、エドゥキちゃんの長すぎるおみ脚くらいか。
エドゥキちゃん、個性的な美少女だけど、なんと役者はイオセリアーニの一人娘さんらしい。
でも、決定的に違うこともある。
村民がおんぼろトラックで出向いていく農地は、コルホーズ(集団農場)。
そう、ここはジョージアというか、グルジア。
彼らはこのとき、ソビエト共産党の支配下に置かれているのだ。
牧歌的な農村風景に見えて、ここは巨大な社会主義実験場でもあるというわけだ。
イオセリアーニは反帝国主義者だが、共産党万歳かというとまるきり正反対で、農民を威圧し束縛し画一的な土地整備&農地政策を行う彼らのやり方には、はっきりと否定的な描写をつきつけている。
イオセリアーニはあくまで、「土着のジョージア」を愛しているのだ。
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それと、もともとイオセリアーニは大学の作曲科で優秀な成績を収めていただけあって、音楽の使い方にはかなりのこだわりがある。
本作でも、チェンバロとチェロ2ヴァイオリン1のカルテット(かなり珍しい構成だが、バロックでは一般的なのだろうか?)が登場し、何かの曲をずっとさらっている。
(バッハ? 練習中には既知のバッハの楽曲が何度か演奏されるので、これもそうかというだけだが、もしかするとテレマンとかかもしれない)
彼らの音楽は、いわゆるアカデミズム側の音楽であり、西洋音楽を象徴するものだ。
もちろん対比されるのは、ジョージア土着の音楽、すなわち「ポリフォニー」(多声合唱)ということになる。
村の人間の大半は、彼らを物珍しそうに扱うが、楽団の奏でる音楽にはそこまで関心を示さない。
だが、農家の娘エドゥキちゃんは、4人が「チューニング」する姿にぐっと惹きつけられる。
そういえば雨の日に、カルテットの友人で一緒に投宿している女性とエドゥキちゃんがピアノの連弾をするシーンがあったが、こちらのピアノの調弦はまあ酷いものだった。音程狂いまくりの自分たちの音を聴いて、ふたりは突っ伏して笑い転げる。
それと、手回しレコードプレイヤーを使って、家で放置されているレコードをいろいろかけるシーンや、カルテットが村を後にしてからエドゥキちゃんがもう一度プレイヤーをいじるシーンなどでも、回転数によって「音程が上下する」様が強調される。
すなわちこの映画では、「調弦する」「音程を正しく合わせる」という行為自体が、西洋音楽と、アカデミックな「街」の音楽の象徴として扱われている。
エドゥキちゃんがそれに憧れの眼差しを向けるのは、彼女が楽団のチェリストの青年相手に淡い恋慕の情を覚えるのと、実は同根なのだ。
エドゥキちゃんが憧れる「村の外の文化と、それをまとった人」。
王道の西洋音楽が、作中で印象的に流れるシーンが、実はもう一カ所ある。
村に乗客を満載した汽車が通りかかり、それを農民たちが作業の手を止めて見送るシーンだ。
あそこで流れて来るのは、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の有名な二重唱『お手をどうぞ』だ(おそらくなら汽車の中からの音か。汽車が遠ざかるとともに音楽も遠ざかって消えるので)。
近年、反田恭平くんと小林愛実さんが出場して話題になったショパン・コンクールの優勝者ブルース・リウが本選で『「お手をどうぞ」の主題による変奏曲』を弾いたのは記憶に新しい。
実はこの『お手をどうぞ』というのは、「都会の貴族が村娘を誘惑して、館に誘い込もうとする」歌なのだ。
性豪貴族ドン・ジョヴァンニが、まさに農夫マゼットと結婚せんとしている村娘ツェルリーナを見初めて、「あそこの館で愉しもうじゃないか、さあ行こう」と誘い、ツェルリーナが「行くか行くまいか、心が揺れる」と返す歌。この二重奏には前口上の台詞があって、ドン・ジョヴァンニは彼女に「君は農夫の妻として人生を終えていいような女性じゃないよ」といいはなつ。
まさに、都会の文化満載で通りかかる汽車と見送る農民の対比にはピッタリの選曲ではないか。
(同じような「外から来る乗り物で西洋音楽が鳴っている」シーンは、バスが到着するシーンでも繰り返される。)
村の住人が西洋音楽に関しては「物珍しい」程度の興味しか示さないのに対して、カルテットのメンバーは、村民の奏でる「ポリフォニー」に興味深々である。
彼らは、歌を知っている村のお年寄りや奥さんに乞うて持ち歌を披露させ、それをカセットテープに収めて「採集」しようとする。おお、これってまさにブラームスやコダーイ、バルトークがやってた「民謡の採譜」ってやつじゃないか。西洋のアカデミックな音楽にとって、「土地の民族音楽」は常に最大の霊感源なのだ。
このシーンで老人が弾いている得体の知れない箱状の擦弦楽器(チュニリの一種??)も実に魅力的で、出だしの調弦から音の出し方まで、観ていて興味が尽きない。
他にも、雨の日にチェリストの青年がフォックストロットのレコードをかけて、バッハか何かで反復練習をしているもう一人の女性チェリストをキレさせるシーンや、村の愚連隊が爆音を鳴らして練習を妨害しようとするのを全力で阻止するエドゥキちゃんなど、音楽絡みの印象的なシーンは挙げだすと枚挙にいとまがない。イオセリアーニにとって、音楽は映画を構成する最重要要素のひとつだといえる。
そもそも『田園詩(パストラーレ)』というタイトル自体が、ベートーヴェンの交響曲第6番やピアノソナタ第15番でも知られるように、いわゆる「音楽用語」でもあるわけだ。
「パストラル」は、ヘレニズム期ギリシャに端を発し、ルネサンスにおいて復興された「詩歌」の伝統的形式であると同時に、たとえばジョルジョーネやクロード・ロラン、ニコラ・プッサンなどに代表される、アルカディア(理想郷)の田園風景を描く絵画史上の重要ジャンルでもある(いわゆる「田園風景画」「田園神話画」)。
さらに音楽における「パストラル」(パストラーレ)は、パンフルートなどを用いた牧歌的音楽に付される一般的呼称であると同時に、クリスマスと結び付けられたバグ・パイプ風の通奏低音を持つバロック音楽の総称でもある(これは、村落を訪れるのが「バロック」の四重奏団であることと無関係ではない)。
おそらくイオセリアーニは、この作品に「田園詩(パストラーレ)」というタイトルをつけることによって、アルカディアへの憧れを積み重ねてきた西洋におけるパストラーレの伝統と、ジョージアの農村地帯で育まれてきた数千年の土地の歴史を、重ね合わせてみたかったのだろう。
あるいは、ジョージアの片田舎こそが、彼にとっての理想のアルカディアということか。
街と農村、現代と過去。その対比の最もとっつきやすいフックとして、「音楽」は導入されている。
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「音楽」と同じくらい、イオセリアーニの世界で重要なのが、「笑い」の要素だ。
本作でも、後年の作品ほど明快ではないにせよ、随所に「笑い」の成分が含まれている。
とくに面白いのは、宴会や自宅で突如巻き起こる「喧嘩」のやりとりだ。
「酒をおごられたから」とか、「酒を飲んだから」とか、どうでもいい些細なことでガっとテンションをあげて罵倒し合う村人たち(そういやカルテットのリーダーも酒に呑まれて大概の絡み酒だったが)。
彼らが何かと「恥を知れ」とか「恥をかかされた」とか口にして、やたら「恥」にこだわっているのは興味深い。ジョージアもまた、タイプは違うのだろうが、日本と同様の「恥の文化」の国なのかもしれない。あと、深見東州顔の運転手が、家の表門をぶち壊して出ていくシーンでは、ちゃんと映画館内で「笑い」が起こっていた。
その他、村の用水の行先を、あぜを壊しては水路を作り変えることでいちいち変更している様子も結構おかしい。これ、日本だったら間違いなく樋や堰の「切り替えの仕掛け」を最初に作るところだよなあ(笑)。
あれ、そういや、日本でも「音楽」と「笑い」の重要性をいつもしきりに強調してる有名な宗教家がいましたよね?・・・・・・って、深見東州でした!(オチ担当)。
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映画終了後に、このあいだ閉館した岩波ホールに長年勤めて、ジョージア映画祭を開いてこられた方のトークショーがあった。30分に話が収まらずに苦労されていたが、ジョージアの成り立ちや苦難の歴史、文化的風土などについて詳細に語られていて、大変ためになった。
『田園詩』と関わる部分でいえば、ジョージア人の最大の誇りは「ワイン」であり、「ワイン」こそ彼らの「血」そのものだという話は特に重要だと思う(ジョージア人はキリスト教徒である)。
トビリシの街から来て早々、女が路上に放置した瓶を村民が拾うシーンや、村の雑貨商兼酒場でたむろする親父たちが、チェリストに駆けつけ一杯(→三杯)で酒を薦める(強要する)シーンも、きっとその文脈でこそ理解できるものなのだろう。
それから、南コーカサス地域では少数民族が残っていて、複数の言語が語られているという話も聞き逃せない。僕には残念ながら聴きわけられないが、この映画では二種類の言葉(ジョージア語と地方の言語)が語られていて、だからこそ村の古老にしゃべらせるときには、通訳みたいな人間が横についているわけだ(映画のパンフのほうでも、金子遊さんが「カルトヴェリ人とメグレル人の遭遇」という話を書いておられる)。
ジョージアの宴会では「タマダ」と呼ばれる仕切り役が任命されて、彼の指示にしたがって「儀礼的」な形で飲みが進行するという話も面白かった。「ジョージア人は全員が詩人。宴会前の前口上がめちゃくちゃうまい」とか、「僕が机の瓶を倒したら、『最近亡くなった●●がそのへんに来てるんだな』と言われたんですよ、ああジョージアの宴会は一年中、盆暮れで祖霊を迎えているようなところがあるんだなと思った」とか。
それとやっぱり、ジョージアは長い間、さまざまな周辺国から侵略され、踏みつけられてきた国だということ。ソ連崩壊後の90年代に独立した後も、今度は内戦で全てわやになるような壊滅的な被害が出たこと。だからこそ、彼らは必死で「ジョージアの文化」というものを再構成してきたということ。苦しい中でも、楽天性を喪わずにやってきた人たちであること。
そんな国だから、こういう監督さんが出て、こういう映画が撮られたんだろうな。
弁士の方の熱い語り口を聴きながら、そう思った。
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