「強烈フェロモン怪人Vs.ブルジョワジーww 突然走る! 叫ぶ! 浮く! 難解さを切り裂く素っ頓狂!」テオレマ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
強烈フェロモン怪人Vs.ブルジョワジーww 突然走る! 叫ぶ! 浮く! 難解さを切り裂く素っ頓狂!
パゾリーニは、なぜかこれまで観る機会がなかった。
『ソドムの市』と『豚小屋』くらいはさすがに観ておかないとまずいかなとは長年思いつつ、難解だとか共産主義者だとか聞くたびに恐れをなして、つい後回しにしていた。
今回、武蔵野館で『テオレマ』と『王女メディア』がかかるということで、こいつは良い機会だと参戦。
チラシに書かれたあらすじくらいしか知らない状態で観たので、(その政治的含意や宗教的隠喩の深遠さはさておき)こんなウルトラアホな話だとは思っても見ず、何度も爆笑してしまった。
出だしの左翼記者の演説とか、そのあとのBGMだけで延々展開されるセピア色の状況説明シーケンスの辺りは、意味が分からなさ過ぎて、「ああこれムダに難しいヤツや」とゲンナリしてたのだが……本編は、意想外なまでにおバカな艶笑譚でした。
てか、これ今だと難解な思想的映画に振り分けされてるけど、当時の感覚でいえば、ピエトロ・ジェルミとか初期のマルコ・フェレーリみたいな、イタリア艶笑映画や桃色リアリズモの伝統を引き継いだ(もしくは引き継いだうえで、異様な改変を施した)映画として観られてたんじゃないのかな?
要するに、ブルジョワ一家のところに電報が来て、若者をひとり滞在させることになるのだが、こいつが「いるだけで相手の性欲を猛烈に亢進させる」とんでもない超常能力者で、次々と家族4人と初老のメイドをコマしていくのだ。いや、ホントにそんな話なんですよ!
それも、もう横にいるだけで頭が煮えて、すべてをかなぐり捨てて襲い掛かるくらいの、猫まっしぐらな性欲増進マタタビ作用。最近エロ界隈で大はやりの催眠アプリものも真っ青の効果覿面ぶりだ。
少女がそういう体質という漫画はお恥ずかしながら何冊か持っているが、男性がってパターンもあるんだな。
正直言って、そこまでテレンス・スタンプがカリスマ的にセクシーだったり、フェロモン出しまくりだったり全然しないのがまた奇妙で、なんというか、こちらが試されている気がしてくる。
たしかに顔立ちは整っているし、瞳のブルーはきれいだけど、小男だし、威厳ないし、草食系だし、しょせん『コレクター』の変質者だし……。毎回、わざわざ大股開きで股間を強調して座らされてるところ見ると(これ、パゾリーニじきじきの演出らしい)、むしろこれ、パゾリーニに内心馬鹿にされてネタでキャスティングされてんのかな?とか、いや、同性愛者だったパゾリーニ(本人も小男だった)にとってはこのタイプがマジで琴線に触れるタイプだったのかな?とか、いろいろ考えてしまう。あるいは、そうは見えないのにモテまくるという部分にこそ、神の定理(テオレマ)とか、宗教的な神秘を読み解かないといけないのかな? こんなバカな話なのに? とか。
なんか彼が庭に現れただけで、いきなりメイドのババアが急に血相変えて走り出したりするわけですよ(笑)。どうしたのかと思ったら、部屋に戻ってメイク直したりして、またハアハア駆け戻ってきて、お願いしますから入れてくださいみたいな。
奥さんとか、もうとろとろになって、お外で全裸待機しちゃってるし。さすがは原爆女優!
ほぼ、ノリはモンティパイソン。小説でいえば、全盛期の筒井康隆とか。
彼の性的魅力の有効範囲は、女性にとどまらない。
なんと、男性まで見境なしで発情させてしまう。
最初の晩にいきなり、長男がまず辛抱たまらんようになって、ベッドで裸を覗き見とかしてて「ごめんなさい、ごめんなさい」とか言ってるうちに、慰めてくれた青年に優しく掘られてしまう。
お父さんなんて、突然訪れた強制的な「目覚め」に苦悩しすぎて、病に倒れちゃうくらい。でも、結局ボクシングごっことかしてじゃれてるうちに、お外でこちらも無事ヤラれてしまう。
お堅いファザコンの娘(『バルタザールどこへ行く』や『中国女』に出てたアンヌ・ヴィアゼムスキー)も、魔の吸引力には抗えず、自ら望んであたら花を散らす。
で、全員がお手付きになって、新たなる性癖に目覚め、新たなる自分を解放する決意を胸に、その自覚的な宣言を高らかに謳い上げた直後……また電報が来て、青年は家から去ってしまうことに。
いきなりの新展開。さあ大変だ。
数日過ごす間に、彼に肉体的にも精神的にも依存し、いざ新たな人生を始めんと興奮状態にあった5人から、いきなりハシゴがはずされてしまったわけで、皆さん訳も分からず惑乱するばかり。
「サれ家族」が玄関先に全員殺到して、仲良しプチブルの「家族の肖像」みたいにワンフレームに収まって青年を見送っているショットは、本作最高の笑わせポイントだ。
で、このあと、五人五様に「しゃぶ抜き」の如き壮絶な禁断症状が訪れる。
即効性と依存性の強い「ヤク」ほど、いざ打てなくなったときの離脱症状は強烈だ。
一番、適性を見せていたメイドのぶっとんだ覚醒ぶりが最強過ぎて度肝を抜かれるが(とくに浮いてるとこww)、どのエピソードも「突飛さ」と「唐突さ」と「キテレツさ」がずぬけていて、基本は観客を「笑わせにかかっている」としか思えない。小難しい話はそのあと、という感じだ。
もちろん、こうやって前半だけでもあらすじをまとめてみると、すげえ面白そうな映画に思えるが、実際には語り口は晦渋かつ難解で、理解の及ばないところも多い。
パンフレットの町山さんと四方田さんの素晴らしい解説を読んで初めて得心のいったところが、何カ所もある。まあ、日本人がこれを観て、このマタタビ青年が「旧約聖書」由来の奇跡をもたらす存在であり、家族は使徒とパラレルであり、父親の奇行は聖フランチェスコのエピソードに由来してるなんて、なかなか思いつかないよね(笑)。
ただ、「新たな性癖に強制的に目覚めさせられた人々のひとときの昂揚と、その後の苦難」をシニカルに描いたネタ映画として、見た目どおりに捉えて鑑賞しても、十分面白い映画だと僕は虚心に思う。
深遠な宗教的なテーマ性や社会的な風刺は読み解けなくても、たとえば、電車の終着駅(すべての線路が目の前で終わってる)ってのは、まさに精神的に行き詰まった父親の心象風景なんだろうな、とか、もともと路電が敷設されていた跡地のような道路の情景が挿入されるのも、自分を導いてくれる中心的存在の不在と欠落の象徴なのかなあ、とか、何度も出てくるスモークのおりてくる高山(ラストで父親が全裸で登ってる)ってやっぱりシナイ山なのかな、とか、いろいろ想像することはできる。
もともと自認していた性癖から、「解放」後の性癖への飛躍が大きかったキャラクターほど、青年の不在によって引き起こされる反作用が大きいのも、一応よく考えられてるなあと。いちばん悲惨なうえに滑稽な扱いになってるのが、ほとんど何も悪くない長女で、そこは観てて可哀想だけど……まあ面白いけど(笑)。
他にも、部屋で青年と長男が一生懸命一緒に観ているのがフランシス・ベーコンの画集で、顔が性器の聖職者の絵が大写しになったり(「性なる神」である青年の存在とシンクロする。もちろんベーコンもゲイ)、トルストイの『イアン・イリイチの死』がゲイネタに転用されてたり、とにかく小ネタは満載。
エンニオ・モリコーネにわざわざ十二音音楽のテーマ曲を書かせつつ、同じくらいの頻度でモーツァルトのレクイエムかけてくるのも、クラオタとしてはとても馴染みやすい。そういや、モツレクも灰色の服を着た「謎の訪問者」にせかされて死の床で書いたって話になってたよな。
あと、晦渋な映画だとはいっても、唐突に走りだしたり、唐突に脱ぎだしたり、唐突に叫びだしたり、唐突に浮いちゃったりするのは、やはり本能的に身体言語の一発ギャグとして、ふつうに面白いものだ。まして、下ネタメインなので、こういった「ヘンな映画」が好きな人は、先入観抜きでご覧になっても、十分楽しめるのではないか。
最期に、鑑賞後はこの映画(と『王女メディア』)に関しては、パンフ購入はマストだと思う。
この映画を理解するために、知っておいていい情報がきわめて平易にまとめられていて、さすがの町山さん&四方田さんのご両名といった感じ。あと、テレンス・スタンプのインタビューがめちゃくそ面白い。
なぜかパゾリーニからは一言も声をかけられなかったとか、かわりにパゾリーニとツーカーのラウラ・ベッティ(メイド役)が高圧的に指示を伝えてきてセクハラされたとか、完成して吹き替えられた映画は撮影時から全く新しい脚本にすり替わっていたとか。
「パゾリーニは理論的には左翼で共産主義者かもしれませんが、実際は自分の利益を追求していました。すっかり騙された私は、本当に一銭たりともこの作品から払われていないんです」
……ま、そういうもんだよね!!(笑)