「ゼフィレッリ監督には合っていない題材だが、俳優陣は豪華」チャンプ(1979) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
ゼフィレッリ監督には合っていない題材だが、俳優陣は豪華
(姪っ子を映画に連れて行くのに選んだ映画。「ロミオとジュリエット」のフランコ・ゼフィレッリ監督作の親子愛がテーマの良作と踏んだからである。評価は佳作扱いだが、読み返して文句しか書いていないのに自分でも呆れて驚いた。一応そのまま転記してみます。)
ボクサーの元チャンピオンが落ちぶれた生活から這い上がろうとして、遂には亡くなってしまう人情悲劇なのだが、残された元妻と子供にしてみれば、いつ迄も哀しみに暮れる、というのが想像できない。その妻をフェイ・ダナウェイが演じて、現代の華やかなキャリア・ウーマンのファッションデザイナーとして成功を得た設定だからだ。そして再婚相手の現在の夫が、常に温かい眼差しで見つめてくれる。また、物語の半ばで父親が暴力沙汰で牢獄入りした時には、この子供は母とは知らされぬままではあるが、一緒にヨットのクルージングを楽しみ豪華なひと時を過ごしている。このような経済的な豊かさを見せつけられて、本筋の家族愛とか人が生きるとはの素朴なテーマを感動的に見せられては堪ったものでは無い。つまり、この題材にして、アメリカンライフの豊かさが父と子の絆を見捨てたような扱いになっていないかの違和感である。これを貧乏人の僻み、と言えなくもないのが辛い。監督のゼフィレッリはイタリア人である。牢獄で父が子を殴るところや、その前に父が博打の後始末で暴力事件を起こし、子供の目の前で手錠に縛られる無残な姿を見せてしまうところに、少なからずデ・シーカ監督の「自転車泥棒」を想起させたのは、やはりその演出タッチにイタリア気質の家族愛が感じられるからだ。つまり、イタリア人のゼフィレッリが持つ本質が、背景にアメリカの豊かさが侵入したことで、この人情劇の感動が嘘っぽく見えてしまったのである。
結果論だが、これはゼフィレッリ監督が演出すべきではなかった。アメリカ映画の二流監督で十分だし、その方が作品として纏まったのではないだろうか。主演がダナウェイとジョン・ボイドのキャスティングゆえにゼフィレッリ監督になったのか、またはその反対なのかは解らないが、どちらにしても豪華すぎる。子役のシュローダー少年がまたいい演技を見せてくれるのが、勿体ない。役者がみんな上手すぎる。でもこれは、貧しさ苦しさの本質を忘れていない俳優でいいのである。そうすれば、このアメリカンヒューマニズムという幸運なストーリーを、誰もが感動的に受け止めたのではないだろうか。また、ゼフィレッリ監督はシェイクスピア演劇とオペラ演出のプロフェッショナルだ。その堂々とした演出も題材に合っていない。ストーリーは良く出来た人情ものとして感動がない訳ではないが、心が揺すぶられるまでには至らなかった。
1979年 8月9日 スカラ座
一寸読み返して恥ずかしい程である。要は貧乏学生から見た妬みだ。せめて成功する前の平均的な母親の設定であれば感情移入していたかも知れない。映画の観方で、観る者の生活水準がバレるのも困りものである。