劇場公開日 2021年10月16日

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「誠実な嘘」そして人生はつづく neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 誠実な嘘

2025年11月14日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

本作は、前作『友だちのうちはどこ?』の“その後”を描いた作品です。1990年にイラン北部で起きた大地震で、前作の舞台となったコケルやポシュテの村が壊滅的な被害を受けました。監督自身が実際に現地を訪れ、前作の少年アハマッド君の安否を確かめに行ったという現実の出来事が、この映画の出発点になっています。

ただし本作は、単なる記録映画でも、感動的な再会を描くヒューマンドラマでもありません。キアロスタミは、現実をそのまま撮るのではなく、現実を再演するという極めて独自の手法を選びました。監督自身の代わりに“監督役”の俳優を登場させ、被災地の住民たちと共に旅をしながら、現実と虚構の境界を意図的に揺らがせていきます。

途中で登場する、前作も登場したおじいさんの場面が象徴的です。監督が「この家は無事だったんですね」と言うと、おじいさんは「いや、そこは映画スタッフに“この家だ”と言われただけで、本当の家は壊れたんだ」と返す。そして、水をくむオケがないと困っているおじいさんに、スタッフが実際にオケを渡す。
通常の映画なら“NG”になるようなこの一連のやり取りが、そのまま作品に残されています。キアロスタミは、映画という行為の自己欺瞞そのものを露出させることで、「映画とは何か」「現実とは何か」を問い直しているのです。

つまり、キアロスタミはドキュメンタリーの形式を避けることで、かえってより深い現実性に近づこうとしています。ドキュメンタリーは事実を写すように見えて、カメラを向けた瞬間に被写体も演じ始め、真実から遠ざかっていく。そのことを彼は痛いほど自覚していました。
だからこそ本作では、監督が実際に経験した出来事を“演じ直す”という構造を取り、住民たちにも自分自身を“再演”してもらう。現実をそのままではなく、“語り直し”として描くのです。

このメタ構造には、キアロスタミの表現者としての誠実さが宿っています。
彼は「映画を撮ること」自体に潜む欺瞞を隠さず、それをそのまま見せることで逆に誠実であろうとした。
つまり、嘘をつかないことではなく、嘘を自覚することこそが誠実なのだという態度です。
彼にとって、映画とは“真実を語るための嘘”であり、人間の生もまた“自分を保つための小さな演技”で成り立っている。
『そして人生は続く』は、そんな“誠実な嘘”を映し出す映画です。

物語の中では、人々が次々と登場し、地震のときの出来事を語ります。
「蚊に刺されたから助かった」「神様の思し召しだ」などの言葉が繰り返されますが、キアロスタミはそれを宗教的な救いとして描くのではなく、不可知論的なまなざしで見つめています。
神がいるかどうかは誰にもわからない。
けれど人は、悲しみの中で言葉を紡ぎ、物語をつくる。
その語りこそが生の力であり、人間の倫理そのものだと彼は感じているように思います。

そして終盤、坂道で車を押す青年の場面が訪れます。
監督は最初、その青年を無視して通り過ぎるのに、のちに彼が車を押して助けてくれる。
最後は監督が彼を乗せて進んでいく。
そこに説明も感情もありません。ただ、“動作としての倫理”がある。
人が人を助けるのに、理屈はいらない——そう語っているようでした。

タイトルの「そして人生は続く」は、まさにその静かな肯定を示しています。
死があっても、破壊があっても、神が沈黙していても、それでも——そして——人生は続く。
希望でも絶望でもなく、“生の持続そのもの”を描いた作品です。

キアロスタミはこの映画で、「誠実であるとは、嘘をつかないことではなく、自分の嘘を見つめ続けることだ」と語っています。
だから彼は誠実な理想主義者ではなく、誠実な嘘つきなのです。
そしてその誠実さこそが、この映画を特別なものにしています。

鑑賞方法: シネフィルWOWOWの録画

評価: 87点

neonrg
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