戦争と貞操(1957)のレビュー・感想・評価
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演技とショットの融合
『鶴は飛んでゆく』(1957年、ソ連)は、第二次世界大戦下を生き抜いた一人の女性ベロニカを通して、人間の弱さと贖罪、そして民族的な昇華を描いた作品です。
まず印象的なのは、彼女の心理とカメラの動きが完全に一体化していることです。演技だけに依存するのではなく、走ればカメラも走り、絶望すれば画面も歪み、群衆に溶け込む時はクレーンで彼女を群れの中へと運んでいく。演技とショットが融合することで、観客は「ヴェロニカを見ている」のではなく「ヴェロニカそのものを生きる」体験をします。群衆の中を抜ける長回しの撮影や、ボリスが螺旋階段を駆け上がる場面は、その象徴的なシーンだと思います。
物語の中心には、彼女が婚約者を裏切ってしまう「弱さ」があります。しかしこの映画は彼女を断罪するのではなく、最後に彼女が花を群衆に分け与えることで「悲しみを共有する」という形で自己を赦し、共同体の中へと昇華していく姿を描きます。その瞬間、個人の物語は民族全体の寓話へと変わり、観客は自分自身の戦争体験と重ね合わせることになります。
ラストで彼女は「許される」のではなく「自らを許す」ことによって、はじめて周囲と一体化する。その背後には「神の存在」や「鶴の象徴」が透けて見え、虚無ではなく希望へと結ばれていきます。これは戦争に「勝った国」だからこそ描ける視点でもあり、敗戦国の日本やドイツには不可能なラストだと強く感じました。
戦争を憎みながらも、犠牲を民族的な希望へと昇華する――その映像的・倫理的ダイナミズムこそが、この映画を単なるメロドラマではなく、世界的傑作に押し上げていると思います。
鑑賞方法: Blu-ray (4Kリマスター)
評価: 95点
鶴は翔んでゆく
「個人」に水準を合わせた戦争映画は多々あれど、ここまでそれが徹底されている作品は少ないんじゃないかと思う。
たとえばヴェロニカが出征するボリスを探して人混みをかき分けていくシーン。カメラはヴェロニカの動向を追うのだけれど、それと同時に無数の人々の惜別をも捉えていく。キスを交わす恋人たち、抱き抱えられた子供。戦争によって惜しみなく奪われていくであろう無数の「個人」を、カメラは丹念に、余すことなく映し取っていく。
また本作では直接的な戦闘の描写はほとんどない。中盤にはボリスが辺境の湿地帯で落命するシーンがあるけれど、飛び交う銃弾や爆撃の音がかろうじて敵兵との交戦を示唆するに留まっている。したがって誰がボリスを殺したのかも判然としない。そこには戦争という大義がまったく捨象された、死という個人的現実だけが横たわっている。
ボリスのいない間、ヴェロニカはさらなる不幸に見舞われる。彼女は半ば強引にボリスの従兄弟であるマルクと結婚する羽目になってしまったのだ。以降ヴェロニカは心を閉ざし、戦地からの手紙を待つだけの生きた屍と化す。そんな彼女に与えられた仕事が兵士の命を救う看護婦だと思うとかなりグロテスクだ。
ヴェロニカは仕方ないとはいえボリスを裏切ってしまったことを悔い、いっときは自殺しかける。そのとき彼女はトラックに轢かれかけていた子供を目撃し、思わず彼を助ける。彼の名前がボリスであったことは偶然とも必然ともいえるだろう。
ヴェロニカは自分の意志でボリス少年を育てることを決意する。それと同時に、主体性のなさこそが今までの自分の不幸の根本原因であったことに思い至る。もし自分がボリスを止めていれば彼は戦争に行かなかったかもしれない、マルクを断固として拒否していれば彼と結婚することにはならなかったかもしれない。
このときマルクはどこぞの女と浮気をしており、彼はその女へのプレゼントとしてリスのぬいぐるみを渡そうとする。これは出征の日にヴェロニカがボリスから託されたものだった。ヴェロニカは浮気現場に乗り込み、マルクからぬいぐるみを奪い取る。
するとそこにはボリスからの手紙が入っていた。彼女はそれを読み、マルクとの離婚を決意する。
ヴェロニカは最後までボリスの死を信じようとしなかったが、ボリスの友人の帰還兵から直接事の顛末を聞かされ、ようやく彼の死の現実を受け止める。兵士の帰還に湧き上がる人々と、たった一人で泣き崩れるヴェロニカ。悲痛すぎる対比だ。
ラストシーン、ヴェロニカは帰還兵から手渡された花束周りの人々に配っていく。花束はボリスへの未練であり、それを彼女は一つ一つ葬っていくのだ。花束はボリスという過去から帰還兵やその家族という未来へと繋がれていく。
全ての花束を配り終えたヴェロニカはふと空を見上げる。悠々と飛び去っていく鶴たちはどのようなシステム的暴力にも囚われることのない自由の象徴だ。ヴェロニカにとっても、ボリスにとっても、他の誰にとっても。
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