「「秘境」へのあくなき夢想。ヤラセかどうかなんてどうでもいい。これは20世紀のブリューゲルだ。」世界残酷物語 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「秘境」へのあくなき夢想。ヤラセかどうかなんてどうでもいい。これは20世紀のブリューゲルだ。
まずは、ポリコレ棒をもったナマハゲが跋扈し、いかがわしさに対して何かと萎縮気味な現代において、よくぞヤコペッティをリマスターし、よくぞ上映してくれた。関係者に心から敬意を表したい。
ヤコペッティというと、すぐにヤラセ演出について声高に語る手合いが湧いて出るが、実際に観てみると、これがどこからどこまで正味のドキュメンタリーで、どこからが仕込みかなんて、しょせん大したことではない気がしてくる。それだけ「絵」の力が衝撃的だからだ。
少なくとも、撮ってきたフッテージを編集して「リアルなドキュメンタリー」を志向するようなしろものでは最初からない。まあ、BBCの真正な動物ドキュメンタリーだって、撮影前から綿密なコンテと台本があって、それに合わせて撮ってるわけで(そこは日本の動物番組とはだいぶ発想が違う)、ヤコペッティは「撮れなかったり、素材が手に入らなかったところは再現ドラマを入れたり、演出したりしてる」だけだと思って観ればいい。
みんな、相応に仕込みのある「世界の果てまでイッテQ!」だって、はっきり再現ドラマだと銘打ってる「世界まる見えテレビ特捜部」だって、「中身はおおむね真実だ」と思って観ているわけだし、このくらいで今さらぎゃあぎゃあ言いなさんなっていうの。
こんなにも「絵」に根こそぎ持っていくような力があって、「映像」の力だけで強烈に胸をぶち抜いてくる映画を観せられて、それがリアルかフェイクかなんて、ぶっちゃけどうでもいい。
とにかく、残酷なシーンやお下劣なシーン、グロテスクな習俗からゲテモノ食いに至るまで、すべてのシーンが、究極的に美しく、極限まで切ない。そして愛おしいまでに猥雑だ。
綿密に切られたコンテに基づく、明確にカット割りされた映像が、曲ピタのBGMに合わせて躍動する。そこに意図のない画面、計算のないカットは一つたりともない。
むしろ、その演出は「オペラ的」といってもいいのではないか。
要するに、作りこまれた映像と音楽の融合が、本作では徹頭徹尾はかられている。
リズ・オルトラーニの美しい旋律「ありき」で、全編が「映像詩」として企図されている。
シリアスな残虐美のあとは、陽気なお色気をはさむなど、個々の内容以上に、「全体の流れとリズム」が重視される。
決めどころでは、思い切り大仰な映像と、輪をかけて大仰な音楽がぶちかまされて、大いに気分を盛り上げる。
そう、これは、ヤコペッティ版の残酷で猥雑な『ファンタジア』なのだ。
カメラワークにはレオーネ/コルブッチ・タッチのマカロニ・テイストがみなぎる。
急な目へのズーム、奇顔のアップ、ロングショット、下からの煽り。
いかにもマカロニ的な奇矯さだが、これぞイタリア映画といった画格と画境を堪能できるのも確かだ。徹底的に凝った構図と、奇抜なカメラワークは、とうていB級映画のそれではない。そこにはプロのセンスと諧謔が、たしかに息づいている。
そう、ヤコペッティ映画はインチキ・ドキュメンタリーかもしれないが、間違ってもB級映画などではないのだ。
テーマ的にも、いわゆる「モンド映画」について、世の中ではキッチュだ低劣だとする意見がいまだ強いようだが、はたしてホントにそうなんだろうか。
たしかに出てくるネタは、ざっと思い出す範囲でも、品がいいものだとはとてもいいがたい。
犬の収容所、ヴァレンチノの村、脱がされるロッサノ・ブラッツィ、マンハント女族、ガールズ大行進、豚への人間の授乳と豚殺し祭り、行き過ぎペットセメタリー、犬食、カラーひよこ、フォアグラ虐待、ビール牛、檻でタピオカ食わせて酋長の嫁を肥らせる、NYのダイエットブーム、香港市場、NYの昆虫食、シンガポールの蛇食、イタリアの蛇祭り、足を傷付ける祭り、美女ライブセイバーの人工呼吸、ビキニ環礁の汚染、マレーシアの水葬墓地、サメ食と不具、サメにウニ、骸骨寺、ハンブルクの酔っ払い、日本のリフレ、中国の死者の館と貪食、車のスクラップ、現代アート狂騒曲、イヴ・クラインの女拓、ハワイの習俗、グルカ兵の女装、フォルターダ、牛の斬首、穴居人、ニューギニアの教化、カーゴカルト、などなど……。
だが、これらの「珍風俗」「奇習」には、いくつかの筋が通っている。
まず、「食」だ。
それから、「エロス」と「死(タナトス)」。
人間の暴力性。動物虐待。
そして何より、「いまだ見ぬ世界への関心」
――「異境(マージナル)への憧憬」が全編に満ち溢れている。
ここで扱われているのは、人間の根源を成す欲望だ。
奇矯ではあっても、人の営みに密着した小ネタ群。
だからこそ、公開当時、ひとびとは熱狂し、本作は大ヒットしたのだ。
ただ、「艶笑譚」と「奇譚」の取り合わせというのは、なにもヤコペッティの発明ではない。
むしろ、イタリアの文学と映画の「王道」ともいうべきものだ。
そもそも、「世界の」文学の嚆矢ともいえるボッカチオの『デカメロン』(13世紀)が、まさに艶笑譚と奇譚の雑駁な集合体なのだから。
ヤコペッティは、『デカメロン』から続くその豊かなイタリア文芸の伝統を、当時の時流に合わせて巧みに引き継いでみせたにすぎない。
さらにいえば、本作が「邪教徒の教化」と「愚かな異教徒」のエピソードで幕を閉じるのも、実にカトリック的というか、イタリアっぽい。
結局、ヤコペッティ的な「世界(モンド)」の認識は、大航海時代の宣教師とそう大きくは変わらない。
「異教徒は神の恩寵を受けていないから、愚かで滑稽で救われるべき存在である」
「一方で西洋人は神の教えを忘れ、七つの大罪にまみれてあるべき姿を喪っている」
このふたつの感覚で選り出された「愚者たち」こそが、本作の登場人物たちなのだ。
そう書き連ねていてふと想起されるのが、ボスやブリューゲル、クエンティン・マサイスあたりのネーデルランド風俗画だ。
画面一面にちりばめられた、粗野で下品で猥雑な農民たちの愚行。そこかしこで、奇妙な遊びや酒と博打、性的な駆け引きや残虐な拷問が並列的に展開される。品位を欠き退廃的ではあるが、彼らの犯す悪行は民衆の生活に密着して、どこまでも生き生きとしている。
にも拘わらず、その表向きのテーマは「世界の愚かさを暴き、描き出すことで、キリスト教的な正義を観るものに知らしめる」ことだったりするわけだ。
さらにその画面には、犬やら鶏やら豚やらあまたの動物が登場する。果ては「異界」の象徴として象やキリンや人魚まで出てくる(当時アフリカこそは「エデン」だとも考えられていた)。これらの動物画像の源は、当時の世界地図(マッパ・ムンディ)の辺境(マージナル)に描かれていた、まだ見ぬアフリカやアジアの生物、海の巨大怪獣、秘境の怪物たちだ。
中世末期の知識人は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(13世紀末)やジョン・マンデヴィルの『旅行記』(14世紀)を読んでは、まだ見ぬ異境を想い、抑えきれない好奇心と夢想を駆り立てられていた。その想いは、やがて大航海時代へと結実する。
ヤコペッティが大衆に喚起する感覚は、ブリューゲルの民衆画や、当時の世界全図(マッパ・ムンディ)とまさに共通するものだ。
俗悪なるものが放つ、エキセントリックでスキャンダラスな快楽と、
それに対するキリスト教的な戒めを同時に満たし、
さらには非西欧、非キリスト教圏、「マージナル」への渇望を癒す、
そんな「社会告発の皮をかぶった悪趣味とエロティシズムの寄せ集め」。
グロテスクで、愚かでもなお、とてつもない魅力を放つ「人間」のエネルギーの熱量。
それが「世界残酷物語」にはみなぎっている。
個別のネタとして、インパクトが強いのは、やはり原住民系と奇祭系、いかもの食い系だろう。
(それはまさに「世界の果てまでイッテQ」でも同じである)
とくに、豚殺しとそのあとの聖餐の崇高さ(「豚にお乳」はその場で再現したインチキ感高しw)
足を傷つける祭り(キリスト教にひそむ血と暴力とサディズムをあぶり出す!)
牛追い祭りのくるいっぷり(岸和田のだんじりどころではない異常性)
このあたりは文句なしに素晴らしい。
逆に、なんでこんなの入れたんだろうみたいな、ヴァレンティノ似の村とか、やたら長すぎる酔っ払いコーナー(街角カメラみたいなことやってる)とかにこそ、ヤコペッティ独自の「センス」の中核がにじみ出ている、という考え方もあるだろう。
なお、つけられている説明ナレのト書きは(何がしかの真実を包含する映像の圧倒的強度とは対照的に)、ほとんどインチキに近いものがあり、しょうじきとても真面目に聴くに値しない。
例えば、ビキニ環礁におけるアジサシや魚の放射能被害などについては、ほとんど信じられないようなことばかり、さもホントみたいに言ってて笑った(もとからあの鳥種は穴居性だし、地上にハゼが出てくるのも汚染水から逃げてるわけではないはずw)。カメだってあれ、回りの風景うつさないで、無理やり砂漠に向かってることにしてるだろう(ビキニ環礁は環礁なんだからそもそも砂漠なんかない)。だいたい、野垂れ死んだ亀が「裏返る」ことなど絶対「ありえない」のであり、あのいくつも並ぶ「裏向きのウミガメのミイラ」は、海岸の「漂着死体」の映像でないとおかしい。
まあ、そういう捏造やタチの悪いお遊びが「許せない」っていう、佐村河内のときに怒り狂ってたような狭量な人間には向かない映画なのはたしかだが(笑)、「奇譚」というのは最初から胡散臭く、いかがわしいものなのであり、こういうのは話半分で流しつつ、「絵」と「音楽」の圧倒的な力を体に浴びれば、それで良い。
そこに関して、裏切られることはない。
「マージナル」が失われ、まだ見ぬ異境への憧れも萎れ、SNSによって「いかがわしさ」や不倫、不道徳が数の力で狩られるようになった、世知辛く息ぐるしい「今」にこそ、万人に観てほしい傑作である。