「そこにあるのは、西部劇の抜け殻だった・・・」西部の人 慎司ファンさんの映画レビュー(感想・評価)
そこにあるのは、西部劇の抜け殻だった・・・
ジョーンズを名乗る男が、一人馬上の旅をしている。
ある栄えた街で馬を預け、どうやらかなりの額の入っているであろう巾着袋とリボルバーをバッグに詰め、駅を発つ汽車に乗り込む。
客車には、ブロンドでピンクドレスの女・ビリー、ひょうきんなペテン師・サム、何やらいけすかない男が同乗している。
薪を積むために停車した列車は、そのいけすかない男の仲間たちに襲われる。
男はジョーンズのバッグを奪うも護衛に撃たれ、悪党らは男を連れて馬で遁走する。
発車に乗り遅れたジョーンズ、サム、ビリーは、徒歩で人のいる場所を目指す。
夕暮れ前、3人は人気のない小さな集落に辿り着く。
ジョーンズは、昔、ここに住んでいたことがある、と言う。
入植者が少しいたが、盗賊に襲われた、と・・・。
2人を納屋で待たせ、母屋へと近づくジョーンズを、カメラはロングショットでフォローする。
中の暗闇には、男が銃を構えている。
男の持っている銃は、ジョーンズがバッグへ入れたそれであった。
ここはあの悪党たちの拠点なのだ。
奥から年老いたボスが現れ、ジョーンズを見て「リンク!」と笑う。
老人は、リンク・ジョーンズの叔父であり、リンクはかつて彼と共に強盗をしていたが、普通の生活を送ろうと抜け出した裏切り者であった。
しかしドックは彼を歓迎し、現在の手下を罵る。
「こいつらを見ろ。まるで使えない。
たった一人の護衛相手に、列車強盗さえ失敗する始末だ。」
奥から先ほど被弾した男の呻く声が聞こえる。
ドックは手下のコーリーに、とどめを刺すよう命じる。
異様に緩慢なカット割りの後、異様な静寂を切り裂いて銃声が鳴り響く。
年老いたドックの命を手下たちは忠実に、というより父親に反抗できない息子のような姿勢で従っているようだ。
リンクは納屋の2人を母屋に連れてくる。
場違いな艶を帯びるビリーに色めき立つ一同を前に、「俺の女だ。」と釘を刺すリンク。
サムとリンクはしかし、死んだ男の墓掘りに駆り出され、母屋にはビリーとそれを囲む悪党たちが残ることになる。
口のきけない手下・トラウトに見張られたリンクとサムは墓掘りを続けるが、母屋から「リンク!」とビリーの叫ぶ声がする。
リンクが中へ飛び込むと、コーリーが目を爛々とさせ、ビリーに銃を突き付けている。
「あんたも見ろよ。今からストリップさせるんだ。」
ビリーの前に着席させられるリンク。
ビリーはコーリーに従わざるを得ない。
「まず靴を脱げ。」
「次はストッキングだ。」
ドレスを脱ぎ、下着姿を晒すビリー。興奮の絶頂のコーリー。
そこで、火に足を当て目を瞑っていたドックがコーリーを制す。
「もう寝ろ、お前ら!」
ここでもすごすごと従う手下ども。
ビリーと、彼女に服をかけるリンクに近づくドック。
「ストリップはまだ終わっていないぞ。」
リンクは、「She is mine.」と彼女の肩に手を置き、叔父と向かい合う。
サムが扉を開け、「終わったよ。」と墓掘りの完了を伝える。
ドックは固執せず引き下がり、お前たちは納屋で寝ろ、と言い渡す。
納屋へ行く2人。
そこには盗られたリンクのバッグがあったが、巾着袋は中にない。
「あなたみたいな人は初めて。みんなあたしに言い寄ってくるのに。」とリンクに熱い眼差しを送るビリー。
リンクは自身の出自を語る。
「ある時、奴らと普通の人の違いに気づき、ここを抜けた。
今は別の場所に家族がある。初めは白い目で見られたが、長年かけて土地の人も俺のことを認めてくれた。
あの金は人に返すものなんだ。やっと集めたところなのに。」
ふいに、酔ったドックが納屋に近づいてくる。
「おいリンク!どこにいるんだ!グヘへ。」
2人は藁の上の毛布にくるまる。
「寒いだろ!グヘへ。」
「大丈夫だ。」とリンク。
グヘへと去っていくドック。泣き出すビリー。
一晩明け、現在ドックが最も信頼する手下・クロードが戻ってくる。
クロードとリンクは従兄弟であり、リンクの方はクロードに昔年の思い出を重ねるが、クロードの方はリンクに対し敵意を顕わにする。
昨晩ドックが説明していた、ラッソーという町の銀行を襲う計画の実行に際して、
「リンクは信用できない。俺が始末する。」とドックに進言するクロード。
しかしドックはリンクにかなりの愛着があるようで、裏切るようならそこでやればいい、と寛容である。
一行はラッソーへ向かう遠征を始める。
晴れた草原で休憩する一行。
ドックはリンクとコーリーに喧嘩を仕向ける。
リンクの挑発に乗り、銃とナイフを置いて殴りかかるコーリー。
2人の男は、あまりに緩慢で冗長な取っ組み合いを泥臭く延々と続ける。
優勢のリンクは、「よくもビリーを辱めたな。」と、コーリーの靴やシャツを引っぺがし、ズボンをびりびりに引き裂く。
激情したコーリーは、顔を引きつらせ、殺してやると銃に手をかける。
リンクをかばったサムが被弾すると同時に、ドックの銃がコーリーを殺す。
再び出発する一行。
クロードはリンクに言う。
「ドックは確かにボケてきている。
だが俺は、俺を育ててくれたあの人を愛している。
だからあの人についていく。お前は信用しない。」
巨大な崖を仰ぐ窪地で、一行は夜営する。
翌朝、作戦を実行するに際し、ドックが計画を語る。
曰く、まず一人、銀行に偵察を送る。
いけると判断したら、町で待て。4時間して戻らなければ、実行だ。
そこでリンクは、偵察は俺がやると名乗り出る。
口のきけないトラウトと、頭の弱いポンチは論外だ。
近場で顔の知られているクロードもだめ。俺しか無かろう。
ドックは見張り役として、トラウトを同行させる。
2人は連れ立って町へと向かう。
荒野の先に、家屋が見えてくる。
しかし、近づいてみると小屋はどれも風化し、何より人っ子ひとり見当たらない。
町は明らかに廃墟と化していた。
銀行の建物に入る2人。
と、そこには銃を構えたメキシコ人の女がこちらを睨んでいる。
「鉱山が閉鎖し、みな外へ出ていった。ここにはあたしと主人しかいない。
早く出て行ってくれ。」
思わず女を撃ち殺すトラウト。
怒ったリンクは、トラウトを撃つ。
致命傷を負ったトラウトは町の入り口まで下り坂をよろめいた後、息絶える。
彼の死を確認し、銃を奪うリンク。
計画通り町へと来たクロードとポンチは、トラウトの死体を見てリンクに宣戦布告する。
リンクを挟撃する2人。
銀行の屋根の上から近づいたポンチを撃ち殺し、テラスの上と軒下とで対峙する、リンクとクロード。
「俺たち2人だけだな。」と、最後まで昔の馴染みに思いを寄せるリンク。
クロードを撃ち殺し、彼の腕を胸の前に組ませてやって、またしても彼の銃を奪う。
妻の元へ帰ってきたメキシコ人の男に「すまない。」と言い残し、野営地へと戻るリンク。
馬車隊は静まり返っている。
幌を開けると、服の乱れたビリーが泣いている。
怒りに燃えるリンク。
「ドック!どこだ!」
と、ドックはなにゆえか、窪地を遥かに見下ろす崖の上に、小さなシルエットと化している。
「俺はここだ!」
崖に向かい、二丁拳銃を握りしめるリンク。
崖を下りて近づいてくるドック。
「あいつらはどうした!」
「俺が殺した!町はゴーストタウンだった。あんたもゴーストだ!」
なにゆえか、銃を宙に向けて放つドック。
「俺を殺してみろ!さあ!」
ドックを撃つリンク。
老体が、緩慢に斜面を転がり、画面左下にフレームアウトする。
ドックの死を確かめ、その胸にあった巾着袋を取り戻すリンク。
馬上のリンクとビリー。
リンクはここで、それまでのカウボーイ姿ではなく、映画の序盤で身に着けていたスーツ姿に着替えている。
スーツの男とドレスの女。
もはやそこに、西部劇の影を見出すことはできない。
「私、やっぱり歌手を目指そうと思う。」とビリー。
「あなたのことは好きよ。たとえ片思いだとわかっていても。」
2人は馬を進め、緩慢に画面の奥へと遠ざかってゆく。
しかし、リンクは一体どこへ向かうというのか・・・・・
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ここにあるのは、西部劇ではない。
かつて西部劇と呼ばれた活劇群の、無残に朽ちた抜け殻、或いは直接的にゴーストと呼ぼう。
主人公は、悪党から足を洗い、どこかに妻子もいるらしい。
カウボーイ姿は仮のもので、普段はスーツを着ているようだ。
その主人公に昔年の面影をみる悪党のボスはしかし、その全盛期をとうに過ぎ、強盗技術の全く身に着いていない手下を従えて余生を送っているようなもの。
彼を慕うクロードは、リンクと別の道を歩む者として対照的な存在である。
一人、また一人と一行は数を減らし、リンクは自身の影、クロードも殺す。
歌手だと自称するビリーはしかし、じゅうぶんに尺の取れたであろう100分の劇中で、一度たりとも歌唱を披露してはいない。
ドックがあれほど高らかに語り上げた銀行強盗計画は、あろうことか町が廃墟であるという事実が露呈することで、空虚に霧散する。
ビリーを犯したドックは、すべて知っていたかのように自身の死期を見定め、リンクに撃てと命じる。
低地と崖上とで、広大な空間の中で隔絶した2人は、その空漠を埋めようとするかのように、中腹に向かって引かれあっていく。
この2人の歩み寄りは、あまりの空虚に耐えかねた2人が、その身の寂しさを埋めようとして距離を詰めるかのような、孤独な人間の振舞いとして、画面を痛みで満たす。
ここにあるのは、かつての西部劇では全くない。
もはや往年の活気を取り戻すことはなく、誰の夢も仮託されない、西部劇であったものの抜け殻しかないのだ。
アンソニー・マン、この人は恐ろしい。
カットの不必要としか思えない長さからくる緩慢さも、複数の人物を同一画面に収める変則的な縦の構図も、西部劇のもつセオリーを徹底して否定し、解体したシナリオも、全てが異様であり、過剰であり、挑戦的であり、画面を痛みで満たしている。
その痛みは人物の痛みであると同時に、死にゆく西部劇の痛みである。
こんな映画を50年代のハリウッドで、しかもB級並みの予算ではなく、ある程度のスケールを持った西部劇的風土の中でやってしまうなんて、こんなものは観たことがない。
いや、未だ観ざるニコラス・レイの諸作は、ひょっとすると彼流の西部劇の抜け殻を画面に露呈させているのかもしれない。
公開後すぐにアメリカの批評家やら倫理関係の団体から白い目で見られた本作を、本年ベスト級の作品であると海の向こうから擁護したのはやはり、長編デビュー以前のゴダールその人であったという。