「飽くなきタブーへの挑戦! モンド映画の最果てに華開いた、奇蹟のようなゴミ溜めの薔薇。」食人族 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
飽くなきタブーへの挑戦! モンド映画の最果てに華開いた、奇蹟のようなゴミ溜めの薔薇。
こんなことを言うと怒られるかもしれないが、
ふつうに「傑作」なのではないだろうか。
ひたすら悪趣味で、品性下劣な内容ではあるが、
思った以上に映画として「ちゃんとしている」し、
実のところ、きわめて手の込んだ知的な構成の映画ですらある。
イタリアという特異な映画風土において、モンド・ムーヴィーと、ゾンビ映画と、残虐アクションと、官能映画と、パゾリーニの結節点に華開いた「奇蹟の一本」。
あらゆる悪徳と狂気を包含しながら、文明の意味と人間の根源を問う社会派映画であると同時に、映画というメディアの虚構性と真実性を意識的に暴き立てる「映画を語る映画」でもある。
そして、そのすべての要素が分かちがたく混淆し、支え合っている。
真に驚くべきは、この精妙に作られた驚異的な作品が、低劣なエクスプロイテーションの「売らんかな」精神のもと、たいして理想も思想もないような監督の手で、おそらく適当に生み出されたということだ。
まさに、ゴミ溜めに咲いた大輪の毒の薔薇。
『食人族』は、イタリア映画史上の特異点だ。
30年前にVHSで視聴したはずだが、記憶はおぼろげだった。
なにせ、当時は年間200本ペースでホラーとサスペンスばかり観ていた。
予備知識ゼロで、手あたり次第に9割のゴミと1割の宝を漁る日々。
いろんな映画が、脳内でごっちゃになってしまっている。
一方で、そのごっちゃになった混淆物が今の僕という人間の「核」を形成している。
今日、映画館に足を運んだのは、水曜日で安いということもあるし、人が虫のようにぶっ殺される爽快な映画を観て仕事のうさをはらしたかったというのもあるが、数年前にヤコペッティの『世界残酷物語』正、続と『さらばアフリカ』のリバイバルを観た「今の僕の目」であらためて『食人族』を観直してみたかったのだ。
冒頭は、しょうじき悪酔いする。
空撮でアマゾンの大樹林を捉えるカメラはずっと揺れているし、撮影隊の出発シーンでも、NYの摩天楼で記者がしゃべるシーンでも、手持ちカメラが8の字を描くみたいにぐるぐる動き続けていて、ただただ物理的に(身体的に)気持ち悪い。
でも、この悪酔い感は、ジャングルに入ったとたんおさまる。
そこからは視点がある程度定まり、固定カメラとハンディのバランスがとれてくるからだ。
もしかして、出だしの眩暈を起こすような悪趣味な手ブレって、「わざと観客の腹具合を気持ち悪くする」ための深謀遠慮だったのでは?
このあとに供される生肉と人肉と腑分けのオンパレードで、しっかりオエっと気持ち悪くなってもらうための布石――心尽くしのアペリティフだったのでは??
と、それはまあ、ただのディープリーディングのお遊びだとしても、ある種の意図をもって冒頭から「ハンディ」感を強調してモキュメンタリーとして印象付けているのはたしかだ。
お話は、失踪した若者たち4人組の探検隊を探すための捜索隊がジャングルを行く前編と、そこで発見されたフィルムに残っていた4人組の末路を描く後編で構成される。
前半に「うまくいくケース」、後半に「失敗したケース」という順序で紹介されるのは、意外に珍しいかもしれない。
通例、先に「バッドエンド」があって、どうやれば正解にたどり着くかの模索があって、「トゥルーエンド」にたどり着くというのがふつうだろう。だがここではまず「白人がインディオとうまく折衝できたケース」を紹介したうえで、「白人がインディオに敵認定されて滅殺される最悪のケース」を後から出してくるわけだ。
その意味では、エロゲで先にトゥルーエンドを攻略してから、後からわざとひどい選択肢を選んで凌辱バッドエンドを回収してまわるような構成(品のないたとえで失礼)になっている。
結果として、観客はいかに若者4人組が不逞の輩であり、いかにやってはいけないことばかりやっていたかを冷静に考えられるし、因果応報で滅んでいく彼らの悲惨な末路を「面白がって」観ることができる。要するに監督のデオダートは、あえて4人組に感情移入させない、勧善懲悪を強調した、むしろ食人族側に義のある「醒めたホラー」を志向しているのだ。
もちろん、今の観点から言えば「捜索隊」のほうのインディオ民接触だってろくなものではない。銃器で撃ち、何人も撃ち殺し、一人を生け捕りにし、首になわをかけて、薬漬けにして、荷物を全部持たせ、家畜のように連れまわる。彼らにとってインディオはただの原住民であり、仲間を毒で殺した敵でもある。人間として尊重する気などさらさらない。
それでも、ヒグマと出逢ってしまったらどうするか、と同じで、「どう交流すれば相手と意思疎通を行い、バーターで希望の条件を引き出すことができるか?」はわかっている。
彼らは原住民とその文化を「尊重」はしないが、功利的な立場で(動物の生態のようにそれを)「理解」している。なんなら最初のヤクモ族の虐殺や捕獲も「功利的な判断で」そうしている。
だから、あれだけめちゃくちゃやっていても、村では歓待を受けたし、木の民(ヤマモモ族……ヤノマミ族とは違うのか?)からフィルムを取り戻して帰還することもできた。
だが、若者4人組のジャングル行は違う。
彼らのやりくちは、かつてのコルテスやピサロと変わらない、征服者のそれだ。
彼らは獣性と劣情の赴くままに、原住民をレイプし、惨殺し、村に火を放つ。
本作のメインビジュアルとなっている衝撃的な「串刺し少女」だって、その真実は「食人族がやった蛮行」ではなく、若者4人組がレイプして惨殺した少女を用いてでっちあげた「やらせ」なのだ。
原住民にとって、彼らは「厄災」「悪霊」以外の何物でもない。
だから討たれる。当然の結末だ。
テレビ局重役も、人類学者も、現代の観客も、誰も若者たちを擁護しない。唾棄すべき存在として切り捨てる。
彼らは、『13金』他、数多のスラッシャーでセックスに興じたうえで惨殺される悪童たち以上の「殺されて当然の犠牲者たち」だ。
で、あまりにひどすぎるという理由でフィルムは焼却処理され、彼らの悪行三昧は「封印」される。歴史的に見ても、白人の未開地に対する悪逆非道は、こういう形で「修正」されつづけてきたのだ。
まずは、主人公若者4人組を「悪」と規定する。
このことによって得られる利点は、「勧善懲悪」の導入だけではない。
いちばんの効果は「映画のなかでいくらでも悪いことを直截的に表現できる」ことだ。
そもそも、この映画は「観察者」と「被観察者」によって成り立っている。
観察者は人類学者とテレビ局重役、そして客席の観客たちだ。
被観察者は、インディオ原住民と、若者4人組。
インディオ原住民は、原始の人間の「無垢」「無知」「野性」をつかさどる。
若者4人組は、文明的人間の「悪」「傲慢」「獣性」をつかさどる。
作り手たちは、この2つの類型から引きずり出せる限りの「悪徳」を画面に焼き付ける。
「悪徳」を観察させられる学者とテレビ局重役と観客は、眉をひそめ、吐き気を覚えながらも、自分の内に隠した自らの「悪徳」が激しく呼応するのを感じざるをえない。
そんな「悪徳」、自分のなかにはないって?
そいつはよかった。幸せな人間だ。くだらない人生だけど。せいぜい正しく生きるがいい。
でも、僕のなかには間違いなくある。
幼いころに知性と理性と道徳心によってなんとか抑え込んだ「悪」が。
やってはいけないとわかっているけど、どうしようもなく惹きつけられる「悪」が。
マンハント。レイプ。食人。放火。動物殺し。
『食人族』が披露する直截的な「悪」は、僕のなかに隠して息の根を止めたはずの「悪」をびんびんと刺激し、ふるえさせ、渇を癒し、代替的に満たしてくれる。
僕が『食人族』に惹かれる一番の理由は、その「悪と正対する姿勢」と「目を背けず直視するゆるぎなさ」にあるのかもしれない。
「悪」を描くということは、
言い方を換えると、
「タブー」を描くということだ。
『食人族』は、「タブー」に挑戦する映画だ。
最大のタブーは、もちろんカニバリズム。「人を殺して食べる」ことだ。
ただ、そのタブーはスナッフ映像でも用いない限り、テーマにおいてはそれがメインであっても、実際の映像では結局「つくりもの」ですますしかない。
だからこそ、この映画では「その代替物」として「動物を殺して食べる」シーンがリアルな動物虐待として何度も挿入されるわけだ。もちろん、今の撮影の道徳的規準において許され得ない蛮行であることは論を俟たないが、製作者にとってここはきっと「譲れない」タブー挑戦の臨界点だったはずだ。
僕個人は豚やすっぽんは平気で食べるし、魚もふつうに下ろせる人間なので、巨大亀や子豚が殺されるのは可哀想、グロテスクとは思っても、しょうじき別になんてことはなかった。だがリスザルの頭が「削ぎ切り」にされるシーンは、やっぱり「うわっ」てなるよね。あんなに可愛い動物によくもこんなことを。ひぇー、ここまでやんのかと。後から食ったからいいだろってデオダートは言い張ってたらしいが、お前ほんとにちゃんとサルまで食ったんだろうな?
でも『食人族』は畢竟、「そういう」映画なのだ。
本当の動物殺しを「生で見せられる」。もちろん不快だ。不快だけれど、そこに生まれる恐るべき衝撃は、ヤコペッティの『さらばアフリカ』で延々と続くゾウの虐殺ハンティング・ショー同様、「この映画でしか味わえない」何ものかだ。僕はあらゆるタブーを描くこの映画で、製作者自身が動物殺しの「悪徳」をその身に背負ったことをあえて断罪しない。断罪しないことで、『食人族』という映画の悪徳の一端をわが身にも背負い、共犯者のひとりとなるつもりだ。
『食人族』には、さまざまな側面がある。
まずは、60年代から70年代にヤコペッティたちが隆盛させた「モンド・ムーヴィー」の後継作として。実際の処刑映像の挿入や、強制中絶シーン、残虐シーンになるたびにひときわ高まるオルトラーニの泣き節(最高)などは、まさに「モンド」の流儀だ。モキュメンタリーを志向しつつ、きちんと「劇映画」として緻密に仕上げ、そのうえで宣伝では「実際のスナッフヴィデオ」を強調するというねじれ切ったやり口は、「モンド」の行きつく果てともいえる。とくに「ファウンド・フッテージ」映画としての趣向は、後年の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)に絶大な影響を与えた。
本作には『ゾンビ』(78)『サンゲリア』(79)など、伊ゾンビ映画のカニバリズム描写もおおいに取り込まれていて、この「食人族」×「ゾンビ」という要素は、ジャック・ケッチャムの傑作ホラー小説『オフシーズン』(81)にもおそらく大きな影響を与えているはずだ。
イタリア伝統のセクスプロイテーション要素も、本作のなかに生々しいレイプシーンとして息づいている。被害者は皆、巨乳のグラマラスな美女ではなくいたいけな少女たちで、4人組の一人フェイも貧乳であるところに、デオダートの趣味が出ているのかもしれない。
それから、残酷ウェスタンの伝統やえぐ味の強い犯罪映画のテイストなど、デオダートが学んできた娯楽映画の様々な要素が本作には包含されている。
本作が、劇中作を含む「映画を語る映画」であることも重要だ。
娯楽としてのドキュメンタリー映画(とくに「モンド」)の有り方についての、痛烈で自己言及的な批評。原住民をshooting(撮影する)ことは、原住民をShooting(撃つ)ことと同じなのだ。
それと、デオダート自身は、極左テロ組織「赤い旅団」に関するメディア報道が本作の発想源になったと述べているが、森林と原住民と銃をもった若者たちという取り合わせで容易に想像がつくのは「ベトナム戦争」との関連性だろう。
『食人族』は、おそらく表面上見えている以上に「いろいろ考えて」作られた映画なのではないかと僕は思っている。
あと、心底どうでもいいことだが、エンドクレジットを観ていて助監督のところにランベルト・バーヴァ(『デモンズ』の監督)の名前を見つけて爆笑してしまった。こうやってろくでもない血脈というのは、未来に引き継がれていくんだね!!
凄い!
凄いレビューです!
いったいどなたが?と思ったら、またまた「じゃいさん」でした。(笑)
私自身、魚は捌くしスッポンも鯨も、なんならカエルの活き造りも食べるし、動物愛護論者のキレイゴトにはケッと思ってしまう手合いですが、
「避けて通れる残虐描写は出来るだけ避けて通りたい」とも思っているので本作を鑑賞するかどうか非常に迷っていたのです。
じゃいさんのおかげで、本作の映画史上における存在意義が大変良く理解出来ました。
構成や演出についても根幹はわかったように思いますので鑑賞はやめておきます〜。(見てしまったら残虐描写が一生灼きついて忘れられなくなってしまうので助かりました。)
鑑賞をやめておきながら敢えて共感押させて頂きます。すみません。
返信のお気遣いは無用です〜。
素晴らしいレビューをありがとうございました。