劇場公開日 1998年12月19日

「擬人化された死と一緒に暮らす怖さと 面白み」ジョー・ブラックをよろしく きりんさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0擬人化された死と一緒に暮らす怖さと 面白み

2025年3月9日
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鑑賞方法:VOD

美しい盛り。若きブラッド・ピット。
涼しい目鼻立ちのクレア・フォーラニ。
そしてやはり重鎮はアンソニー・ホプキンス。

出だしから、登場する俳優たちの硬軟の表情と、その表情のハッとする変化を 絶妙に、そしてコマ送りのごとくに撮る監督。
これは誰だと驚いていたら、あのアル・パチーノの「セント・オブ・ウーマン」を撮ったマーティン・ブレストの作品でした。

ピーナツバターを舐めなめ、ネクタイの結び目には悪戦苦闘し、地球にやってきたばかりの宇宙人のように、慣れない人間社会で不器用な冒険をする死神ジョー。
しかし、まとわりつく迷惑な彼をビル=アンソニー・ホプキンスは突き放せない。ジョーの正体を知っているが故にだ。

人類を絶対的に支配する冥王であるはずのジョーが、体を拝借させてもらっただけのはずの好青年ブラピの人の良さ(=滲み出てきてしまうブラピの好ましい性格) に
こんなはずでは無かったー!と狼狽える=その死神の様子が、それを観る僕たちの微笑みを生むのだが、
さて、結果はいかに。

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【死は、いつもそばにいた】
10代。初めて同級生が事故や病に没したときには衝撃だった。人は歳を取ってから死ぬものだと思っていたからだ。まさかの同年代の人間の死去が起こるとは思ってもみなかった。
自分の寿命についても考える事の初めてとなった。

20代。いろいろな理由で人は死ぬことを知った。
中年に差し掛かると周囲の知人も親戚たちも次々と鬼籍に入り、
自分も親を看取る年頃になって、自身の老いにも愕然とする。
体も、精神力も、終幕に向かって坂道を転がり落ちるように衰えていることを毎朝・毎夕、実感するようになる。

【棺桶に入らないものは片付けておくべき】
その準備に、僕も入っているのだ。
もう毎日が同僚や仲間たちとのお別れの一瞬一瞬であり、口から出るすべての言葉のかけらが遺言の域に入っている。
その事を、僕はこの年代になってひしひしと感じているのだ。

ビルは、理由を言い出せないままに、昨夜も、今夜も、家族を呼んで夕食を取る。名残惜しさの極みだ。
本作製作時のアンソニー・ホプキンスは、年齢の設定は僕と同年。さすがの名優だ。大会社を運転するように、システム手帳には予定表として「自分の死ぬ日」をスケジューリングしなければならないって事だ。

映画は、
誕生パーティーでのスーザンとの別れで幕でも良かったかも知れない。でも監督はエンターテイメントとして、新社長の追放というオマケを付けてある。これを蛇足と取るか、必須と取るか。
ちょっぴり安っぽいオチのシーンをわざと付け加えるのがマーティン・ブレストのやり方。照れ隠しと、観客の肩の力を抜かせてくれるオマケの部分だろう。
あれが有っても無かったとしても、本編の重厚さと品格は一分たりとも損なわれはしない。
死神は、仕事は完遂するからだ。

そしてこれは言葉のやり取りに輝きを見せる“男映画”の最たるものだ。
本物の豪邸と、邸内の名画と、NYCの街並み。そして各人のステータスごとに誂えられたスーツの、その絶品の仕立ての良さにも目が奪われる。
これこそが細部に手を抜かない監督マーティン・ブレストの真骨頂だ。

スーザン役のクレア・フォーラニは、切れ上がった細い目と肉感的な唇。そして少しエラの張った顔立ち。
ブラピが後日結婚するアンジーを予感させるね。

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擬人化された死は、不思議クンだった。

映画を見ながら、僕はアパートのベッドに腰かけ、モニターに映る本作を観ながら、「僕の隣に僕の死が、一緒に並んでこの映画を観ている」気分になる。

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従兄弟をふたり、1週間違いで失った2025年春に観賞。

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きりん