「機関車映画の傑作」少年、機関車に乗る 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
機関車映画の傑作
バフティヤル・フドイナザーロフというタジキスタンの映画作家が弱冠26歳で手がけた長編デビュー作。遠隔地に住む父親に会いにある兄弟が機関車の旅に出るというロードムービーだ。
機関車というのは実に映画的な乗り物で、登場人物たちの織り成す運動の背景にもなれば、それ自体が運動の主体にもなる。たとえばアルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』では機関車はサスペンスドラマというソフトを作動させるハードウェアとしての意味合いが強い。一方でバスター・キートン『大列車追跡』では機関車それ自体があるときはバスター・キートンの拡張身体として、あるときはあたかも自我を持った一個の生き物として大活劇を繰り広げる。また自転車や自動車と異なり、走路があらかじめ決まっているという点も面白い。『新幹線大爆破』や『アンストッパブル』のような「暴走モノ」は、決められた線路の上を走る乗り物だからこそ成立するジャンル。主体と客体、生物と無生物の間を自由自在に往還するのが機関車という乗り物だ。
本作における機関車は、機関車という乗り物の変幻自在な性質を最大限に活かしていたように感じた。あるときは雄大なアジアの荒野に添えられた点景として、あるときは画面をダイナミックに貫く運動主体として、あるときはひたすら一定の速度とリズムを刻む精密機械として、あるときは操縦者の意に逆らって動き出す悪戯好きの動物として。隣の道路を並走する自動車とレースするシーンや、線路の両脇の崖の上から無数の石を投げつけられるシーンなどが特に印象的だ。旅の途中で電車に乗り込んできた綺麗な女たちに男どもが露骨に浮つきはじめた次のカットで、機関車と貨車の結合部を大写しにするモンタージュ演出も可笑しい。
活かし方が上手いのは機関車に限った話ではない。たとえば冒頭で少年(たぶんデブちん)が登っている奇形の煙突のような謎の建造物。そこを少年がスルスルと滑り落ちてくるところから物語が始動する。兄弟の家にかかったビニールカーテンは外部の風景をぐにゃりと歪ませ、そこはかとなく不安を煽る。線路の上に置かれた謎の網の上を少年たちがトランポリンのように飛び跳ね、その側方をショッピングカートを押す子供が爆速で駆け抜けていく。旅の途中の駅で乗り込んできたオッサンが20個以上ものポットを抱えていたり、白い羽のようなものが舞う巨大な鳥かごのような貨車の中で子供たちが走り回っていたり。親の赴任地では地元の青年たちが頭上の数字が書かれた筒を回してその数を競い合う謎のゲームに興じている。ウユニ塩湖のような浅瀬を梯子を抱えた若者たちが走り去っていき、そのあとには真っ白い椅子が浅瀬の真ん中にポツンと佇んでいる。デブちんと父親の愛人は二人三脚でパドルボートを漕ぎ、足場がほとんど崩れ落ちた桟橋に辿り着く。
フドイナザーロフは本作にして既にモノの魅せ方に通暁していたといっていいだろう。それらは単なる「映り込み」の領域を超えていきいきと躍動している。とりわけ旧共産圏にありがちな不可解で無機的な建築物やオブジェクトの運用は大したものだ、と思ってしまうのは私の浅薄なオリエンタリズムゆえだろうか。
映像が素晴らしいのはもちろんのこと、物語も洗練されており、無駄がない。
親探しの旅が徒労に終わるのは映画という媒体の宿命なのではないかと私はときどき思うことがある。北野武『菊次郎の夏』然り、テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』然り、アレ・アブレウ『父を探して』然り、子供たちの大いなる旅路は本来の目的(=父との再会=安住)を達成しえないまま復路を迎える。思うにそれは映画というものが本質的に運動を必要とする芸術媒体であるからではないか?
ゆえに兄弟は動き続ける。兄は「もう2、3日いろよ」と引き留める友人を振り払い、行きと同じ機関車に飛び乗る。兄が父親のもとへ置いていったはずの弟もまたいつの間にか貨車の中に乗り込んでいる。機関車は進み続ける。カタンカタンという心地よい一定のリズムを刻みながら、そして映画という媒体の宿命を抱え込みながら、元来た道をひたすら引き返していく。