「水族館怪奇デートと鏡の間の映像マジックで鮮烈な印象を残す、オーソン・ウェルズの初期作。」上海から来た女 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
水族館怪奇デートと鏡の間の映像マジックで鮮烈な印象を残す、オーソン・ウェルズの初期作。
たしかに鏡の間での対決シーンは、映画史に残る魔術的な映像美だ。
他にもたくさん、印象的なシーンや奇矯なキャラクターが目白押し。
部分、部分では、傑作だと思うし、天才だと思う。
でも、やっぱり出来栄えとしては、総じて破綻してるんじゃないのかなあ。
オーソン・ウェルズ自身のラフカットからさらに、無断で1時間近くのカットがなされた事実が、本作の出来の悪さに直結しているだろうことは、容易に推測できる。
その点、ウェルズには大いに同情に値するが、それでも、商業的なノワールで2時間半のフィルム上げてこられたら、俺がプロデューサーでも困惑すると思うよ(笑)。
とにかく、ストーリー展開が極端に追いにくく、うまくかみ合わない細部の齟齬が多すぎる。ナラティブのリズムが一定せず、シーンによって空気感がまちまちで、全体に作りが粗雑な印象を受ける。
そもそもプロットが複雑すぎて、頭に入ってこない。小説なら追えても、映画でこれをやるのはまあまあ無理がある。それを意を尽くして分からせようとして2時間半になったのだろうが、結局カットしたからわかりづらくなったのか、それともカットする前からもとよりわかりづらかったのか。
何より、この異様にせかせかしたカット割りと語り口は(『市民ケーン』とも共通する部分だが)、あまり観ていて心地よくないし、早口でまくしたてるナレーションの情報にあまりに頼りすぎている。
少なくとも、『黒い罠』や『オセロ』、『審判』あたりの圧倒的な完成度を考えれば、この程度の仕上がりのオーソン・ウェルズ作品を褒めてはだめだと思う。
逆にお気に入りのシーンでいえば、まずオープニング。
陰影に富んだ橋と船のショットから、そのまま疾走する馬車から伸びる影へとつながってゆくモンタージュは、実にシャープだ。あのあとの煙草をめぐるやり取りも良い。煙草の受け渡しというのはたいがい性的な隠喩であって、それを「喫わない」といいながら受け取り、喫うのかと思ったらハンカチでくるんでバッグに入れるところに、ファム・ファタルのファム・ファタルたるゆえんがある。
名高い水族館デートのシーケンスも、ひたすら素晴らしい。
タコやウツボやウミガメやアフリカナマズを背景としたグロテスクなラブシーンは、あたかもファム・ファタルの歪んだ心根が、背景効果として触手のように這い出し、はみ出しているかのようだ(一部あれ、魚が拡大されたトリック撮影もあるよね?)。
それともちろん、あのびっくりハウスでのドイツ表現主義のようなトリッキーな幻想的対決シーン。オーソン・ウェルズがこれだけのことを成し遂げてくれたからこそ、それがベースとなって、今のアクション映画、今のサスペンス映画の豊穣な映像表現が存在するとすら思う。
単に綺想とアイディアに富んでいるというだけでなく、カッティングのリズムが、今観ても十分新鮮に通用していることに驚愕させられる。
キャラクターとしては、ぎょろ目でCripleの凄腕弁護士アーサー・バニスターと、いつも汗を浮かべてにやにや笑いを顔に張り付かせた謎の「友人」ジョージ・グリズビーのエキセントリックさが、とにかく印象的だ。それから、チャイナタウンの劇場で上演している京劇の俳優たちや、なぜかエルザの電話一本でかけつけてくる謎の中国人一味も強烈なインパクトを残す。チェス愛好家の判事も、なんだかモンティ・パイソンのキャラみたいなブラック・ユーモアを感じさせて面白い。
これらのキャラクターがたたえる奇怪さ、奇矯さ、グロテスクさは、どこかボス/ブリューゲル風の中世的な味わいとも通じるし、ドイツ表現主義幻想映画との密接なつながりも感じさせる。さらには、彼らの奇矯なふるまいによって醸成される悪夢的なイメージは、40年代のニューロティック・ブーム、フロイト解釈ブームとも連関しているだろう。ブニュエル的な「人を食った冗談感覚」がウェルズにも備わっていたという部分も大きい。
いっぽうで本作のエルザは、典型的なファム・ファタルと称されるものの、リタ・ヘイワース自身はトレードマークの赤毛をブロンドに染められたうえに短くカットされ、どこか武器を取り上げられたように所在なげにも見える。この映画を撮っている時点ではまだ結婚していたオーソン・ウェルズと実質破局を迎えていたこともあって、少しやりにくさをかかえていたのかもしれないが。
なお、ウェルズがエルザの「ブロンド」にこだわったのは、対するウェルズ本人が演じる主人公マイケル・オハラが「アイルランド人の水夫」(姓からしてバリバリのアイリッシュ系)で、相手のエルザはアメリカ人のセレブだというのが、ノワール的にきわめて重要な意味を持っているからだろう。
「赤毛」は、欧米では「アイルランド系」を想起させる典型的な髪色であり、アイリッシュに対峙するアメリカ人セレブ妻にその属性を与えるわけにはいかなかったのだ。
どちらかというと、類型的なエルザとマイケルの関係性より、個人的には歪みまくったあげくもはや訳の分からないことになっているエルザとアーサーの得体の知れない関係性のほうが断然面白かったので、そちらをもっと整理したうえでより深めていれば、もっと面白いノワールになったような気もする。
なお、最近弁護士が被告を有罪にするために頑張る映画を観た気がしながら思い出せないでいたのだが、今思い出した。ロバート・シオドマクの『情事の代償』。ていうか、あっちは「検事が被告の訴追に失敗する」よう頑張る話だったか。
なんにせよ、天才の片鱗は間違いなく刻印された映画でがありました。