「分析的シベール論」シベールの日曜日 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
分析的シベール論
シベールという作品は、深い衝撃と感動をもたらす。しかし、その理由は必ずしも明らかではない。なぜ、これほど心が動かされるのか、他人に説明できないのである。といっても格別に難解な作品ではない。いったいこの映画作品は何ものであるのか。衝撃の淵源を手法と内容両面から分析してみたい。
まず手法面では、ブールギニョン監督が意図的に採用した神秘化による緊張感の持続と切断を指摘できる。神秘化とは、主人公のピエールが正気なのか狂気なのか、最後まで明示しないことを指す。
戦闘機のパイロットだったピエールは、インドシナ戦争で無垢な少女を殺害した体験があり、にもかかわらず処罰されていないことが倫理意識を苦しめている。苦悩から開放されようとして、彼は自ら処罰されることを求める傾向がある。しかし、処罰を受けるためには別の少女を殺さねばならない…映画は、ピエールとシベールがひっそりと孤独を温め合う姿を描く一方、その奥底に冷ややかな狂気の気配を漂わせて淡々と進行していく。
狂気の気配が漂うシーンを掲げてみよう。
少女殺害と戦闘機の墜落は不可分の体験だから、少女の記憶が蘇ると墜落の記憶もまた浮上する。シベールと出会った彼が木に登って眩暈に襲われ、その後「最近、過去を思い出そうとしていない」と内心の不安を打ち明けるエピソードは、少女殺害の記憶も蘇ったことを暗示している。
この暗示は、まもなく遊園地での出来事により事実として裏付けられる。ひと騒動を起こし錯乱した彼は、マドレーヌによれば「あの子は死んだのか。ぼくが殺した」と何度もうわ言を口走ったというのである。
そしてクリスマスの夜、シベールの本名を知ったピエールが不思議な表情を浮かべるシーン。このとき監督は意識的に下方からのライティングを使って無気味さを醸し出し、狂気の可能性を強く印象づけようとしている。
その後、ピエールは風見鶏を盗みに教会の屋根によじ登るのだが、ここで彼は突如、眩暈から開放される。それは少女殺害の記憶を克服したようにも、新たな少女殺害を決意したようにも見えるではないか。どちらかわからないままピエールはシベールの下に戻り、警官の証言によればナイフを携えて彼女に歩み寄っていく…。
このような謎めいたシーンの連続に観客は幻惑され、緊張の持続を強いられる。そして最後の最後、突然の惨劇によって緊張の高みから突き落とされてしまう。その転落が衝撃となって心を貫くのである。
次に、内容面を検討しよう。
三つに分けて分析すると、表層的にはピエールの呟く「空費された人生…それは何だろう」という言葉に共感するすべての孤独な人に、シベールは癒しと希望の女神として降臨する。観客は報われなかったり、意に沿わなかったりする人生を埋め合わせしてくれる快感に陶酔するのである。いっぷう変わったラブロマンスの層と言ってもよい。
しかし、それでは風見鶏と悲劇的結末は説明不能である。それを説明するには、映画の基底まで降りていく必要がある。
すると登場人物は変身してしまう。ピエールは20世紀において世界大戦を何度も繰り返した結果、精神が荒廃し、記憶喪失=自己を見失った人類そのものの象徴と化する。そのとき、シベールは危機的状況にある人類にもたらされた救済の希望である。ラストシーンの悲劇は、戦火に明け暮れる20世紀の人類に対する警鐘にほかならない。これは、反戦映画の層である。
世界を戦争で荒廃させた元凶を辿っていくと、キリスト教文明に帰着する。シベールがギリシャ宗教の神として表現され、カルロスがチベット仏教を論じ、ブールギニョン監督自身の採録したシッキムの仏教寺院の聲明が流れるのは、宗教的観点からの文明批判という意味がある。教会の風見鶏とは、キリスト教における魔除けである。ピエールは異教の女神に命じられ、キリスト教の魔除けを毀損して捧げるという構図になっているのである。ここは宗教、文明批判の層と言える。
シベールのもたらす深い衝撃と感動、そしてわかりにくさは、以上のように手法的には神秘化による緊張の持続と切断、内容的には複数の層が絡み合った重層性に起因していると思われる。