グランド・ホテル(1933)のレビュー・感想・評価
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グランド・ホテル形式
グレタ・ガルボ目当てで見たら彼女の役も含めてとても面白かった。
他にも当時の大スター三人が共演していて、彼らのことはこの作品で初めて知ったのだが、みなさすがの演技と華。
ホテルの一定期間を切り取ってみると、そこには人々の悲喜交々が凝縮されているーグランド・ホテル形式と呼ばれる、映画の一つの雛型になった作品。三谷幸喜作品で楽しいホテルの映画があったけれどこの様式に則っているのね…。
それにしても、バロン(ドリュー・バリモア)が内面も外面もイケオジすぎて、殺されてしまったのは悲しかった…。
要は手法でなく内容
MGMが総力挙げて作った伝説の映画、たまたま同じホテルに宿泊した客たちの織り成す群像劇。
落ち目のロシアのバレリナー(グレタ・ガルボ)や医者に見放された会社員(ライオネル・バリモア)とその会社の狡猾社長(ウォーレス・ビアリー)、金欠美人速記係(ジョーン・クロフォード)、それらを繋ぐ横糸が落ちぶれた貴族の泥棒(ジョン・バリモア)という役どころなのだが殺されてしまう。
かといってサスペンス映画ではなくシチュエーションコメディでもない、人間ドラマを掘り下げようにも時間も場所も限定的なことが仇になる。結局、セリフで心情を語らせる演出となりスター鑑賞会に成り果てる。宿泊に至った経緯を電話シーンで長々と説明したりロビーでの出会いで人物紹介を兼ねたり本筋に入るまでの段取り感がかったるい。正直、高級ホテルという設定だと客のプライバシーに興味を持つこと自体が下世話に思え聞き耳を立てる気になれない。そういうニーズがあることは致し方ないがテレビのワイドショーにも壁癖している日常ではシチュエーション自体がどうでもよく思えてくる。要は手法でなく内容次第なのだが時代も文化的背景もいささか古すぎて映画のお勉強をさせて頂いたということに尽きましょう。
古き良き夢の残り香
いわゆる場所が主人公で、そこに集う人々の人間模様をオールスターキャストで描く、空間・時間を限定した群像劇という形式をはじめて打ち出した画期的な作品。それにふさわしく出演者もやたら豪華。もうこういう古き良き夢はスターシステム不在の今では不可能なんだろうなとひたすら実感させられる。
ストーリーは、ベルリンにあるグランドホテルが舞台。ベルリンいちの高級ホテルゆえ、泊まり客もそれなりの格式を要求される。その服装ゆえ安い部屋をあてがわれたクリゲライン(ライオネル・バリモア)はロビーで「医者からもう長くないといわれたんだ!最後に贅沢したい!」と大立ち回り。おかげで最高級の部屋に泊まれることとなった。クリゲラインの泊まる階には彼を首にした社長プライシング、男爵と名乗る紳士(ジョン・バリモア)、著名なバレリーナ(グレタ・ガルボ)が宿泊していた。プライシングはそこで企業合併をすすめていたが、結果が思わしくなく、美貌の女性速記者(ジョーン・クロフォード)に声をかけ情事で憂さを晴らそうとする。バレリーナはそろそろ年齢的な限界を感じ始め、舞台に立つ気力がなくなってドタキャンを繰り返している。クリゲラインは死を間近にしてようやく人生の楽しみを覚え充実を感じる。速記者とダンスをし、つかの間の至福を得る。男爵は借金返済のためバレリーナの部屋に忍び込むが、彼女と恋に落ち、一緒に公演先へまわるためにプライジングの部屋に忍び込み、殴り殺される。プライジングの部屋にいた速記者はクリゲラインに助けを求め、バレリーナは男爵が彼女を待っていると確信しながら闊達にグランドホテルを後にする。速記者とクリゲラインは新たな人生を得ようとパリへと旅立つ。そしてホテルにはまた新たな客。
不勉強をさらすようだが、グレタ・ガルボの演技を初めてみた。確かに美しい。なんというかありきたりな表現を使えばオーラがあるというか、ガルボ的としかいいようのない雰囲気がある。こういう人はほかの女優ではマレーネ・ディートリッヒしかしらない。ただやはり今日の視点からすると演技が非常にオーバーで、あまりにも夢見る少女すぎて鼻につかないこともない。ただ昔の映画にそんなことをいってもしょうがないので、これはこれでよいとは思うけれども。コントラストのあまり強くない、全体的にシャがかかったような柔らかい白黒画面がまた、ガルボの魅惑的かつ夢幻的な雰囲気を高めている。
男爵のジョン・バリモア、クリゲラインのライオネル・バリモアというバリモア兄弟の共演もいい。とくにクリゲラインが野暮天のお大尽遊び、肩ひじ張って無理やり笑おうとしているこの悲哀を体現していて、みているうちに胸を引き絞られるような思いがする。(多分クロサワの「生きる」の元ネタだろう)男爵の、非常に流麗な物腰でありながらも、どこか身体の一点に油断ならない怪しげな部分を常に(我知らず)覗かせてしまっているようなところもよい。
流れるようなカメラワークとともに、時折特徴的な構図ーーロビーを回遊するように配置されているタワーのような円形の間取りなどがはさみこまれる。上から見下ろすとロビーを無数の輪が取り巻いているように見える。このショットから人物相関図がひとつの輪のようなつながりをみせていることが暗示されている。だが物語は幸福な幕切れへと誰一人円環を結ばない。それでも全体の印象は風が吹き抜けるように颯爽としており、物悲しくも後味がよいのはなぜだろう。それは多分この制作者が人生に対する(諦念としての)肯定的な視点を全編に渡って貫いているからだと私は思う。
「カヴァルケード」の前の年に公開されたとはとても思えない(ガルボの演技を除いて)鮮度を保っている映画だった。古典だからといって「俺みたぜ」映画の枠組みにはおさまらない、時代に負けない作品である。見て損はない。いいものはいつだっていいのだ。
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