「「人間縄跳び」の衝撃! ホモソーシャルでマゾヒスティックな「聖なる愚者」の優しい寓話。」神の道化師、フランチェスコ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「人間縄跳び」の衝撃! ホモソーシャルでマゾヒスティックな「聖なる愚者」の優しい寓話。
結局のところ、この映画の見どころはといわれると、
ジネプロ修道士の「人間縄跳び」に尽きるのだが(笑)。
それにしても不思議な映画ではある。
聖フランチェスコの伝記映画と言いながら、その生誕も逝去も描かず、宗教的に重大な聖痕を受ける話にもたどり着かない。11人(+1)の兄弟団の仲間とともにサンタ・マリア・デッリ・アンジェリに滞在した期間のエピソード集に終始し、そもそも全10章のうち、フランチェスコがメインの章が数えるほどしかない。
少なくとも、まっとうな聖フランチェスコ伝を編むつもりはないらしい。
代わりに目立つのは、ホモソーシャルな男たちのわきゃわきゃした連帯感。
それから「聖なる愚者」たちの放つ、いわく言い難い「崇高さ」である。
前者についていえば、たとえば冒頭の大雨のなか12人の兄弟(ブラザー)たちがやって来るシーンからして、ホモソーシャルな空気感がきわめて顕著だ。
ずぶ濡れで、泥んこで、臭っていて、身体の距離が近い。
練習帰りのラガーマンたちのような、体育会臭。
彼らは常に仲良しで、感情豊かで、頻繁にボディタッチを繰り返す。
しきりにお互いの頭をなで合い、ポリフォニーで合唱する。
何かと、穴倉(石造りの縄文住居みたいなやつ)に全員で押し合いへし合いしながら入り込み、押しくらまんじゅうのように密集して、隠棲昆虫のように身を寄せ合っている。
体育会的ではあるが、上下関係で支配されているわけではない。
兄弟団は、ただただフランチェスコに対する敬慕と友愛によって結び付けられている。
理想のホモソーシャル集団だ。
後者についていえば、本作の真の主人公はジョヴァンニ爺さんであり、まだ年若いジネプロ修道士だ。彼らは「聖なる愚者」として作品世界に君臨する。
彼らは、今でいうところのいわゆる発達障害と思われ、軽い遅滞をも伴っている。
ジョヴァンニ爺さんに関しては、軽いどころか重くさえあるのではないか。
そんな彼らが、グループに温かく迎え入れられ、愛され、篤く遇される。
彼らは、通常の人間には及びもつかない何かを成し遂げられる、神の恩寵を賜った存在として扱われる。
人は賢しらな存在だ。
つい考え過ぎ、疑念に苛まれる。
つい私利に走り、自負心に左右される。
人は懐疑心と利己的な精神を捨てるために、
長い修行を重ねて心を鍛錬しなければならない。
対して、愚者は澄み渡った精神を先験的に持っている。
彼らは神を疑わない。信仰を疑わない。教父を疑わない。
単純明快な心で、自分を捨て、他に対して尽くすことができる。
愚者は、むしろ神に選ばれし存在であり、
兄弟たちにとってはまねびの対象なのだ。
ホモソーシャルな修道士たちの関係性と、
「聖なる愚者」の宗教的な追求。
これに加えて、本作を支えている三つ目の重要な柱。
それが、いささかマゾヒスティックな身体性だ。
本作で、修道士たちは常に襤褸をまとい、
裸足で歩き、肉体労働に従事する。
さらには、様々な形で「受難」を被る。
彼らが被る苦難は、単なる大雨や吹き降りの雪といった自然現象から、村民の悪意や無関心といった布教や信仰に関わるもの、病気や疲労といった身体的な窮状、さらには為政者や群衆による暴行や拷問といった殉教聖者のような受難まで、多岐にわたる。
ロッセリーニは、彼らの身体や精神に刻印される痛みやストレスを、必ずしも「苦しみ」としては描かない。
むしろフランチェスコは常に、「神への愛ゆえに辛い仕打ちにも耐える。これが完全なる歓びなのだ。侮辱や試練に耐えること、ここに完全なる歓びがある」と説き続ける。
彼らにとっては、痛みも、寒さも、侮辱も、拷問も、
ひとしく「法悦」なのだ。
これはキリスト教に限らず小乗的な宗教全般に言えることなのだろうが、宗教的な試練や修行に伴う「法悦(エクスタシー)」には、いささかどころではない「マゾヒスティック」な感覚がつきまとう。
ロッセリーニは、この「法悦」の感覚を実に愉しげに描く。
酷い目にあったときのフランチェスコのうっとりした顔。
土砂降りの大雨のなかを歩いてくる修道士たちの妙な昂揚感。
そして何より、空中にぶん投げられ、ぐるぐる振り回され、縄跳び替わりにされてなお薄い笑みを顔に貼り付けている「愚者」ジネプロの澄んだ表情。
ロッセリーニが描きたかったのは、おそらくフランチェスコの生涯でもなければ、宗教的な事績でもない。
彼は、「乞食僧団」とも呼ばれたフランチェスコ会の、「生々しい身体性」と「インティメットな関係性」にこそ関心があったのだ。
襤褸をまとって集団で移動する清貧の修道士たちのなかに、ロッセリーニは「ホモソーシャルな結びつき」と、「聖なる愚者を認容する風土」と、苦しみを歓びに変換する「マゾヒスティックなシステム」を感じ取り、そこに焦点を合わせるべく題材となるエピソードを絞り込み、生き生きとした「男たちのわきゃわきゃ感」をフィルムに刻印してみせた。
こうして、「フランチェスコ伝」の外見を偽装した「男の子たちのいちゃいちゃ群像劇」は完成したのだった。
まだ兄弟団が発展する前の、すべての始まりの時代。
気の合う仲間たちによる、和気藹々とした青春群像。
距離感の近い男どうしの深く結ばれた絆と熱気。
そこには、まったく方向性は違うとはいえ、フェリーニの『青春群像』やパゾリーニの『アッカトーネ』、ヴィスコンティの『青春のすべて』あたりと同種の「若き日のたかぶり」を見て取ることができるだろう。
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●フランチェスコ伝というと、まず思い浮かぶのはジオットによるアッシジの聖フランチェスコ聖堂のフレスコ画。それから、オリビエ・メシアンによるオペラ。2017年に行なわれたシルヴァン・カンブルラン指揮、読売日本交響楽団による演奏会形式での全曲初演には僕も立ち会った。
映画だと、フランコ・ゼフィレッリやリリア・カヴァーニが評伝映画を撮っているようだが、僕は未見。個人的にはパゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』が印象に残っている。
というか、僕は数年前にここで『大きな鳥と小さな鳥』の感想をつけているのだが、当時はあの映画のなかでニネット・ダヴォリ演じるフランチェスコの弟子が、比較的唐突にでんぐり返ししたり、悪ガキどもにボールのように投げ合いされるといったスラップスティックのネタ元をわからずに書いていた。
今は100パーセントわかる。あれは、まさに『神の道化師、フランチェスコ』からのモロパクリネタだったわけだ。
パゾリーニは、鳥に説教するシーンの演出法や、「聖なる愚者」としてのニネット・ダヴォリのキャラクター設定を、間違いなくロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』の影響下に決定している。
「聖なる愚者」という概念は、東洋でいうところの「寒山拾得」とも被るものだが、パゾリーニ作品におけるニネット・ダヴォリの度重なる起用には、フランチェスコ会の影響(およびロッセリーニの影響)が大きかったということか。
●フランチェスコは小鳥に説教した聖人として著名であり、本作でも小鳥に対してフランチェスコが語り掛けるシーンがある。このシーン、僕はヨーロッパの鳥には詳しくないので間違っているかもしれないが、ゴシキヒワとアオカワラヒワが混群しているように思う。
ゴシキヒワはヨーロッパでは大変メジャーな野鳥で、キリストの磔刑と結び付けられるアザミの種を食べることから、絵画表現としては「受難の象徴」としてもっぱら用いられる。ダ・ヴィンチの『リッタの聖母』やラファエロの『ヒワの聖母』でも、磔刑のアトリビュートとして幼児キリストの傍らに描き込まれている。また、ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』には、巨大なゴシキヒワが描かれていて大いに人目を惹く。
なんにせよ、ここで敢えてキリスト教に深く関わる鳥として、ゴシキヒワをわざわざ選んで入れてきたのは間違いのないところだろう。
木にとまっているヒワの群れと、フランチェスコを交互に映すモンタージュは印象的。
フランチェスコが肩にとまっている手乗りゴシキヒワをなかなかうまく捕まえられないのだが、そのまま流しでOKを出しているところに、ロッセリーニらしさがでているかもしれない。
●なんといっても、本作で「普通に面白い」のは、ジネプロ修道士とニコライオの対決の章だろう。そこまで基本的には静謐なノリで終始していた映画が、唐突にスラップスティックに豹変し、マルクス兄弟のような身体を張ったドタバタに変貌する。
ドタバタといっても、ジネプロは「常に何もしない」という点がミソで、彼は「モノ」のように振り回され、投げ飛ばされ、でんぐり返しさせられ、担がれ、移動させられ、馬で地面を引きずり回され、ニコライオに脅される。それでも、彼は無抵抗を貫き、「私は罪深い人間です」と繰り返すばかり……。
ここでのジネプロの姿勢には、まさにフランチェスコ会の在り方と精神が集約されていると言っていい。同時に本章は「アクション」としても圧倒的な面白さを併せ持っている(群集心理が呼び起こすリンチと暴徒化の恐ろしさよ!)。
鎖で固定された鉄鎧のなかに鎮座するニコライオのキャラクターも強烈だ。鍾馗様のような異形の風貌にぎょろ目(ちょっとオーソン・ウェルズを彷彿させる)は、ひと目見ただけで忘れがたい。ちなみにニコライオを演じるアルド・ファブリーツィは、本作における唯一のプロ俳優であり、『無防備都市』に続く出演らしい。
彼のテントにジネプロが連れ込まれてにらめっこを始めたときは、もうおかまを掘られちゃうもんだとばかり……(笑)。
●その次の、雪が降るなかフランチェスコとレオーネが布教(托鉢?)に出かけて、ボコボコにされて追い返される章もコミカルな演出が愉しい。
ていうか、俺でもあんないきなりツーマンセルの乞食坊主が押しかけてきて、ガンガン扉を叩いて教化と喜捨を無理やりせがんできたら、追い返すどころか絶対に警察に通報すると思う(笑)。
一見、フランチェスコの側に立って「こんなにひどい目にあった」と描いている「風」を装ってはいるが、実際は兄弟団のやっていることの「怖さ」を示す客観的な描写になっており、今の時代の新興宗教批判とも呼応する部分があって、じつに興味深い。
●それぞれがぐるぐる回って倒れた方向で布教先を決め、二人組の六班に分かれてちりぢりにイタリア各地へと去っていくラストシーンは、なんとなくじんと胸にくる。
皆で分かち合えた青春のひとときの終焉。
寂しいけれど、そこから新しい何かが始まろうとしている。
なんだか、大学卒業でサークルメンバーがそれぞれの道を行くことになるキャンパス・ムーヴィーでも観ているような爽やかで切ないラストだ。
●登場人物のほとんどは、当時ウンブリア地方に住んでいた実際の修道士たちということだが、やはり「もともとオーバーアクションで芝居がかったしゃべり方をする」イタリア人だけあって、皆さん普通に演技をこなされていて感心する。というか「ネオリアリズモ」における素人俳優の登用って「イタリアだったからこそ成立した」部分もあるんじゃないのか(笑)。まあ、いきなり顔に手を当てて「はい泣いてます」ってのは、素人芝居にしてもさすがにあんまりなんじゃないかとも思ったけど……。
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下高井戸にて映画終了後にトークショー。
帰りに道すがら、鑑賞後の若い女性が連れの男性に対して、登壇者の文句をボロカスに言っているのが聞こえてきて、ちょっと笑ってしまった。
別料金が上乗せされているわけじゃないから別にいいっちゃいいんだけど、出演者が素人だってことすら知らない人物が、有識者枠でトークしてるのはさすがに違和感があったかも。実質有意義な情報を語っているのは、もう片方の評論家さんだけなんだから、小屋のスタッフさんがインタビューする形式でもまったく問題なかったのでは?
少なくとも、専門分野についてひとくさりしゃべってくれと頼まれて、シネマカリテ公開時から存在するパンフレットどころか、Wikiすら目を通さずに壇上に上がる勇気は、自分にはさすがにないなあ(笑)。